朱を喰らうは 異形の竜-Ⅱ
身体の芯で、熱が湧く。
蠢く熱さが身体に満ちる。そうかと思えば頭が冷える。
手足の端から冷えて行く。熱くなる前よりも、いっそう冷たく。
冷たさが熱さを追い詰めて、遂に最深部で包囲した。逃げ場は無い。
空弾倉を抜いて、書留鞄に放り込む。弾倉とて大事な備品だ。映画のように投げ捨てる訳にはいかない。本来ならば薬莢も拾うべきだが、流石に今は許されよう。
予備の弾倉を抜いて、愛銃の尻に放り込む。親指で遊底留めを押し下げると、相棒は再び初弾を装填する。
そうする間にも、〈三本指〉は次の皿に目を付ける。避難を呼び掛け、誘導し続けていた衛生課の三人。
クルマに走るが、一人は間に合わなかった。立体視の範囲は狭くとも、捕食者は正確だ。狙いは違わず、但し、やや力が入り過ぎた。臍を境に千切られて、残った半身は崩折れる。断頭台と舗装道に、血液と排泄物の混濁液が滲みる。
客は暴食だった。今の皿を平らげるより、次の皿へ三本の指を伸ばす。
公用車はイグニッションしたところだ。天井の半ば辺り、恐るべき上顎が振り下ろされる。徹底的に軽量化された車体が、其の一撃に耐えられるはずは無かった。
前後に拉げて擱座する。金目が擦れて火花が散って、漏れた酸素に火を点ける。其の火が燃料を吹き飛ばし、瞬く間に光が爆ぜる。
鬱陶しいとも言いたげに、二歩か三歩か後退る。
二人が車外へ転がり出る。運転席から降りた方が、敢え無く捕まり丸呑みされる。炎から離れた所為だが、車内に居ても蒸し焼きだった。彼の選択を責められまい。
助手席から逃げた方は、足を縺れさせながら走り出す。同僚たちの生み出した、僅かな、然れど貴重な時間を糧に。
しかし、ヒトの足で逃げ切れる相手では無い。そうして〈三本指〉が最後の皿に目を付ける。
ススムは、考えるより早く走り出していた。
律儀に右から追い越して、割り込むようにハンドルを切る。踏んだブレーキにタイヤが啼いて、ブラックマークが弧を描いた。
停まる前から銃を抜き、迫る顎に必殺の――其れは見事に受け流された。ススムの人生史上、最速の抜き撃ちだった。が、至近距離からの銃弾は、細身の滑らかな頭部を舐めたに過ぎなかった。
〈三本指〉が口を開く。新鮮な鉄、融けた肉、つまるところは、死の臭い。
間に合わねえ。
後悔しても遅い。ススムの右手は、アクセルを握れなかった。
まあ、人を庇って死ぬなら仕方無い。思い遺しが無いとは言わぬが、所詮はただの糞餓鬼なのだ。誰に言われるまでも無い。名も知らぬ職員さんよ、俺の分まで人類に貢献してください。
そんな辞世の祈りを邪魔したのは、赤い軽四輪だった。酸素供給を効かせてタイヤを鳴らし、〈三本指〉の横っ面を引っ叩く。瞬時に車内でエアバッグが展開し、赤と白との対比が、まるでススムの機動車みたいだった。
「おあ」
ススムが間抜けな声を漏らす。
三半規管を殴られた〈三本指〉はたじろいで見せたが、ダメージ自体は大きくなさそうだった。何せ〈三本指〉の体重は小型の普通貨物車に匹敵する。交通事故の勝敗は、火を見るより明らかだった。
「馬ッ鹿じゃないの!? 何やってんの!?」
開いた窓から唾と罵声が飛ぶ。まさか伊香の口から、こんな汚い言葉が出て来ようとは。
「す、すんませ――」
「いいから! 早く動いて!!」
車内を埋めるエアバッグ。掻き分け掻き分け、伊香が叫ぶ。何だかナニカに目覚めそうだ。
其処へ迫る〈三本指〉。
「危ねえっす!」
「分かってる!」
後退しようとアクセルを踏むが、前輪が上手く動かない。衝突で歪んだ車体が干渉している。
其処へ〈三本指〉が、掬い上げるように頭突きを打つ。軽い車体が横を向き、玩具のように滑って行く。住宅に当たって嫌な音を立てる。
「伊香さん!」
叫ぶ声に、
〈ススムくん!〉
無線が応える。
何はともあれ生きてて良かった。幸い引火も無かったようだ。
思うが先か〈三本指〉が吼える。空気を震わせ、身を縛る。そして、ススムへ向き直る。
〈ぼッとしないで!〉
其の声が、見えぬ縛縄を引き千切る。
ギアを落としてアクセルを開く。勢いで空転した後輪が、舗装道と噛み合った途端に車体を打ち出す。
〈良く聞いて。応援の到着まで、まだ少し時間が掛かるわ〉
どうぞと言わない辺り、一方的に話すつもりらしい。
二速、三速とギアを上げる。〈三本指〉が追う。
〈佐藤さんも応援で来るから拾って貰うつもりよ〉
あんな男のクルマに同乗するのか。あの悪臭を思い出しただけで、吐き気が込み上げるようだ。
そんなススムに構わず伊香が続ける。
〈今の〈三本指〉はススムくんを狙ってる。逃げて、廻って、時間を稼いで〉
武器も味方も無い状況で、さらりと言うほど易くは無い。
さりとて伊香に頼られて、嫌な気分のはずも無い。彼女が喰われて欲しくもない(彼女にだったら食べられたい)。
〈どうか無事で。気を付けて。ね〉
一方的に言って、一方的に通信は切れた。
そもそも何処へ逃げろと言うか。人の被害の出ない場所、なお且つアクセスし易いところ。心当たりは多くない。だからススムは先刻の道を、逆さに辿ることにした。
背に迫る、竜の殺気を感じながら。
◇ ◇ ◇
もうすぐ〈境界線〉だ。此の辺りは空家が並んでいる。
森林は日に日に拡大している。だから〈境界線〉は何度も何度も後退してきた。
此処に在るのは、其の後退に伴って、打ち棄てられた住宅たちだ。
そんな陰に、ススムは機動車を滑り込ませる。
命懸けの隠れんぼ。幾らか時間は稼げよう。
撃ち切っていないが、弾倉を新しいものに交換しておく。自分のミスで伊香が戦線を離れたのだ。此れを招いた、責は負わねば。
足音が近付いて、通り過ぎて、安堵したところで破砕音が振り向く。流石は捕食者だ、獲物の空気を見逃さない。
エンジンは止めていない。だから即座に発進し、視線を振り切り、また潜む。
其れを繰り返すこと、三度か四度。其の家の窓は破られていて、どうやら空き巣に入られたようだ。僅かな家財が荒らされて、床板までもが剥がされている。
今の世の中、こんなところだらけだ。元の治安が違うから、此れでも日本は良い方だった。
ふ、と見遣れば、縫い包みが転がっている。
熊を象った、可愛らしいはずの其れ。耳は千切れて目玉は落ちて、背や腹からは内臓が。直視に堪えない痛々しさだ。
ふ、と先刻の母娘を思う。
今や誰しもああなるし、其れをどうこう言う気も無い。誰も何れはああなるし、其れは誰にも変えられない。
然りとて総てを受け入れる、そうも清くは出来ていない。
幼子が喰い散らかされるのは、出来れば二度と見たくなかった。
ふ、と気付けば足音が遠い。本格的に振り切り過ぎたか、其れとも流石に飽きたのか。
顔を上げれば〈境界線〉の、倒れた柵が目に入る。其の傍らには一人の子供。
ススムは我が目を疑った。こんなところに何で子供が。問うたところで答えるは無し。
こうとなっては〈三本指〉の眼中にススムは居ない。子供に向かってまっしぐら。足が悪いか腰でも抜けたか、子供は逃げる素振りも無い。
乾いた空気と砂塵を纏い、異形の悪鬼が吼え駆ける。踏み込んで、地面が波打つ。ぱっくりと落ちるかの如く顎を開く。万事休すと思われた――其のときだった。
揺らめく夕陽に、一つ影。尾を曳く如き、赤と白。
迫る鼻さき掠めるように、竜の視線を独り占め。
機動車は、ススムの無茶に応えてくれた。
飛び出して、熊の縫い包みを引き千切る。一瞥すら無く加速して、二速、三速とギアを上げる。
朽ちたベニヤを滑走台に、生垣擬きを飛び越えて。街路と呼べない隙間を縫って、〈三本指〉の尾端に縋る。
左手が握るのはハンドルでは無く拳銃だ。郵便配達に特化した此の二輪車は、右手と両足だけで、四肢のように扱える。
だからススムは左側から走り込んだ。今度こそ幸運は無いのだ。右肘の内側にトリガーガードを宛がって、併走しながら三発を見舞う。今は痛みも忘れられる。酸素供給を効かせて追い抜いて、幅寄せの如く車体を倒す。悪鬼の進路と交差する。
ふしゅうを聞きつつ、トリガーを引く。喰らい付かんと牙を剥く、其処へ二発を馳走する。一つは舌で弾け飛ぶ。あとの一つは歯を砕き、跳ねて左の「頬」を裂く。
起こした車体を左へ倒し、配達仕込みの転回を決める。シフトをダウンへ踏み込んで、離さぬ限りはクラッチが切れる。リアブレーキで制動し、頃合いを見たら右手も離す。例え両手を離しても、挙動が分かれば転倒しない。姿勢制御感覚で何とかなる。する。
空いた右手で銃把を掴み、両手で以て最後の三発。手もとで焔の華が咲き、目もとで散るのは朱の潮。狙い通りか偶々か、右の瞼と瞬膜を切る。
思わぬ痛打に、〈三本指〉が仰け反る。流血が入り、右眼が赤く染まる。
――今だ。
「おい、乗れ!」
〈三本指〉から目を離さずススムが叫ぶ。
鼻さきを振って、残る左眼で二人を睨む。爛々と、燃える。
「おにいさん……?」
戸惑う子供。少女の声。
視線は飽くまで〈三本指〉に、左目の端で腕を掴む。ひんやりとして、か細くて、とても滑らかな肌だった。
其れを、構わず、ぐいと引っ張る。ふわと乱れた黒髪が、ぱらりぱらりと視界で踊る。
「いったぁーい……」
強引に、華奢な身体を、膝の上へ引き上げる。そう、華奢な身体を――
「重っ!?」
逆に転びそうになったところを、右足を出して踏み留まる。
知識が豊富な小山内ススムは、此の姿勢の名を知っている。伊達に顔だけ老けてはいない――此れこそ所謂対面座位。
初体験の感動に、少女の匂いが華を添える。芳しいのに青臭い、野花のように力強い、匂い。
何とか抱える肩越しに見れば、牛乳缶のようなものを背負っている。ごちゃごちゃとした機械が貼り付いていて、脇には一メートル半ほどの棒まで刺さっている。邪魔臭いこと此の上無い。
ぐあ、と〈三本指〉が下顎を落とす。
「じょせいにむかっておもいなんて――」
左手は少女を支えたままで、アクセルを開く。
耳元で騒ぐ抗議すら置き去りにして機動車が走る。ハンドルは左。擦れ違うように死角に逃げ込む。
「しつれいじゃない!?」
「分かった分かった、後で聞くから」
今のススムに、返事を求めるのは酷だった。
たかが〇・〇五リットルの排気量だ。少女の体重を三〇として、牛乳缶が一五キログラムほどあるだろうか。もう此れだけで積載量を超過してしまう。
要は真っ直ぐ走るのも精一杯なのだ。しかも路面は未舗装で、左手はハンドルを握れていない。
此処で転べば仲良く〈三本指〉の胃袋行きだ。其れは流石に、恰好も付かない。
徐行、と言っても倒れぬ程度で、大きく左へ回頭する。何とか、漸う、九〇度。
速度が乗れば安定すると、言ったところで速度が出ない。まして此処らは〈境界線〉で、酸素濃度は右肩下がり。
どろどろどろ、とエンジンが啼く。法定速度は恐れず済むが、今の懸念は肉食竜だ。其れと抱えた、此の少女。
「もう! きいてるの!?」
再び抗議の声が上がる。いや、全く聞いてなかった。
「いや、全く聞いてなかった」
「しんじらんない! そんなことじゃ、じょせいのこころはつかめないんだから!」
ビッグな御世話だ畜生め。謎の自信に満ち満ちた、其の口振りには覚えがあった。
僅かに顔を動かして、僅かに目だけで少女を見遣る。大きくて、元気な瞳が見上げている。流れるような、蒼すら思わせる黒い髪。
「わかった!? 〈はいたつがかり〉さん!」
「〈歯磨き係〉……!!」
彼女は、ススムの胸もとでふんと笑った。
「また、あったね」
其の鼻息が制服を押して、ススムは自分の汗臭さが気になって仕方が無かった。乳と、尿と、汗の混じった、少女の甘い匂いを感じたから、尚更だった。
彼女の顔こそ見えないけれど、自分を見上げる元気な笑顔が容易に想像できたのだった。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
朱を喰らうは 異形の竜-Ⅱ
―完―