森に秘するは 歯磨き係-Ⅰ
【前回までの粗筋】
小山内ススムは郵便配達の非常勤職員。銃を手にして、機動車を駆って、今日も何とか命を繋ぐ。
雷竜と小型翼竜を退けて、潮路郵便局には日常が戻る。〈歯磨き係〉も加わって、忙しく、貴重な日常だった。
そんな潮路局を嗅ぎ回る人影が居て――
潮路郵便局は、いつもの忙しい朝を迎えた。
落ちる雷、閃く翼。あの騒ぎから数日になる。週が明け、梅雨の終わりに手が届く。
各員の奮励と超過勤務が、局に日常を取り戻させた。
だから、いつもの忙しい朝だった。
郵便局、特に集配営業部は朝が勝負だ。此処で躓けば、退勤時間に直結する。定時の退勤を目指すなら、午前半分で不足する。スタートダッシュが肝心になる。
八時の始業で体操をして、「大区分」と呼ばれる仕分作業や、配達順に並べる「戸別組立」の作業に掛かる。其の他、諸々の行程を経て、一〇時に出発していたい。一〇〇人近くが時間に追われ、部内は喧騒に満ちている。
郵防公社も、基本的には集配に沿って業務を行う。別組織を笠に無視すれば、無為な反発を産むからだ。そも、郵防公社の協力社員は、局の定員から召し上げている。定められてはいなくとも、心情的には当然だった。
具体的には、ススムの配達するぶんを、伊香が準備する寸法だ。
「佐藤さん。ススムくんのぶん、出来ました」
「おう」
正に時刻は一〇時前。書類を見たまま佐藤が返す。
戸別組立は、単に並べるだけではない。一通一通の宛先を、一軒一名まで精査する。確認、確認、また確認だ。手間と忍耐の作業だが、伊香の仕事は、本職たちと遜色ない。
彼女は静かに、自席へ座る。
「〈歯磨き係〉は地下訓練場か?」
「ええ、〈蝙蝠擬き〉と遊ぶとか。始業から、ずっと」
地下訓練場は潮路郵便局の予備室で、郵防公社が借り受けている。其れゆえ一般局員に触れ難く、遠ざけるには誂え向きだ。
「そうか」
「不思議な子です、ね」
伊香の端末は、マルチモニタを兼ねていて、訓練場の様子も見えている。粗末な画質の絵の中で、荷台箱が鮮やかだ。〈歯磨き係〉はかくかくとして、〈蝙蝠擬き〉とじゃれている。追い掛けっこの末に彼らは、赤い箱へと納まった。
佐藤が返事をしないで居ると、伊香は視線と話題を変えた。
「坊田局からの返信、有りましたか」
「返信は有った」
右手で定形の封筒を渡す。白地に赤の帯が走る、通信業務に用するものだ。
伊香が開いた四ツ切り用紙は、無闇なほどに白かった。
「『我に余剰弾薬無し。調整の上、追って連絡する』……またですか」
「分かっていたことだ」
封筒を受け取るべく顔を上げれば、部下は遣る瀬無い表情だった。
坊田局からの回答は、予想されたものだった。だが、要請して、保留された、其の事実は必要になる。
「別のルートに掛け合うさ」
そう言って、机上の端末を打鍵する。
伊香は僅かに表情を崩して、自分の仕事に取り掛かる。出勤の印を確かめて、超勤時間の算出をする。引っ切り無しに電話が鳴れば、コールセンターの真似事だ。総務や経理の仕事だが、業務協力の一環で、一部を伊香が請け負っている。
そうして職務に励むうち、喧騒の群れが配達へ出る。彼らの背中を見送って、伊香がモニタに視線を落とす。え、と零して画面を睨む。呼ばれた佐藤は顔を上げ、何だと返して目を合わす。
「――不審者です」
機動車の、斜路を駆け上がる音がした。
◇ ◇ ◇
「分かりました。五、八、一、〇、です」
「五・八・一・〇、ね」
郵便局を守るのは、たった四桁のパスコード。作業に追われる精神が、大きな機構に綻びを産む。荷物を積み込む職員に、業者を装い訊ねれば、鬱陶しそうに教えてくれた。膨大な個人情報を取り扱うには、余りに粗末な防犯体制。郵防公社が駐在しても、そんなことでは変わらなかった。
郵防公社の存在は、今も世論の不信が深い。郵政公社の再国営化は、厳しい視線に晒されている。いつの世も、銃と公僕は嫌われる。存在感を示したい郵防公社が、無用の脅威を煽っているとの言も在る。
巨大翼竜を逃したこと、小型翼竜を捕らえたこと、此れらを公表していないこと、など、など。白昼の高校で起きた大立ち回りだ、証言だけなら山ほどあった。だが、証拠は毛筋も残っていない。写真や映像は、唯の一人も撮っていない。
現状は、謎の少女の件も併せて、オカルトとして処理されつつある。ならば、現物があれば、そうはいくまい。
御客様用駐車場から、斜路を降れば駐輪場だ。其の最奥部でコードを入れる。扉の先には廊下があって、〈訓練場〉へとアクセス出来る。翼竜と少女は、間違い無く此処だ。
右手に小型のカメラを構え、左手を銀のドアノブに置く。
そうして、がたんと開けて放てば、部屋の中身は空っぽだった。荷台箱がぽつりと座して、大きな口を虚ろに開く。
「何を探してる」
低いのに、上擦るような不快な声だ。振り向くより早く、右手のカメラを打ち払われる。相棒と二人、訓練所内に投げ飛ばされて、カメラの行方は見なかった。
「ぐえ」
「報道関係者らしき三〇代の男女、不法侵入につき〈非常措置:治安維持〉を開始する」
郵防公社の「特権」たる〈非常措置〉は法規の違反を免れる。其の為に、開始と終了を記録しておく必要がある。宣言は、音声による記録行為だろう。他人事のように思っていると、あっさり親指を結束された。
「ぐええ」
「離せ、と言っても離してくれないんでしょうね」
「そりゃあ、そうだ」
郵防公社の男――調べによれば佐藤と言うはずだ――が、にこりともせずに見下してくる。
御土産も無しに帰れない。相棒に軽く目配せすると、彼は目だけで頷いた。
「潮路北高校の生徒が犠牲になったようですが、如何御考えですか? 郵防公社は事前に、若しくは、より迅速に対応が出来たのでは?」
彼の胸ポケットには、録音端末が縫い付けてある。丁寧なのは言葉だけで、微塵の敬意も滲ませぬ。失言を一ツ引き出せば、暫くは其れで騒げるだろう。
「そんな被害を出していて、巨大翼竜をおめおめ逃がしたのは何故ですか?」
「取材なら、広報室へ訊くことだな」
「市民は現場の声を求めてるんですよ」
唇の端を持ち上げて、しゃあしゃあと言う。自分のやらせたことながら、主語の大きな物言いが、いっそう腹立たしい。
「小型の一匹を捕獲したとの噂ですが、如何するおつもりなんですか? あの少女は何なんです? 若しかして〈飼育員〉の――」
彼が其処まで言ったところで、佐藤の拳が降ってきた。ぐえええ、と言う悲鳴の下に、機械の壊れる音がした。御土産は、諦めたほうが良さそうだ。
「やめて、死んじゃう」
「殺しはしないさ」
「じゃあ、警察に突き出すのかしら?」
不法侵入に異論は無いが、実際のところ「入った」だけだ。厳重注意が関の山だろう。すぐ戻り、別の尻尾を踏ん付けてやる。
「其のつもりだったが、やめた。最高の取材先を紹介してやる」
「……何よ」
「支社の情報戦略室だ。知りたがりには丁度良い」
支社付き情報戦略室は、黒い噂の絶えない組織だ。なかでも東海支社には、若き女室長が居て、かなりの遣り手と聞き及ぶ。其の実態は、尻尾どころか影すら踏めない有様だった。
「死ぬほど色々、教えて貰え」
落ちたカメラを拾い上げると、男は〈訓練場〉を後にした。
鉄の扉が五月蠅く閉まり、施錠され、照明が落ちた。
◇ ◇ ◇
局を出立した機動車が、街を擦り抜け北へと向かう。出国〈関所〉を潜ったら、酸素供給を効かせて森へと至る。木々が織り成す隧道の、静かに蠢く根っこを踏んで、二ツの輪っかが飛び跳ねる。
がたん、がたんと、荷台箱が五月蠅く喚く。なるほど、確かに道は悪いが、其れだけでは無い揺れ方だった。
小山内ススムは高校生だ。励むか否かはさて措いて、平日午前は本業のはず。事実、同期の惹子など、昼から出勤するはずだ。
其れでもススムが機動車を駆って、森を掻き分け進んでいるのは、佐藤の下した命令ゆえだ。郵便局に限らずも、職場の書類が一枚あれば、学校の出席は公休になる。そもそも、学徒に副業を奨励するのが、〈隕石衝突〉以後の政策だ。労働が教育に優先するのは、今や当然のことだった。
斯くしてススムは佐藤に呼ばれ、朝から潮路郵便局へ足を運んだ。事情説明もそこそこに、持つものも持たず追い立てられた。言い訳のように持たされたのは、〈研究所〉宛ての郵便物だ。伊香が準備をしたぶんは、午後の仕事になるだろう。
そしてハンドルを握っていたが、遂に耐え切れなく機動車を停める。サイドスタンドに其の身を預け、車体は今なお喧しかった。
荷台箱の留め金が、ススムの右手で外される。封じ込められた圧力が、爆ぜるようにして蓋を開いた。
「ちょっと!! どういうつもりなの!?」
空気を引き裂く剣幕に、ススムは思わず仰け反った。
〈歯磨き係〉の着衣は乱れ、右の肩紐が落ちている。蒼を思わせる黒髪も、顔に掛かるわ変に跳ねるわ。鞄へ投げ込んだイヤフォンが、大体こんな感じになろう。
〈蝙蝠擬き〉は、彼女の隣で斃っている。ススムは彼女を宥めるように、両の掌を見せて揺すった。
「こんなところにとじこめるなんて!!」
「はい。はい」
「どういうつもりなの!? しんじらんない!!」
「はい。すんません。はい」
「ぎゃくたいよ!? でぃーぶいなんだから!!」
「はい。すんませ……ん?」
捲し立てられるに任せていたが、両の耳から入った言葉が、両の側から眉を押す。
「ねえ!? ちゃんときいてるの!?」
「いや、まあ、聞いてはいるけど」
「へんじははっきりするの!」
「……家庭内暴力の意味、知ってて言ってんのか?」
「!!」
感嘆符を飛ばす勢いで、彼女自身も立ち上がる。頬の紅いを見るより早く、がたりと機動車が姿勢を崩す。
「ちょっ!? おい!!」「へっ!?」
二人の声が重なって、少女が宙に投げ出され、二人の身体が重なった。知識が豊富な小山内ススムは、此れが騎乗位と知っている。〈歯磨き係〉が華奢だとて、腹で受ければ背が痛い。
「痛ぇ……」「いったーい……」
一拍の後に機動車が倒れ、白い舗装を五月蠅く叩く。〈蝙蝠擬き〉は目を覚まし、驚きのままに飛び去った。
小さい御口を間抜けに開けて、〈歯磨き係〉は見送った。其の様と、自分の様が可笑しくて、ススムは何だか笑ってしまう。少女も釣られて綻ぶと、笑顔をススムの身体に載せた。
「おら、降りろ」
「うん」
よっこいしょ。両手をススムの胸に付き、〈歯磨き係〉は従った。ススムも痛んだ身体を起こし、次いで機動車を引き起こす。排気量の割に車体は重い。ハンドルを掴み、腰で支えて、よっこいしょ。歪んだ左のフットレストへ、足を叩き付けて矯正をする。
「さ、行くぞ」
「はーい」
〈歯磨き係〉が両手を上げる、腋へススムの両手を入れる。ひんやりとした、薄い身体を持ち上げる。彼女も彼女で軽くはなくて、何かを楽しむ余裕は無かった。
「なんか、しつれいなことかんがえてるでしょ」
「……さ、行くぞ」
「あー! ごまかしたなー!?」
「動くから掴まってろよ?」
機動車は一旦転倒すると、エンジンの掛かりが悪くなる。三度、四度と始動桿を踏み込んで、五度目で漸く点火した。すると、細い手が、するすると、ススムの両腋に巻き付いた。
「其れは、お前」
「ん?」
誰も、ススムに掴まれとは言っていない。顔を左へ軽く回せば、〈歯磨き係〉が覗き込む。距離は僅かに一〇センチ強、にこにこと笑う少女の匂い。ススムは全く動揺せずに、素っ気なく言って向き直る。そう、毛筋たりとも動揺は無い。
「いや。別に。何も」
「あっ、おにいさん! てれてるの!?」
「……五月蠅えぞ」
「へへっ、てれちゃった? ねえねえ、てれちゃったの?」
ぷくりと短い人差し指が、ススムの頬を突っついた。
「良い度胸だ、覚悟してろよ」
ギアをローへと叩き込む。開くアクセルに酸素供給が唸る。
少女の悲鳴が森へ吞み込まれた。
◇ ◇ ◇
事の始めは二〇世紀、恐ろしの竜が蘇る。科学の勝利と声高く、人は大いに沸き立った。
〈放牧園〉と呼ばれる計画は、小さな柵から始まった。すくすくと柵は大きくなって、人の住処を圧すことになる。膨大な数の正論を経て、〈放牧園〉は立派に育っていった。
〈研究所〉は〈放牧園〉の外郭に在る。往時は、道路と鉄路のアクセスも良く、公園に整備されて賑わっていた。現在は、木々と竜とで賑わっている。
今だって、逆光の色の肉食竜が、建物の陰へ消えて行く。幸い、此方に気付いた様子ではない。
「御客さーん、終点ですよー」
「う、うう」
目を回している〈歯磨き係〉を一瞥すると、先に自分の仕事へ掛かる。
前輪の上に載せられた、黒の革製鞄を開ける。定型が五通、定型外四通、此れが本日の配達分だ。強い返しの郵便受箱の底が、ことり、ごとりと受け止める。エントランスの自動扉は、何の反応も示さない。内部からの解錠か、職員証が必要だろう。
恐竜人間による襲撃以来、〈研究所〉の活動は停止していた。少なくとも、ススムの目には、そう見えた。だが、其れと配達には関係が無い。傍目に見るには廃墟でも、届出の無い限り配達をする。事実、空家に届けた郵便が、回収されることは意外に多い。
そして、微かに覚えた違和感を、突き詰める前に声が掛かった。
「おにいさーん……」
「おう、御目覚めか」
「べっ、べつに! あんなの、どうってこと、ないんだから……」
「へいへい。降りますぜ」
「……はあい」
「よっこい、しょ」
「ちょっと!? なんだか、おもたいみたいじゃない、の、っとと」
抗議の声は上から下へ、少女が大地へ降り立った。みたいじゃねえ、とは言わないでおく。
髪と衣服を叩いて直し、めいっぱい伸びて深呼吸する。露わになった腋が眩しく、二の腕の裏も白く光った。
「ここで、おにいさんとあったんだよね」
「そうだな」
同意の声が硬いのは、其のときに二度も死に掛けたからだ。洟を垂らして、声も出せずに、目前の少女に助けられた。遠い昔のようでいて、つい先日のことだった。
森を見回す〈歯磨き係〉は、口調と同じく穏やかな表情。ススムの視線に気付いたら、彼を見上げて、にひひと笑う。ススムも釣られて笑顔になった。
そうあって「さて」と両手を打つさまは、惹子の癖でも伝染したか。
「わたしは、おうちによってくるから、おにいさん、まっててくれる?」
「待つって、此処でか?」
「ふぇっ!? だっ、おへやは、まだだめなんだから!!」
少女が声を裏返らせる。そうすると急にもじもじとして「ちっ、ちらかってるし……」と視線を逸らす。
そうじゃなくてとススムが言うも、〈歯磨き係〉は聞いちゃいない。どうせ午前はベビーシッターが御仕事ので、待つのは全く問題でない。だが、
「此処に居るのは、気が気じゃないぞ」
「じゃあ……すぐそこまで、ね?」
「ああ、其れで良い」
ゆるゆる崩した表情は、妙に血行が良い。何か勘違いがあるようだ。
とまれ、話は着いた。エントランスへ歩いて行くと、読取機に背と手を伸ばす。機器が音も無く点灯し、消えると同時に扉が開く。
そんなことより〈歯磨き係〉は、ススムが気になって仕方無い。
「ちゃんといいこにしてるのよ?!」
「はいはい。行ってらっしゃい」
ちらちら振り向く少女に対し、ひらひら右手を振って見せた。
そして、ススムはいいこでは無い。
◇ ◇ ◇
『施設内は静かに歩きましょう』
壁に貼られた注意書きと、ゆっくり擦れ違う。其れに従うのは惜しくない。
廊下は、突き当たると丁字に割れる。右は手洗いと会議室、左には事務室が在り、更に奥へと伸びている。言うまでも無く、目指すは奥だ。
歩くうち、ススムの違和感が確信に成る。〈研究所〉の郵便受箱は空だった。何故か。
薄暗い廊下。薄くない酸素。非常灯と空調が生きている。
道なりに、角を右へと折れて行く。朝の陽光が射し込んで、宙舞う埃が金に煌めく。窓は嵌め殺しになっていて、中に鉄線の入ったものだ。明かり取りにしか使わないのだろう。
ススムの両眼は、其の眩しさに慣れてしまった。だから背後の物音も、闇の塊にしか見えなかった。大腿へと右手を伸ばし――
「よしな。アタシの方が早い」
鼻に掛かる、円やかな女声。次いで、突き出される回転式拳銃。制されて、銃把を掴むも叶わない。
ととっ、ととっ、不規則な足音が廊下に響く。〈非常措置:対恐竜等〉と別の感覚に、ススムは身体が動かない。
「其れで良い。アタシの情報は弾丸より早い」
烏にも見える塊が、白日の下に晒される。ススムより、頭一ツは低い背だ。緩く波打つ長髪に、季節外れのピーコート、ジャケットとシャツ、スラックスに至るまで、墨で塗ったような黒だった。
「どのみち、対応指揮局も許可なんて出せないよ」
ススムの無抵抗を確認したか、ジャケットの内へ得物を隠す。左腋に吊っているのだろう。
ととっ、ととっ、と近付いて来て、漸く其の表情が見える。大きくて円い眼に、小振りな鼻が幼く見える。にっと笑った唇は、ぷるんと厚くて艶っぽい。全身に纏う黒の差で、肌と口もとが鮮やかだ。
「小山内ススムだね?」
「どちらさま、ですか」
声を絞り出す。唾を呑み込む。
コートの上からでも分かる。伊香に劣らぬ豊かな胸部。腰の周りはふっくらとして、女性の柔らかさを表している。唾を呑み込む。
「ふふン、こう言う者サ」
銃の代わりに取り出したのは、職員証だ。
其れと認識し得たのは、良く知る様式だったから。
「郵政防衛、東海支社……?」
「戦略情報室室長、羽田十六夜。一ツ、御見知り置き頂こう」
驚くススムに満足したか、羽田はにやりと笑って見せた。
支社は郵便局の上位組織だ。各局は、支社の指示や指導を受けて活動する。雲の上に在る本社と違い、顔の見える御偉いさんだ。
「支社の、室長が。如何したんですか」
「情報は、自分の足で、集める主義でね」
羽田が、ぽん、と自分の腿を叩く。
「で、ガールフレンドは? 如何したんだい?」
「……トイレですよ」
「花を摘むとか言ってやるもんサ。淑女が相手じゃ猶更、ね」
ススムの吐き出した苦しい嘘に、付き合うように羽田が笑う。
ととっ。ととっ。ススムの脇を抜け、奥へと向かう。ふわりと香る甘い匂いは、しつこくないのに脳が覚える。不規則に歩く後ろ姿が、ますます烏を思わせる。
「立ち話も何だろう、歩きながら話そうか」
「何処へ、行くんです」
「出歯亀の片棒を、担いでやるのサ」
◇ ◇ ◇
明かり取りの射程を抜けると、廊下は途端に暗くなる。
不規則な足音が、そうでないものを導いて、薄闇の奥へ吸い込まれて行く。
「佐藤からは、何処まで聞いた?」
「……」
「良い警戒心だ。アタシが喋ろう」
息苦しさは、無い。酸素の濃度は足りていて、羽田の物腰は柔らかい。
「顔の見える御偉いさん」は、現場に構わず理屈を言うのが通例だ。ゆえに彼女は例外だった。其れでもススムが言い澱むのは、信じ切ることが出来ないからだ。彼女を、では無い。
「〈歯磨き係〉は〈飼育員〉シリーズの生き残り。そうだね?」
そうだ。彼女は最後の一体だ。
佐藤からは、そう聞かされた。
「〈放牧園〉の恐竜どもを、世話する為に創られたのサ」
「……其れは、本当なんですか」
信じられない、信じたくない、ススム自身にも分からない。
「うン?」
「そんなことが、出来るんですか」
「絶滅動物を創り出せるンだ。現生動物は訳無いだろう?」
技術は、そうだ。倫理は、どうだ。
自問して、諦めとともに自答した。倫理など、とうの昔に死んでいる。四本の足が、墓標を叩く。
「〈放牧園〉と〈飼育員〉の計画は――〈歯磨き係〉は、アタシやアンタより長生きなんだ。其れなのに、あんな形をして。創られたんじゃなきゃあ何だってのサ」
「あんな形なのは、何でです」
確かに若干ませてはいるが、中身は外見相応だ。寧ろ、我々より年上ならば。何故、斯様な内面なのか。
「汚いオッサンと無垢な美少女、オサムは何方が好きなンだ?」
「そりゃあ、後者です」
此の女史は、ススムのことをオサムと呼んだ。おさないススムで「オサム」だからと、笑って言われば無理は無い。無理が無ければ道理は通り、斯くしてススムは頷いた。
「だろう? そう言う需要があったのサ」
足を止め、振り向きながらススムを見上げる。何処を如何して歩いて来たか、辿り着いたのは正面玄関の趣だった。強化ガラスの自動扉に、外の景色が青々とする。つまり往時の公園側だが、〈隕石衝突〉以後は閉ざされている。ススムは勿論、此方を見るのは初めてだった。
とは言え、と厚い唇が言葉を継いだ。
「アタシの見立てじゃ、〈飼育員〉は〈受け皿〉なんだけど、ねェ」
「〈受け皿〉?」
「其れを確認する為に、一ツ仕事をしようじゃないか」
「はあ」
「〈歯磨き係〉は地下の〈浴室〉に向かったはずだ。けど流石にセキュリティが厳重だね。何処ぞの公社と大違いだよ」
確かに、昇降機や階段らしきを通り過ぎて来た。天下無敵の情報室に、抜けられないとは大したものだ。
でもねェ。羽田は、にやりと口角を引く。
「隙は何処かに有るンだよ」
「こんなに厳重なのに、ですか」
「此の辺は、戦争中、工場の疎開計画があったンだ。其処らじゅう穴ぼこだらけになってる」
「つまり、其の穴から潜るってことですか」
「問題は、屋外に出るってことサ」
「……なるほど」
「ああ、慌てなさんな。抜くと色々、面倒だ」
再び右手を回すのを、再び羽田に制される。其の左手に、大振りの電話機が握られている。
当然のこと、抜けば対応指揮局へ無線が入る。潮路局だけでは無い。〈非常措置〉の内容は、防衛業務支援系統を通じ高機能指揮局や支社へも報告される。ただの一人の協力社員が、支社の室長と、重要施設に入り込んでいる。そんな情報が何を招くか、面倒事には違いない。
だからアタシが抜いてあげるよ。受話器を当てて流し目で、そんなようなことを羽田が言った。唇を紅い舌が舐め、ススムの血圧が高くなる。電話が通じた。
「アタシだよ。オサムの、そう、小山内ススムの。そうだ、潮路郵便局の。ああ、DOSSにアクセスすンだ」
受器から、神経質そうな女声を聞いた。内容までは聞き取れないが、不正進入への反発だろうと想像は付く。
「良いからやンな。アタシの指示だ。――そう、其れで良い」
話し相手を捻じ伏せて、羽田が受話器を顔から話す。其れを懐に納めると、かちりと軽い金属音。安全装置の遠隔解除だ。
悪戯っぽく羽田は笑い、厚着の細腕をススムへ伸ばす。身を硬めるのは一瞬で、するすると腿を撫でられる。ススムは羽田に抜いて貰った。
「ありがとう、ございます」
「礼を言われるのも、変な話サ」
ススムは銃を受け取って、何を言えば良いか分からなかった。其れに羽田は苦笑で返す。
「さ、其れじゃあ仕事をしよう」
羽田の足が踏み出した。
青くて重たい湿気を吸って、ススムは小さく咳き込んだ。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
森に秘するは 歯磨き係-Ⅰ
―完―
註・
本作に登場する〈DOSS〉は、架空の組織・日本郵政防衛公社に於ける「防衛業務支援機構(Defense Operation Support System)」の通称です。
日本郵便株式会社が採用している「集配業務支援システム(Delivery Operation Support System、通称〈DOSS〉)」とは一切関係ありません。