森に秘するは 歯磨き係-Ⅱ
【前回までの粗筋】
小山内ススムは郵便配達の非常勤職員。銃を手にして、機動車を駆って、今日も何とか命を繋ぐ。
妖しい人影から、〈歯磨き係〉を遠ざけた。一方〈歯磨き係〉は〈研究所〉の奥へ消えて行く。彼女の秘密を知りたいススムは、彼女に内緒で彼女を追った。其の道中で、支社付きの若き女室長・羽田十六夜と出会い、行動を共にすることになる――
「9型けん銃」は、短身小口径の回転式拳銃だ。アメリカから自衛隊を経て、郵防公社へ行き着いた。例によって、御下がりの御下がりだった。自衛隊に於いては「9.65mmけん銃」の名で、主に後方へ供されていた。
装弾数は六。回転式拳銃である以上、再装填にも手間が要る。三八口径の弾丸は、優れた精度の一方で、かたい鱗に分が悪い。そう言う訳で、公社でも、主に後方で使われる。尤も支社の人間は、銃に触れたがらない者も多い。支給と同時に返納されることも珍しくない。
「〈小鎌付き〉が、三」
「はい」
羽田の姿勢は異質と言えた。左手を握り胸に載せ、右手一ツで銃を振る。
扉を出た先は、小さな空間になっていた。古い石畳に覆われて、先は階段が降りている。此処は高台になっていて、山肌の側に在るらしい。蒸せる熱気に青さが噎せる。
隙間から生える下草を、〈小鎌付き〉ががさりと揺らす。羽田が小さく口角を引き、六ツの鉛が草葉を射抜く。
「再装填するよ」
「ッ、了解!」
思い切りの良さに圧倒される。しゃがむ羽田を庇うよう、左の脇から進み出る。
〈小鎌付き〉が着る灰の毛は、乾燥地帯に適したものだ。然し、こうして草木に入れば、緑を映して影に溶け込む。
下草が揺れる。左に二ツ。右半身を引いた姿勢で、二発を放る。手応えは無い。
「オサム、大丈夫だ」
「……はい」
じとり、と嫌な汗が肌着に沁みる。影を追いつつ三発を撃ち、遂に四ツ目が命に中る。弾丸に背骨を巻き込まれ、捩じるようにして身体を折った。
ススムは鼻から息を吐き、横目で羽田の具合を見遣る。左へ振り出した弾倉は、既に空薬莢を吐き出している。其処へ新たな弾薬が、六ツ同時に挿し込まれる。弾倉が戻り、装填を終える。早い。
「流石は四五口径だねェ――っと、御待たせ」
「あと一ツです」
「ン――?」
羽田の厚い唇は、肯定の音を出し掛けた。其れが途中で疑問符を打つ。ぎこちない足を踏み出して、ススムの斃した相手へと寄る。
ススムは小さい背を追うが、残り一ツが気掛かりだった。斯くして左の茂みが揺れる。即応、発砲、命中しない。そして遊底は下がったままで、残り一ツも無いと言う。しまった。
――と、思ったときには、羽田の拳銃が火を吐いていた。連なる六ツの弾丸に、奪徒は小さく声を漏らした。茂みの蠕動が去っていく。
「ちゃんと弾倉交換しなきゃ駄目だろう?」
「……済みません」
「って、アタシが勝手に動いたからか。ごめんよ」
甘えを許さぬ叱責が、誤魔化すような笑顔に変わる。流石に舌こそ出さないが、血色の好い唇に、ススムは視線を奪われる。
そうする間にも、羽田は再装填を済ませてしまう。ススムも慌てて、腰に回した鞄を開ける。
羽田は左の口角を上げ、先の一体に向き直る。幸か不幸か、まだ生きていた。生の水面に擡げた頸を、羽田は違わず撃ちのめす。
「オサム、見てみな」
「……何すか、これ」
羽田は何も、仕留めた獲物を誇るのでない。亡骸の横に転がったのは、別の動物の一部のようだ。ごつごつと瘤が繋がって、サイズ以上に大きく見える。
「〈鬼棍棒〉の子供だろうね」
〈鬼棍棒〉、重き甲を装する頭は、最大級の膠着竜類だ。先日〈歯磨き係〉が着ていた寝間着は、正に本属を模していた。短い四肢と平たい身体、特に幼体では愛嬌が勝つ。だが、成した体躯の堂々たるや、名前に一歩も劣らない。
「だとすると、親が近くに?」
木々の騒めきに首を振る。何も無く、生温い風が空気を混ぜる。
羽田は煙草の箱を置き、電話を取り出し写真を撮った。うーン、と唸って、ススムとは別の懸念を返す。
「幾らチビだと言ってもねェ、〈小鎌付き〉どもが引き千切るのは難しいかも分からんね」
「てことは」
「あァ」
葉が擦れて、枝が折れる。羽田が煙草をコートに仕舞う。湧き出る汗は気化せずに、不快の姿で肌を這う。
緑の額に、青い空。黄のVサインが迫り上がる。其の滑稽さは、直ちに不穏が駆逐した。
「下手人の御出座しだ」
◇ ◇ ◇
現れたのは〈鶏冠持ち〉だ。頭部に二枚の半円を飾る、二ツの隆起を有す竜。ほっそりと長い六メートルは、華奢な印象すら受ける。〈三本指〉より小さいし、形態的には旧さが見える。だが、其れだけだ。襟は巻かない、毒も吐かない、そんなものなど必要の無い、ジュラ紀前期の怪物だった。
「ッ、散開!」
羽田の号令は早かった。〈鶏冠持ち〉の一撃は、湿った空気に喰らい付く。跳んだススムの直ぐ右が、腐肉の臭いに満たされる。〈三本指〉より小型でも、死への距離など変わらない。
「オサム! 下だ!!」
着地に多々良を踏みながら、先の階段を指し示す。
了解、と走るススムへ、擦れ違った〈鶏冠持ち〉が向き直る。細長い身を、尻尾の先までくねらせて、器用に小回りして見せた。被食者としての本能が、ススムに嫌悪を喚起する。
黄土の鶏冠に浮いた血管が赤黒く、興奮のさまを隠していない。獲物を奪われ、追って来て、激昂していない訳が無い。
「ヘルメットを外せ!」
言われるがまま、顎のバックルに手を掛ける。目の前で落ちた白い半球に〈鶏冠持ち〉の意が注がれる。
羽田が其れを、三八口径で弾いて見せた。ボールにじゃれる子犬のように、前肢で押さえて齧々とする。
其の隙に、ススムは階段を降り掛けている。だが、〈鶏冠持ち〉の飽きも早かった。白い玩具で遊んだ後は、黒い玩具が目に留まる。
地を這う蛇やら蝎の如く、滑らかな所作で羽田に迫る。だが其の脚は、古い石畳を波立てる。ぎこちなく走る羽田の足を、揺れる石畳が掬い取る。
「羽田さん!」
「来るな!」
無様に転がる羽田が叫ぶ。撃てば羽田へ誤射してしまう。看過するのは出来そうになく、降る階段を引き返す。
仰向けの身体を捩る羽田へと、隆起を翳して迫る竜。羽田は左脚を振り上げる。余りに儚い抵抗を、〈鶏冠持ち〉の歯が貫いた。
ススムは瞬時に身を固めたが、悲鳴は聞こえてこなかった。それどころか、喰われた足へと身を起こし、有るだけの弾丸を撃ち込んでいる。
眼球を狙ったのだろう其れは、鶏冠を穿って血飛沫が咲く。だが、羽田の解放は叶わない。漁食も可能な円錐の歯が、美事に足を捕まえている。くわえて、上顎先端を動かして、上手く獲物を閉じ込めている。そして、獲物の抵抗を殺そうと、前後と左右に頸を振る。
「オサムぅ! 頼んだよォ!!」
「へっ?!」
何を頼まれたか知るより早く、羽田の身体が飛んで来た。左脚の脛から下は、〈鶏冠持ち〉の口元にある。其れを切り離した勢いのまま、低伸弾道がススムに刺さる。幾ら羽田が小柄だとても、ナイスキャッチは不可能だった。況してや此処は階段だ。重力の下に導かれ、ぐちゃぐちゃになって落ちていく。
漸う踊り場で止まったときに、羽田の肩越しに鶏冠を見遣る。口に遺った羽田の脚を、呑み込んでいた。ぐっと両手に力が入る。
「アタシの乳が気に入ったかい。ガールフレンドに言い付けちゃうよ」
「えっ!? いや、あっ、えっと、すみまs」
左手に、コートの奥の豊かさを。右の手に、スラックス越しの肉感を。言われて初めて知覚して、知覚してから手を離す。
「冗談だよ。拾ってくれて、ありがとうね」
「いえ、あの、ありがとうございます」
「礼を言われるのも――まァ、いいや。其処の横穴へ連れてっとくれ」
「あ、は、はい」
「悪いねェ」
足を喪くした羽田を背負う。幸い、追っては来なかった。
◇ ◇ ◇
「獲物も返したし、〈小鎌付き〉どもの肉も有る、隠れさえすりゃあ大丈夫さね」
「だと良いんですが」
横穴の入り口に〈化石の地下壕〉なる銘板が有る。羽田の言う「穴ぼこ」の一ツなのだろう。深い茶色の土壁に、白い貝化石が無数に見える。中の空気は冷たくて、火照る身体の汗が引く。
「オサム、ちょっと降ろしとくれ」
はい、と応えてススムは止まる。左の肩は預かったまま、右足一ツが壕を踏む。
「あの、何て言うか、大丈夫なんですか」
「うン?」
「あ、足です」
「あァ、驚かせたかい。御覧の通り、義足だよ」
羽田は何処から取り出したのか、傘の骨のような軽金属を、かちゃりかちゃりと引き伸ばす。其れを左膝に接続すると、ススムの右肩は解放された。かちゃりかちゃりと踏んでみて、馴染み具合を確かめる。
「ま、今どき珍しかないだろう?」
「そう、ですね」
「おっと、嫌な話をしてしまったね。許しとくれ」
「いえ、大丈夫です」
謝るべきは、自分のほうでは無かったろうか。などとススムは反省したが、かちゃりと羽田が胡坐を掻いた。
「ちょっと一服させとくれ」
「どうぞ」
「何を突っ立ってンだ。座ンなよ」
羽田が左をばんばんとして、ススムは其れに従った。床と壁は冷たくて、身体の粗熱を奪ってくれる。
紙巻煙草を口にして、「あれを御覧」と羽田がしゃくる。
針葉樹の、一等太い枝先が、何やら黒く膨らんでいる。其れに集った小さな影は〈蝙蝠擬き〉と見えたので、ふくらみが何か察しが付いた。
オイルライターが用を成し、金属の音で火を消した。思った以上に、匂いが強い。
「まさか」
「あれが奴らの趣味なのサ。オサムも、ああなるはずだった」
まるで百舌の早贄だ。貫く嫌悪が脳まで届き、知らずと肛門に力が入る。
「其れで済んで、幸運だった」
何がですか、と誤魔化す前に、右の前腕を示される。
観念して袖を捲る。肉が醜く盛り上がり、深い裂け目を埋めている。今や痛みは殆ど無いが、偶に疼々して気持ちが悪い。
「恐竜人間にやられた痕だね」
「信じるんですか?」
「疑う根拠が無いからね」
煙の匂いを撒きながら、事も無さげに羽田が言った。
今まで、恐竜人間のことを口外しなかったのは、佐藤の言い付けだけが理由ではない。信じられるわけがないからだ。恐竜人間に襲われたなどと吹聴すれば、其の瞬間から非科学趣味者と見做される。古今の例が、そうあるように。
其れを、羽田は信じると言う。ススムを、と言うよりも、自ら扱う情報を、ではあるが。
「防衛業務支援系統《DOSS》のデータが何処に送られると思ってンだい? ありゃあ生のデータだし――嘘を吐く理由なンて無いだろう」
途中で煙を吐き出して、羽田がススムを横目で見遣る。
ならば、とススムは意を決す。
「あいつは、何なんですか」
「見ての通り、恐竜人間サ」
煙とともに、羽田が笑う。
「でも、恐竜人間は」
「ああ、思考実験の産物だ。そういうことになっている」
惹子に聞いたことがある。恐竜が滅んでいなければ、どんな姿になっただろうか。もしかすると、哺乳類の一種に似ていたかもしれない。大きな脳を有する種属が、ヒトに似た形態を獲得したのではないか、と。
「あまりに驕った結論サ。進化とは、ヒトに至る途と言いたいのかね。――結果として、学者よりもSF作家に歓迎された」
厚い唇が皮肉に歪む。紙巻煙草が紫煙を上げる。
「爬虫類人、てのは聞いたことがあるかい?」
「未確認生物とか、そんなやつですか」
「読んで字の如く、蜥蜴人間だ。地下から人類を支配している、なンて言われているね」
爬虫類人、蜥蜴人間、そして恐竜人間。羽田は何を言っている?
恐竜人間は、思考実験の結論では無い。爬虫類人は、非科学趣味者の戯言では無い。
「そいつらが、隕石衝突を狼煙に代えて、地上を取り戻しにやってきた、と言うわけだ。――そして、恐竜人間も、爬虫類人も、真面なやつほど相手にしない」
羽田が言っていることは、羽田が言っている通り、真面な話とは言い難かった。
「奴らが居るのは、地面の下じゃァないンだよ。意識の下に棲んでいたのサ」
脈が早くなる。つるりと張った傷痕の下で、何かが疼いて気持ちが悪い。
「オサムこそ、アタシの言うことを信じるのかい?」
「ええ」
「何故」
「疑う根拠がありません」
ふン、と羽田が笑う。携帯灰皿に煙草を捨てて、かちゃりと腰を持ち上げる。
「さァ、行こうか。〈歯磨き係〉は此の先に居るはずだ」
ススムは一ツ肯いて、羽田の背中に従った。
壕の中を、足音が満たした。
◇ ◇ ◇
「長いんですか、此処」
「此の穴自体は短いけどね。総延長は、かなりのもんだよ」
足元はコンクリートが打ってある。其処に埋まった照明が、やんわりと壕を明らめる。白い貝化石が照らされて、淡い存在が浮き上がる。
物置に使われていたのだろう。さして大事そうで無いものが、乱雑なさまで臥している。そう言う何かを擦り抜けながら、羽田は何とも無さげに言った。
実際に、大事なものでは無いはずだ。此処は階段の中腹で、車両の乗り入れも出来ないだろう。捨てるに捨てられないものたちを、詰めておきたい場所がある。
「此処ほど大きくないらしいけど、潮路にも在るんだって?」
「本当ですか、聞いたことないです」
「ま、潮路とは、会社も飛行機も違ったらしいがね」
「えっ、飛行機を作る場所なんですか」
「〈決戦爆撃機〉なんて呼んでたそうだ。全く、ヒトの執念は恐ろしい」
地下の狭い場所で作るのだから、銃とか弾だと思っていたが。其れに、ススムにとっての飛行機は、写真や映像で見るものだ。此処で飛行機を作るなど、恐ろしの竜を起こすより、荒唐無稽な気がしてしまう。
羽田の差し出す手を取って、資材の谷間を漸う抜ける。両脇の壁が、行く手で繋がり塞がっている。
「あれ、行き止まりですか」
「んにゃ、此奴の奥が、続いているね」
地面に嵌まった格子の蓋を覗き込んで羽田が言った。
「ヒトの執念って言うやつですか」
「知的探求心は、ヒトの生存戦略サ」
上手いこと言ったつもりだったが、矢張り羽田には敵わなかった。
羽田の翳した白い光が、縦穴のさまを明らかにした。
「どうやら送水管らしい。空調用の地下水だろう」
「そんで梯子はメンテ用ってわけですか」
「そんなとこだろうね」
なるほど、ススムが仕事をする番だ。腰を落として手を掛ける。重い。
不快な金音が閉所に響く。端を何とか角へと乗せる。一息を吐く。
「何て言うか、こんなとこから入れるんすね」
「まァ、此処は施設の〈内側〉だしな」
「でも先刻、セキュリティが厳重だって」
「ほら、此れを御覧」
羽田が指差す地べたには、コンクリートの擦り傷がある。無論、ススムが付けたものとは違う。
「オサム、アンタ、出勤したけど職員証を忘れました。さァ、どうする?」
「駐輪場は職員証が要らないので、其処からパスコードで入ります」
「一〇〇点満点の回答だ。其の跡も、忘れ物した誰かだろ。ヒトが人間である以上、必ず何処かに間が抜けるのサ」
そして、其れに付け入るが羽田の仕事と言うわけだ。今更ススムは得心するが、当の羽田は溜息を吐く。
「でもねェ、」
「?」
「此れでも支社の人間だしね、頭の痛い回答でもある」
んふふ、とススムは笑いを零す。腕の力が霧散して、両手から蓋が離れてしまう。
そんなススムを半眼で睨み、羽田は呆れた声を漏らした。
「笑いごっちゃァないンだよ、全く」
◇ ◇ ◇
梯子を降り切ると、其処は天井裏のようだった。空調らしき配管が、ごんごんと音を立てている。
羽田が、おや、と呟いた。懐で、電話が振るえているようだった。羽田が「失礼」と眼で言って、ススムが「どうぞ」と手振りで返す。
「――どうした、うン、うン? ……あァ、繋いでやンな」
電話の相手は、先も話した女性だろうか。情報室への入電が、羽田の手元へ転送される。
「やァ、御無沙汰しているね。佐藤課長」
わざとらしく、羽田が言う。ススムは反応してしまい、羽田の口角が僅かに上がる。
無駄に大きな上司の声が、受器から漏れて来る。肌に心地良い地下の空気が、一気に汚された気持ちになった。
〈御忙しいところ、申し訳ありません〉
「今ちょっと現場に居てね。手短に行こう」
〈はい。報道関係者らしき二人組を拘束しました。戦略情報室の足しにはなりませんかね〉
「ふン、良いだろう、うちで引き取ってやる。で、本題は?〉
羽田は、佐藤の示した手土産を、返す刀で手札に替えた。ススムが其れに気付くのは、今から暫くあとになる。
〈……実は、備蓄の弾薬が少なくてですね〉
「なるほどね。坊田は、回してくれないッて?」
〈はい。何とかなりませんか〉
「佐藤課長、丁度好い、アタシもアンタに御願いが有る」
〈……何でしょう〉
苦虫を呑んだ蛙のような、佐藤の表情が目に浮かぶ。佐藤が負かされるのは楽しいが、己の想像力が恨めしくなる。
「そう構えなさンな。御宅の若いのを借りている」
〈小山内ですか〉
「ふふン。使ったり、壊したぶんはウチが補填する。彼は一切、御咎め無しだ、良いな?」
実は、其れが大きな気掛かりだった。対応指揮局の許可無く発砲し、更に備品も喪った。小言では済まず大事になる、そんな確信がススムにあった。
〈……承知しました〉
「良い返事だ。じゃァ、朝日の加東協会を訪ねて御覧」
〈朝日市の、加東協会、ですか〉
「会長と少し仲が良くてね。アタシの名前を出すと良い」
〈……ありがとうございます。行ってみます〉
ススムは強く感動していた。とても大きな感動だった。佐藤を完全に遣り込める、此れが戦略情報室の、羽田室長の力量なのか。
だからこそ、羽田が通話を終えたとき、ススムは感謝を口にした。心からの感謝だった。
「待たせたね」
「あの、ありがとうございます」
「うン?」
「御咎め無しってやつです」
「礼を言われるのも、変な話サ。アタシを手伝った上の消耗だ、当然だろう」
「其れでも、です」
喰い下がらんとするススムのさまに、羽田は呆れた苦笑を見せた。
「何だ、佐藤課長、そンなに口五月蠅いのかい」
「ええ、そんなに口五月蠅いんです」
あはは、と羽田は笑いを零す。ススムの肩をぱしぱし叩き、釣られて義足もかちゃかちゃ笑う。
そんな羽田を困って見詰め、ススムはむくれて声を漏らした。
「笑いごとじゃあないんすよ、本当」
◇ ◇ ◇
「加東協会、データベースにヒットしました、が……」
通話を終えて受話器を置くと、同時に伊香が声を出す。持つべきものは、優秀な部下。だが、佐藤は知っているのだ。
「廃業しているだろう?」
「ええ」
「協力事業者でな、以前は郵防公社と提携していた。関係も、まあ、悪くはなかった」
伊香は、佐藤が知っていたことに、驚きを口にしなかった。然し、続けて現れた情報に、疑問を思わず口にした。
「所在地、此れ、〈研究所〉の……?」
「ああ。〈研究所〉付近の警備を請け負っていたんだが、事故で事業所が失くなった」
まさか朝日市に潜んでいたか。
朝日市は潮路市より小さいが、其れでも六〇〇〇〇の人口がある。其の中で、存在しない業者を探す。普通だったら容易では無い。
佐藤が再び電話を取ると、伊香も端末に向き直る。普通だったら容易では無い。だが、郵便局なら不可能では無い。
◇ ◇ ◇
羽田とススムが降り立ったのは、空調の機械室だった。
喧しく唸る部屋を抜けて、廊下を歩く。一ツの小部屋が目に留まる。
「宿直室?」
「寝ずの番が要ったんだろう。丁度好い、ちょっと汗だけ流しておいで」
「え、あっ、其れって」
羽田が言いながら扉を開ける。玄関の先の四畳間は、詰まるところは寝室だ。左手は狭い脱衣場に洗濯機が置いてある。奥はシャワールームになっている。
男女が汗を流した後に、寝室で、することと言えば一ツだけ。ススムは顔を赤らめて、心の準備を整える。
「ナニ考えてンだ、此の馬鹿野郎。アタシの匂いを付けたまま、ガールフレンドに会うつもりかい」
「あっ、えっ」
「良いから早々と行ってきな」
尻を蹴飛ばされる勢いで、シャワールームに放り込まれた。備えた心を空振りさせて、栓を捻って水を出す。すぐに水は湯に代わり、汗と脂を溶かしてくれた。
ざあざあと喚くシャワーの音は、脱衣場に現れた羽田の気配を掻き消した。羽田が赤らんだ其の顔を、ススムの下着に埋めたことも、当のススムは知る由も無い。
◇ ◇ ◇
汗と皮脂の膜を脱ぎ捨てて、肌に直接、冷気が刺さる。肌寒さすら覚えるほどだ。
「あの、出ました。洗濯、ありがとうございます」
「つッても水で回しただけだし、生乾きだと思うけど」
「いえ、着てれば乾きますから」
脱衣場のカーテン越しに、羽田の声が返って来る。ハンガーに掛けられた制服たちは、空調の風を直撃されて、ひらりひらりと踊っている。ススムは下着を手に取った。此れに羽田が触れたと思うと、強い血流が蘇る。
着替えを済ませて、カーテンを開ける。畳に羽田が腰掛けていた。仄かに上気して見えるのは、ススムの願望込みだろう。血色の好い唇が、ぷるんと揺れる。
「すっきりしたみたいだね」
「……御蔭さまです」
何だか気不味い。
其れを誤魔化すように、羽田が付け加える。
「あと、そっちに警備のヘルメットが置いてある。二輪と規格は違うけど、帰るだけならバレないだろう」
「大丈夫すかね……?」
「へーきへーき、適当に借りときな」
いつもの調子を取り戻し、羽田が軽々と言う。
脱衣場の逆を覗いてみると、狭い物置になっていて、段ボール箱が積んである。其のうちの、ヘルメットと殴り書かれた箱のなか、白い半球が重なっていた。細かい部分の差異こそあるが、確かに遠目にはバレないだろう。
後頭部には、個人の名前がラベルで貼られているようだ。幾ツかの名前が連なる奥に、「予備」と書かれたものがある。此れは好都合だと引っ張り出すと、内の一ツが転がって来た。
拾った其れの後頭部には「佐藤 辰斗」と記されている。害虫に触れた神経で、考える前に投げ出していた。からんからんと音を立て、箱の向こうへ転がって行く。
「何やってンだい、行くよ」
「あ、はい、すんません」
先行く羽田に急かされて、ススムも小部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
ざぶん、って、あたまのさきまでつかる。
おおきくみずをすいこむと、はなのおくが、つんとする。もうなれたけど。
めをあけると、じぶんがいる。みぎと、ひだり、うしろにも、いる。じぶんにみられるのは、すきじゃない。でも、いまは、きらいでもない。
なかと、そとから、からだにしみる。なんだか、このまま、とけちゃうみたい。
こうなると、いつも、ねむくなる。きょうは、おにいさんが、まってるから。きょうは、すこしだけ。
すこしだけ、おやすみなさい。
◆ ◆ ◆
恐竜の 歯磨き係と 配達員
森に秘するは 歯磨き係-Ⅱ
―完―