しおの還るは 忙しき日常
【前回までの粗筋】
潮路局各員と大型翼竜、〈歯磨き係〉の活躍により、〈非常措置:対恐竜等〉は此処に終了をした。
帰局の途に着く一行のなか、〈歯磨き係〉の姿もあったのだった。
彼らの背中を見送って、巣へ帰る為にアクセルを踏む。
〈やっとつかまえた!!〉
買ったデータを再生すれば、車内に女児の声が響く。いつの間にやら現れた、一〇歳くらいの女の子。こんな声まで拾うとは、此の放送部は腕が良い。
〈蝙蝠擬き〉と取っ組み合って、白いワンピースが泥に汚れる。あれの洗濯は難儀しそうだ。
腰まで伸びた健やかな髪は、蒼すら思わせ黒く輝く。
頭には二本のリボンが生えて、ぴょこぴょこと白が眩しく映える。
右手に在るのは、自身の前腕くらいの筒だ。先に毛束を備えているから、あれも「歯磨き」の道具だろう。
――ならば。何故。
一ツの推論が確信に成り、厚い唇の端が上がった。
〈蝙蝠擬き〉は、口を閉じても歯が剥き出しだ。無理に口を開けさせずとも、磨くだけなら可能なはずだ。
「なるほど、ねェ?」
人差し指が、ハンドルを叩く。
「まァ、そう言うことなんだろうサ」
◇ ◇ ◇
「いや、どう言うことすか」
事務室の、区画に戻って、すぐのこと。珍しく、ススムが佐藤に喰い付いた。
ススムの憤りは、当然のもののはずだった。励むか否かは別として、小山内ススムは高校生だ。其れを圧してまで出勤させて、事情の一ツも説明せずに、通常業務は筋が通らぬ。
「どうもこうもあるか。仕事だ」
対する佐藤は、いつもの風だ。視線を書類に落としたままで、両手が其れらを忙しく手繰る。
ススムは、其れには応えなかった。こうもはっきり言われると、不満の根拠が揺らいでしまう。此れはただの我がままなのか。いや、でも。
「何が言いたい」
ススムが葛藤していると、遂に佐藤が頭を上げた。ススムは内心さて措けば、文句の少ない非常勤職員なのだ。単に話したくないだけだとしても、表面上は、そうだった。
睨むような佐藤の眼とは、合わせたくなくて泳がせる。すると、救いは背後から。
「〈歯磨き係〉ちゃんのこと、ね?」
肩を開いて振り向けば、着替えを済ませた伊香が在った。右腕の包帯は痛々しくて、彼女は今から病院へ行く。
灰色のサマーセーターは七分の袖で、縦の方向へニットが走る。ロングスカートがふわりと舞って、高温多湿に白が涼しい。其の目新しさへの時めきと、突かれた図星が相俟って、ススムの反射は鈍かった。
「……ええ、まあ。其れも、あります」
飽くまで、ついでで気になるだけです。そんな無駄な抵抗は、きっと造作も無く見抜かれている。其れでも糊塗してしまうのが、幼いススムの限界だった。
「あの娘は一体、」「しっ」
何なんですか。そう訊ねようとしたススムの言は、細長い指に堰き止められた。
「?」
「誰が聞いてるか、分からないから、ね」
「あ……」
人差し指の向こう側、優しい唇が微笑に揺れる。
例の〈研究所〉での件から此方、口外を禁じられていたのは何故か。彼女の存在が鍵だとすれば。
ちょっと考えれば分かりそうなことを、ちょっとも考えなかったことに恥じる。自然と「すんません」の言葉が漏れた。
湛えた優しさは其のままで、伊香は「ううん」と首を振る。
「ススムくんの気持ちも当然だもの。私も殆ど知らないし、ね」
そう言って、佐藤に視線をちらりと送る。
ススムが嫉妬を噛み殺す。其れに佐藤は構いもせずに、地獄を開いて溜息を吐く。其れに混じって「分かった」と、腐った卵の臭いが漏れる。
「だが、先ずは仕事だ。俺も市役所と打ち合わせがある」
「……了解しました」
あの佐藤が折れた。呼吸が苦しいこともあり、此の戦果をして手を打った。
尤も、手柄の大半は伊香のものだ。其の自覚と言うか負い目があって、ススムは伊香に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「良いの。気を付けて、ね」
伊香の、伊香たる笑顔だった。
曲線をなぞるニットの縦線から、白い包帯へと視線を移す。
「伊香さんも、御大事に」
「ありがと」
ひらひら揺れる左手に、行って来ますと会釈した。
郵便を満載したカートとともに、エレベータに乗り地下へと降りる。
だからススムは、伊香と佐藤の会話を聞かなかった。
「……巻き込むことになるぞ」
「そんな。もう巻き込まれてるじゃないですか」
「ならば知っていた方が良い、か?」
「違いますか?」
「吹き込まれやがったな……」
「え?」
「何でも無い。早々と行って来い」
「はい。行って来ます」
そうして伊香も去って、佐藤も席から立ち上がる。
だから、残した呟きは独言になった。
「あの娘は一体、なあ。割と寄せて来るじゃねえか」
◇ ◇ ◇
「寄せては返す波のよう、ってか」
ぽつり、職員が呟いた。午後の業務の立ち上がり、ミーティングでのことだった。
集配課長が周知事項を述べていく。午前に警報が出ていたこと。其れによって郵便物等の配達、及び到着に遅れが生じていること。御客さまに御迷惑を御掛けしないよう、迅速に配達を行うこと。
寄せては返す仕事の波は、波と違って引かずに積もる。山を崩すは人のつとめだ。溢れた不満と溜息が、並ぶ職員の間を埋める。
そんな空気が支配したから、身元不明の少女を保護した件は、多くの職員が聞いて流した。一部は八つ当たりのように苛立ちを吐くが、其れすら仕事に取り付くまでだ。口で仕事は片付かないから、自然と数は減っていく。
更に一部に訊ねられたが、ススムも多くを知ってはいない。そして、其れが、どうしようも無く悔しかったのだ。
〈歯磨き係〉。〈非常措置:対恐竜等〉の中で出会った、不思議な少女。身元どころか、総てが不明の存在だった。
保護したなどとは聞こえが良いが、彼女の助けが無かったら、此処にススムは還っていない。
さて、昇降機は地下へと至る。扉を開けば薄暗く、所狭しと機動車が並ぶ。
壁を隔てた射撃場には、〈蝙蝠擬き〉が封じられている。疲労で眠る頃合いに、〈歯磨き〉をする算段だ。何か不都合が起きたとしても、射撃場自体の封鎖も出来る。
ひんやりと、黴臭い空気。硬いコンクリートに車輪が啼いて、地下の空間に虚しく響く。がらがら五月蠅い其の音に、ぱたぱた足音が割り入った。
「ススムちゃん、御疲れー」
「あっ、惹子さん。御疲れっす」
ひらひら手を振る惹子の着るは、郵政公社の制服だった。紺のポロシャツ、スラックス、校服と比して地味さ極まる。ススムは新たな嗜好に気付く。
「えー? また戻しちゃうの?」
「……何のこと?」
「ニャンコって呼んでくれたじゃん? 『ニャンコぉ! 伏せろぉ!!』って」
「いや、あれは。其の。勢いと言うか」
ニャンコが声色まで真似るのだから、ススムは途端に気恥ずかしくなる。
悪戯っぽく尖る唇が、裸電球を反射する。
「あのススムちゃん、ちょっと格好良かったのに」
「え、っと。あの。いや、ありがとう」
羞恥が脳から溢れ出し、顔面全体で放熱をする。此処が地下だったことを感謝する。
勢いと言えば、他にも色々言ったのだけど。其れには触れずに居てくれるのが、三宅 惹子と言う同僚だった。
思考の硬直と裏腹に、表情が大きく弛んでいた。其れに自ら気が付いたのは、視覚が真白に爆ぜてからだった。
「どーん!」
「!?」
惚けていたゆえの失態で、足音を聞き逃した応報だった。女児が振り回した棍棒は、見事、左膝を打ち据えた。軽金属の球体で、中身は恐らく空洞だろう。小振りのボウルで骨を打ったら、恐らく、こんな音がする。
呼吸も忘れて、うずくまる。怨嗟の声すら絞れない。
「あっ、〈歯磨き係〉ちゃん! 駄目だよー!!」
「ふっふーん」
下手人は、腰に手を当て、満足気に笑う。
「ススムちゃん、大丈夫……?」
大丈夫、とススムが唸って立ち上がる。惹子と〈歯磨き係〉を見比べる。
「其れは……?」
「おねえさんに、かりたの!」
「可愛いでしょ! つい買っちゃったんだけど、流石に着れなくってさあ」
なるほど、普段着が泥だらけだから、二人は臨時に着替えた訳だ。だが、幾ら惹子が細身でも、女児用寝間着は着られない。
問題は、着包みが模した生き物だった。鎧竜なる俗称は、捻りが無いぶん的確だ。短い四肢と、平たい身体、其れを余さず装甲すれば、難攻不落の城となる。一見するなら亀にも似るが、亀の尻尾は膝を割らない。膠着竜類の最終兵器、骨製の鎚を倣ったものだ。
「〈歯磨き係〉ちゃん、気に入ってくれて良かった」
「えへへ」
本当に嬉しそうな惹子の横で、〈歯磨き係〉が尻尾を振った。
「さ、〈歯磨き係〉ちゃん。私らも御仕事しよ?」
「うん!」
よいしょと二人が盥を持って、斜路の下で水を張る。コンクリートに囲まれた、狭くて澄んだ青空の底。汚れ汚れた洗濯物と、粉の洗剤が投入されて、見る間に積乱雲が立つ。生温い風が泡を掬って、〈歯磨き係〉が飛び跳ねる。
「ススムちゃんも、頑張ろうね」
「またあとでね! おにいさん!」
ころころ転がる二人の声に、気圧されながらも「おう」と応えた。
また後で、と続けて言って、何だか喉が擽ったかった。
皆が戦後と向き合うなかで、ススムの仕事は先後処理だった。郵便局の言う「先後処理」とは、「先に届いたものを先に処理する」原則だ。斯くも原始的な取り決めが、社会常識の礎石を担う。其れを負うのは、現場の人間だ。
カートの中身を機動車へ積んで、諦めて一ツ息を吐く。
「仕方無えよなあ」
◇ ◇ ◇
「何が仕方無えもんかよ」
市立病院の待合室で、伊香は、そんな言葉を聞いた。
「だって、別に郵防公社の所為じゃあないでしょ」
顔は浅く伏せたまま、ちらり、目だけで其方を見遣る。銀縁眼鏡のフレーム越しに、夫婦と思しき中年男女。
今の伊香は私服姿で、郵防公社の職員と知られまい。
「郵防公社の仕事だろうが。郵便局は隕石衝突のドサクサ紛れで再国営化。オマケにバンバン、防衛公社、てか」
男が右手で「銃」を作った。反動まで再現するから、全く以て丁寧だ。
隕石衝突の混乱が、郵便事業を再国営化させたのは間違いが無い。国内通信の基盤確保と、料金監視の大きく二点、こんな時代こそ原始的機構が強い。
かつて局員は、郵便保護の為に銃を備えた。日本郵政防衛公社は、郵便事業にとっての銃だ。
「民間業者に任せりゃあ良い。郵便局だけ優遇するこた、無いんだからな」
「ううん、仕方無いのよ」
ふんすと主人は鼻息荒く、更にごちゃごちゃ悪態を吐く。対する女性は目を伏せて、穏やか静かに首を振る。
「総ては恐竜人間の陰謀なんだから」
待合室が、凍り付く。ああ、そっちの人間か。
恐竜は身近になり久しいが、恐竜人間はそうでない。公的機関は、存在自体を認めていない。
ただ、隕石衝突当時の記録のなかに、「所属不明の武装集団」が現れたとする文言がある。其れをして、陰謀論者の元気なことだ。
「そもそも隕石衝突は唯の切っ掛け狼煙合図にしか過ぎないもので直後の混乱だけじゃなくて恐竜再誕事業を含めよりもっともっと昔から人類は爬虫人類に支配されてきた訳だし最近のリークでは一部の人間が彼らの企みに気が付いていてつまり其れは爬虫人類による支配を積極的に肯定する材料となる訳で」
「あの」
過熱してきた奥さんに、女性看護士が水を差す。待合室の空気が、ほっと融ける。
此の手の御客は慣れているのか、若き天使は膝を着き、患者の容態を彼らに報す。
どうやら「患者」は夫婦の息子で、潮路北高校の生徒のようだ。風神翼竜の飛来によって、一命を取り留めた幸運児。なれば、なるほど、当たりたくなる気も分からぬでない。
「伊香さん、伊香鈴音さん」
胸中、嘆息、被せるように、診察室から御呼びが掛かる。
すっと立ち上がってスカートを伸ばす。顔を上げれば、何故か「母親」と目が合った。彼女は静かににこりと笑い、伊香は会釈で椅子を離れた。
流布する程度の恐竜人間は、取るに足らないことだった。其れよりも、「父親」の吐いた悪態が、耳から抜けずにやり切れなかった。
そうで在れたら、最良なのだ。自嘲を込めて、肩を落とした。
「無駄飯喰らい、かあ」
◇ ◇ ◇
「無料飯ぐらい、なあ?」
潮路市役所。数ある会議室の一部屋で、寄せられた「御意見」に、佐藤が零す。
どうせ「良心的納税者」なら一日二食は配給がある。栄養糧食の効果は高く、隕石衝突後の食糧事情を強く支えた。無料飯ぐらい、大目に見て貰いたい。
「喰わされてんのは、冷や飯ですわ」
佐藤の向かいで、眼鏡の男が呆れて言った。年齢の頃は四〇の近く。施設課の課長補佐で、〈境界線〉に関わる仕事は彼が纏める。
ふんと佐藤が鼻を鳴らせば、細身の男が口を開いた。
「さて措き、佐藤さん。〈四ツ足〉と〈蝙蝠擬き〉の対処――御疲れさまでした」
彼は衛生課の職員で、同じ年頃と役職だ。〈三本指〉の強襲に避難を指揮し、唯一、生き延びた者でもあった。
「いや。施設課には防衛線の件で助けられた。衛生課にも、警報発令に際して支援を頂き――」
「やめ、やめてください」
「そうです。固ぇこた無しです」
机に手を着く佐藤に対し、二人が其れ其れ押し止める。
「……しかし、衛生課としては〈四ツ足〉の処分が、悩ましくてですね」
「ありゃあ、まだ生きとるんでしたか」
「ああ。左前脚を壊した、だけだ」
いつだって、最終防衛線は突破される。降りしきる雷を伊香が躱し、佐藤が銃弾を叩き込む。彼ら自身が予備線だった。
そうしても。M型軽機関銃の火力では、また、潮路局の持つ弾薬量では、命を絶つには届かなかった。
「殺せば良いって訳でも無いです。腐れば臭うし、虫も竜も湧きますからね」
「いっそ爆破しちまうとか? 発破なら施設課でも出来る」
「腐肉と脂肪をばら撒くことになりますよ。衛生課の仕事が増えるだけです」
施設化の派手な提案に、衛生課が静かに抗議する。
「〈森〉側に引っ張れりゃあ良いんだが、な」
二人の間を取り持つように、佐藤が言った。内容が無いような自覚は有った。
車輪を持つなら兎も角として、二〇トンもの肉塊を、移動させられる術は無い。しかも今なお生きていて、抵抗されれば只では済まぬ。
「仮設電柵の資材は、足りるか?」
「まあ、ぎりぎりで。無くは無いってとこす」
「ですが、電柵を置くとしても」
ああ、と佐藤が唸る。先と同じ場所に敷いたなら、〈四ツ足〉を〈境界線〉内に含めてしまう。
湧いて現る屍肉食竜を、仮設柵では止められぬ。
「〈境界線〉を、下げるしか無えな」
幸い上潮路町は、其の大部分が無人の地域だ。ゆえに「緩衝地帯」として機能する。
「……ま、其れが妥当ですわな」
「そう、ですね」
同意が苦いのは当然だ。またしても人類は敗けたのだから。
だが、佐藤は敗けていなかった。少なくとも、敗けを認めていなかった。総て人類が敗けたとしても、其れは佐藤のものでは無いと、強く信じているからだ。
「いっそ密猟連中が、持ってってくれりゃ良いんだがな」
「勘弁して下さい。亡失の書類は面倒なんですから」
此の二人、何だかんだで気丈だし、何だかんだで相性が良い。横にも上にも頼れない、佐藤の貴重な戦友だった。
だが。其れは其れとして、不穏な単語が引っ掛かる。
「密猟、だあ?」
「ええ。あれ、佐藤さん、御存知では無かったですか」
「どうもちょくちょく越境しちゃあ、植食竜を狩ってるみてえで」
「最近の異常出現は、其れが原因の可能性もあります」
植食竜狩りを違法とするは、肉食の糧を奪わぬ為だ。人里へ降りる竜の脅威を、其の場だけ凌ぐ法令だった。
抜本的な対策ならば、寧ろ糧などは奪うべきだ。人里へ降りる竜の脅威を、其の場で討ち取る力が有れば。
「……目星は付いてんのか」
「朝日市の駆除業者らしいんですが」
朝日市は豊富な発電量で、坊田市や潮路市を支える街だ。〈境界線〉にせよ〈空気清浄機〉にせよ、電気が無ければ動かないから、彼の市の存在は欠かせない。
二市が頼れば頼るほど、朝日市の財布は厚くなる。沢山の金が集まれば、色んな事物が活発になる。郵防公社の下請けや、銭を持て余した奇人の相手――そんな需要に応える業者が、存在したとて不思議では無い。
「潮路市からじゃ手が出せねえんす。どうにも」
生命線を支える朝日市に比べ、寝室街たる潮路市の立場は低い。冷や飯喰らいの斯く在る由だ。
佐藤が胸ポケットから紙箱を出す。
「役場は敷地内禁煙ですよ」
「固ぇこた無し、だろ?」
一本を摘まみ出し、苦笑の二人に箱を薦める。
自分は其れを咥えたら、安物ライターで点火する。人差し、中指で紙巻を支え、安物の味を肺に取り込む。
「全くよぉ」
ぼやく佐藤が紫煙を零す。
二人も同じく吐き出して、部屋は忽ち灰に霞んだ。
「本当、如何したもんか」
◇ ◇ ◇
「如何したんや、おう」
「え、あ、はい?」
ススムが呼び止められたのは、製陶業者の事務室だった。
良い砂の採れる此の地では、生を支える産業だ。右肩下がりの業績も、金属需要の一部を代わり、今も細々と生き延びている。
「今日は遅いなあ、ちゅうとるんや」
「あ。申し訳ありません」
嫌味と眼鏡を直した男は、〈スズキ・セラミックス〉の社長だった。腰を上げる姿はよぼよぼとして、見た目以上に草臥れている。
対するススムは、咄嗟に謝罪を口にした。此れは世間話の延長で、明るく言い切ってしまえば良い。まだまだ仕事が待っている。
「午前中は警報が出てましたから」
「郵便屋さん、そりゃあ言い訳にならんぞ」
そんなススムの侮りに、社長の語気が明らかに変わる。
ススムは配達を急くばかり、彼の怒りを読み間違えた。
「そんなもんは御宅らの事情やろ」
「いや、ええと。はい、そうです」
「ウチはウチの事情がある。……ちっ」
事此処に至り、ススムは反論を諦めた。
社長は封筒の一ツを開き、忌々しげに舌を打つ。並ぶ数字は大きな桁で、存在感を主張する。
「御宅らが、もっとしっかりしてくれりゃあ。こんな金ばっかり払わんで済む」
びらびらと紙の音が立ち、下げた老眼鏡から目が睨む。どんな金かは知らないが、其れを訊くのは得策でない。
「明日からは気ぃ付けてくれ。御苦労さん」
「……はい。失礼します」
取って付けたような労いは、八つ当たりへの罪滅ぼしか。きっと其の、どれもが無自覚だろう。事務所を背にして、そんなことを考えた。
濡れた道路も乾いてきたが、空は青くて高かった。大気中の塵が落ちるから、梅雨の晴れ間は空が眩しい。そのくせ気温と湿度は高く、見た目と裏腹に不快が身体に纏わり付いた。
誰もが必死に生きている。あらゆる生は、必ず死する。だから誰もが必死に生きる。
喰う為に走る。生きる為に撃つ。同じことだ。同じことのはずだ。
機動車に跨る。鍵を回して始動桿を踏み込んだ。機関点火を確認したら、左手に郵便の束を持ち直す。
目刺しのような住宅街を、隅から隅まで平らげて行く。発進。停車。下車。投函。乗車。ぶうん。ききい。がこん。ことん。ばたん。
何とかリズムを取り戻し、次の辻へと車体を倒す。外への力が身体に掛かり、痞えた言葉が口から落失した。
「ああ。もう。疲れた」
◇ ◇ ◇
「御疲れさま」
「ススムちゃん、御帰りー」
ススムが漸く帰局したのは、西日が強烈な頃合いだった。
郵防公社の区画へ戻れば、伊香と惹子が迎えてくれた。
「あっ、うっす」
勿論、期待はしていたけれど、実の場面で言葉が出ない。
制服の似合う伊香の私服。校服の似合うニャンコの局服。知らざる魅力に、今日も出逢った。人生は驚きの連続で、だからこそ今日も生きている。
「どーん!」
「!?」
そうして新たな驚きが、視界の外からススムを襲う。
痛、と呻けば三人目。此方の異装は着包み寝間着。膠着竜類の愛嬌は、〈歯磨き係〉と相性が好い。
少女が、手を腰に当てて鼻息を吹く。伊香と惹子が、合わせて笑う。
そんな幸福にも終焉がある。何かを思考するより早く、全身の筋肉が強張った。〈歯磨き係〉も笑顔を消して、ススムを盾にして震えるだけだ。
「何やってんだ、お前ら」
背後から、左を抜けて、自分の席へ。視線を逸らして、なお位置が分かるのは、瘴気に産毛が立つからだ。
「御疲れさまです、佐藤さん」
「やること終わったら早く帰れよ」
健気な伊香の労いに、相も変わらず素気無く返す。
伊香と惹子は顔を見合わせ、「はい」「はーい」と片付けをする。
「小山内、お前も今日は帰れ」
「は、」
了解を示す「はい」では無くて、思わぬ言葉に空気が漏れた。
「……マジすか」
「例の話は、明日してやる」
だから今日は帰れ。そう言って、佐藤は書類の束を掴んだ。ススムが何かを言おうとすると、濁った眼球がぎょろりと動く。其れが少女を睨めつけたから、ススムも言葉を呑み込んだ。
「あれ、ススムちゃんも終わり?」
「みたい」
洗濯物を籠に抱えて、惹子がススムに笑顔を向ける。
そして、ススム自身が退勤の許可を信じられない。例の話は別として、〈非常措置:対恐竜等〉の有った日は、報告書ごとやら反省やらで、大体ごちゃごちゃ遅くなるのだ。
「じゃあさじゃあさ、今から鈴音ちゃん家で御飯しない?」
「……は?」
またも間抜けな声が零れた。
伊香の家で? 惹子も一緒に? 食事だと?
俄かに信じられるほど、充実の人生は送っていない。
「〈歯磨き係〉ちゃんと三人で、御飯しよって話してたんだ」
「〈三本指〉のときの御褒美も、まだだったし」
器材室から戻ってきて、伊香が惹子の横に並んだ。
ね、と言って二人で笑う。
「……マジすか」
ええ。ええと。そりゃあ。もう。喜んで。
気持ちが先走って喉で躓く。舌が立ち上がって踏み切るときに、進路に障害が立ちはだかった。
「どーん!!」
三度目の鉄槌は、右の爪先への一撃だ。とても、とても、痛い。
「……ほんとやめてください」
「ふーんだ」
涙すら滲む懇願に、少女はぷいと横を向く。
そんな彼女の小さな右手に、惹子の右手が重なった。
「そんじゃ〈歯磨き係〉ちゃん、着替えよっか」
「えー……」
「にゃはは。其の服だったら、あげるから」
「ほんと!? おねえさんだいすき!!」
そんな二人を見送れば、〈歯磨き係〉が惹子の細い腰に抱き着いた。
羨望の目を少女に見られ、悔しくなどないと目を逸らす。
「では、失礼します」
伊香が佐藤に退勤を告ぐ。相も変わらず律儀なことだ。
「気を付けろよ」
書類を見たまま佐藤が言って、「はい」と短く伊香が返す。
そうして振り向いた伊香の顔は、いつもの大人の微笑みだった。
「さ、ススムくんも片付けてきて」
「はい」
伊香に促されて着替えを済ませ、夕焼けの帰路に加わった。
橙の色に霞んだ街を、四本の長い影が横切って行く。其のなか短い一ツの影が、華奢な二本の間で揺れて、遂に地を発ち宙に踊った。驚きと喜びに満ちた声が、足音とともに歩いて行った。
――今日は本当に色々あった。
そして結局、何も分からなかった。
整っていない伊香の部屋で、ニャンコの料理が美味かった。喰って散らかす〈歯磨き係〉の、汚れた口もとを呆れて拭う。こどもじゃないのと喚かれて、伊香とニャンコが優しく笑う。
今日も何とか生き延びられた。どうせ明日も忙しいなら、こんな時間も良いだろう。誰にとも無く言い訳をして、ススムも二人と一緒に笑う。〈歯磨き係〉はきょとんとしたが、やっぱり一緒になって笑った。
そうやって、御褒美の夜は更けて行く。
◇ ◇ ◇
「潮路局――此処だな」
「ええ、間違いありません」
恐竜の 歯磨き係と 配達員
しおの還るは 忙しき日常
―了―