ばつと下るは 毛深の邪悪-Ⅲ
退路は無い。不可止、進むは彼だ。
其のまま捻れば機動車が動く。駆動は僅か、二秒に満たぬ。しかし、進むには其れで充分だった。姿勢制御の努力を捨てて、彼も機動車に棄てられる。
右の肩から落ち行くときに、〈蝙蝠擬き〉と視線が交じる。ススムの吊られた口角が、円い眼球を押し倒す。
鉄が昏い口を開け、むくじゃらの腹を喰い破る。残るは、二体。油断は、しない。
身体を捻って仰向けに。銃が右手に渡るとき、酷く強引なパスカット。其れに腕ごと組んで敷かれて、反則の笛は聞こえない。
拾う間も無く、もう一体が迫る。左腕でして頭を護れば、慣性で以って背は泥に着く。四肢の鉤爪がばりばりと、雨合羽を掻き毟る。迫る口吻は赤黒く、腐血の臭いをなすろうとする。決して選べる立場で無いが、接吻は美少女に頼みたい。
そんな願いも水に流れる。悪魔の下顎、其の切ッ先が、遂に左の頬を裂く。下から上へと紅が引き、雨にじわりと線が滲んだ。
すると、どうだ。〈蝙蝠擬き〉が宙に舞い、ふっと左腕が軽くなる。そうまでも口に合わなかったか。
不貞腐れるように生まれた気持ちを、大きな翼が拭い去る。風神翼竜が影を従え、地表の空気を掻き混ぜた。
見えない力に打ち据えられて、左の個体が泥に埋まった。右手のやつも吹き飛ばされて、空へ逃れんと陸を蹴る。
させるものか。自由な右手で得物を手繰る。人間の証を携えて、照星が鈍く翼に光る。力が籠る、人差し指を、
「だめぇっ!!」
声と身体が押し止めた。〈歯磨き係〉だ。
左大腿、しがみ付いては、がくがく揺らす。
「っ!? おい!!」
「だめなの!!」
逸した機会を悔やんだが、蛇神の来るも早かった。
ぐるりと回り、ふわりと迎う。〈蝙蝠擬き〉の下方から、掬い上げるような嘴が打つ。
「ね?」
得意顔で誇る〈歯磨き係〉。両手は腰に、薄い身体を大きく反らす。
ススムは其れに応えずに、落ちる軌跡を銃口で辿る。重力に引かれ急降下して、赤い箱へと納まった。
「「へ?」」
間抜けな声が、間抜けに重なる。〈歯磨き係〉と目が合って、再び落下地点を見遣る。
がこん、がこんと無遠慮な音。あれは、落失防止の基本動作だ。「荷台箱の蓋閉めヨシ!」とか、唱和でも聞こえそう。
「……ね?」
「ね、じゃねえよ」
半眼でススムに見下ろされても、〈歯磨き係〉は動じない。強靭な精神は見上げたものだ。
「おーい」
言って手を振る三宅の惹子。頼んだ仕事が終わったのだろう、約束通り、来てくれた。
其れに大きく手を振り返せば、足から声が這い上がる。
「おともだち?」
「え、ああ、うん。まあ、友達、だな」
同僚と呼ぶか友達か、迷った挙句に後者を選ぶ。
せめて友達ではあって欲しいと、希望の色濃い回答だった。
「ふーん……」
まるで気の無い相槌は、エンジンの音に隠れてしまう。
どろどろどろ、と飛沫を立てて、ニャンコの機動車が停車する。サイドスタンドに車体を預け、快活な猫が笑顔を向ける。安っぽい白の雨合羽は、救急員にでも貰ったものか。
「おまたー」
高いけれど、嫌味の無い声。〈歯磨き係〉は疑問符で、左手を足の間に挟む。違う、そうじゃない。
気付いたニャンコが、にゃははと笑う。其の子が、例の。そう言う彼女の背の後ろ、泥の団子が飛び出した。
二、三、空中で身を振るい、茶色い粘性を脱ぎ捨てる。毛と毛の間に滾る脂を、しても全ては拭い切れない。牙は折れ、皮膜は破れ、其れでも生きるを諦め切れぬ。我が種を繋げとニャンコを襲う。
ニャンコの表情が青褪める。風神翼竜は、間に合わない。掴まれた裾が、軽く引かれる。眼だけ合わせて、小さく頷く。
「ニャンコぉ! 伏せろぉ!!」
銃口が、ニャンコの眉間を違わず捉う。するりと視界の下へと潜り、〈蝙蝠擬き〉と相対する。
ぎゅ、と裾が握り込まれて、腰に額が押し付けられる。そして、其れを、引き金にして。
弾倉に残る六発を、躊躇うこと無く解き放つ。鉛に籠めた獣性が、毛深の邪悪を喰い千切る。針穴を射抜く鋭矢とか、不浄を清める楔のような、そんな高潔なもので無い。動きが鈍くて毛も皮も薄い、間抜けな大型哺乳類。其の力、唯の暴力。
三発目が開いた下顎を粉砕し、五発目が胸から背中を刺し貫いた。跳ねる薬莢が雨を溶かして、最後の六ツ目が地に落ちる。
ニャンコは見事な前転を決め、着地姿勢が勝利に映えた。
◇ ◇ ◇
〈蝙蝠擬き〉と比べなくても、風神翼竜は大きかった。だが、地に降りて来たらば威容は際立つ。何せ高さは五メートル、動物園のキリンに近い。頭から伸びる嘴は、大人の身長にも及ぶ。
そんなケツァルコアトルスに、「歯磨き」を終えた〈蝙蝠擬き〉がじゃれ付いている。其処にニャンコも飛び込んで、わあわあきゃあきゃあ、幸せそうだ。
其れを見ながら〈歯磨き係〉が喧嘩を売った。
「おにいさん、ほんとにともだちなの?」
「……五月っ蠅えぞ」
ニャンコは、そう言う女子なのだ。ススムだからと、どうでは無い。筈だ。
「そんなことより、此れからどうすんだ」
「はみがきするよ! したらみんなでかえるから!」
「歯磨き、ったってなあ」
ニャンコの機動車、荷台箱は思い出したようにがたがた揺れる。
「あれ開けっと、大変だぞ」
「うぅー……」
「じゃあさ!」蛇神の嘴を撫でくっていた、ニャンコが突然、振り返る。「一回、一緒に帰れば良いじゃん?」
「「へ?」」
再び二人が呆気に取られる。
見下ろす、見上げる、視線が交じり「ああ、でも、そうか」と思い直した。
「でも……」
もじもじ、とする〈歯磨き係〉。
「大丈夫だいじょーぶ! 私も鈴音ちゃんも居るから!」
ニャンコが身体を翻し、目の前に、ついと、しゃがんで見せる。合羽の間で襟が撓んで、やっぱり其の奥は見られなかった。
「ね?」と問うては、にゃははと笑う。驚いた風の〈歯磨き係〉は、釣られて思わず破顔する。
追うて撃つのが追撃だから、ススムは好機を逃さなかった。
「歯磨きは、御仕事なんだろ?」
〈歯磨き係〉が、うううと唸る。大小翼竜、男女の人間。誰もが少女を覗き込み、発する答えを待っていた。最後にニャンコと目が合って、決めた心で顎を引く。
歩く様子は、とてとてとして、幼いと呼ぶに相応しい。ケツァルコアトルスの先っぽを、小さい手指が捏ねくり回す。
「ごめん、ラーちゃん。さきかえってて?」
くえ、くえ、と甘えるように蛇神が鳴く。うん、うん、と頷く微笑は、少女を忘れたかのようだ。
〈蝙蝠擬き〉も、身体を寄せては、ぎいぎい喋る。「うん、いっしょにかえっててね」慈しむように頭を撫でて、貼り付いた泥を其の手で払う。
二体は名残を惜しんだけれど、やがて羽を広げ地面を蹴った。
いつしか雨は止んでいた。〈蝙蝠擬き〉は、すぐに空と紛れ見えなくなった。風神翼竜が、漏れた逆光に包まれる。強い眩しさに目を細めると、太陽のなかへと消えて行った。
◇ ◇ ◇
「惹子ちゃん、ススムくん、御疲れさま」
翼竜と入れ替わり、軽四車両が駆け込んで来た。続く二ツの〈非常措置:対恐竜〉を指揮、〈四ツ足〉を止めた戦闘車両。
其の運転席から降りたのは、佐藤では無く伊香だった。枯草色した制服が、豊かに満ちた曲線を描く。
「鈴音ちゃーん!」
其の胸にニャンコが飛び付く。
驚いた顔を微笑に変えて、伊香はニャンコの頭を撫でた。
「無事で良かった」
赤の集配車は茶色と化して、飛礫の刺さった痕もある。そもそも伊香も怪我人だったし、ニャンコも雨か泥かで、ぐちゃぐちゃだった。
其れも御構い無しとして、顔をぐりぐり押し付けるのだ。
「ところで、ススムくん。其の子が」
「ええ」
ぽかんとしている当人を置き、短く、目と目で応答をする。
「鈴音ちゃん鈴音ちゃん、〈歯磨き係〉ちゃんって凄いんだよ!」
胸から顔を上げニャンコが騒ぐ。あれこれ武勇を語っているが、彼女自身も殊勲ものだった。其れは、ススムが語ってやるべきだろう。
だが今は、少女の相手が先だった。
「おともだち?」
「っつうより、上司とか、先輩とかだ」
流石に伊香を友達などと、呼べる勇気を持ってはいない。
「ふうん。おっきいおねえさん」
詰まり、ニャンコは(小さい)御姉さん。子供は時に、残酷だ。
大小の姉に寄ろうとするが、最初の半歩で動きを止める。踵を返せばススムの正面、腰へと抱き着いた。其の感触を味わうよりも、戸惑いを覚えるより早く、空気の変わるを嗅ぎ取った。
蒸発するべき汗が、流れる皮脂が、雨に籠められて濃縮される。其れが水分を伝い鼻腔を灼いた。此れは本当に、現世のものか。気が遠くなってくる。
距離を取りつつ、軸をずらしつ、悪の根源に向き直る。〈歯磨き係〉はするすると、陰に入るよう位置を保った。
「おう、お前ら」
佐藤 辰斗は、何から何まで最悪だった。濡れた髪と肌はてらてらとする。不快を集めて固めたら、こんな姿をしているだろう。
「佐藤さん、学校の方は大丈夫でしたか」
伊香は遅れて気付いたが、其れでも最初に声を掛けた。
「ああ。とっととずらかるぞ」
「良いんです?」
遺体の処理や、現場の消毒は、役場が担当してくれる。引き継ぐまでが、郵防公社の仕事だ。が、
「役場には、先生方から話して貰う」
胸ポケットから、紙巻煙草を取り出す。咥える。
使い捨てライターの石が回って、湿気た煙草の先端を焼く。
「此方だって怪我人が居る、〈四ツ足〉の始末もある、其れに何より、」
煙を一杯に吸い込む。右の二三指が煙草を挟んで、吐き出す。
「こんなもんを見せられん」
右手が振って見せたのは、ニャンコの機動車と〈歯磨き係〉だ。
言い種こそは気になれど、言っていることに間違いは無い。実際、さっさと帰りたい。
伊香も納得したようで、微笑のなかの、硬さが抜ける。当然のことと、ススムは思う。負傷してなお、優秀な部下で、気丈な先輩を務めているのだ。重責は、想像するだに余り有る。
〈歯磨き係〉に「じゃあ帰ろっか」と掛ける声すら、少し明るい。ススムの機動車と集配車、両手で交互に指を指す。
「どっちに乗る?」
「あれがいい!」
〈歯磨き係〉の即答に、伊香は、ふふっと笑って見せる。
「ススムくん、懐かれてるのね」
「いや、まあ、どうなんでしょう」
何か訳も無く恥ずかしくって、伊香の顔が見られなかった。
誤魔化すように少女を抱き上げ、荷台箱へ御連れする。にこにこにやにやする顔は、考えていることが分からない。まあ、此の子の考えていることが、分かった例は無いのだが。
ススムもシートに納まったらば、ニャンコが後ろを覗き込む。
「此れから宜しくね!」
「うん!」
元気いっぱい頷くどころか、ハイタッチまでして見せた。
〈歯磨き係〉の不思議な素養か、ニャンコの明るい性格ゆえか、其れとも同志の共鳴なのか。何にせよ、仲が良いのは好いことだ。
「〈非常措置:対恐竜〉終了、此れより帰投する」
佐藤の汚い声がして、各車のエンジンが、其れに応えた。
さあ。帰ろう。
◇ ◇ ◇
「御疲れさまでした」
助手席で、伊香が言った。傷は痛いと言うより熱い。
運転できない訳では無いが、わざわざ歯向かう理由も無い。窓からは雨上がりの風が入ってくる。生温いけれど、心地が好い。
「おう」
佐藤は短く返事して、左手ひとつでハンドルを握る。
右手はドアに肘を置き、口もとの煙草を摘まんでいる。車内に臭いが残るので、正直に言って好きではない。
ハンドル脇の灰皿を叩く。あれは自前のものだったはずで、此の上司、そう言うところはきっちりしている。
ルームミラーを、ちらりと見遣る。
伊香もサイドミラーから、後ろの様子を伺った。
「どう動くか」
荷台箱の〈歯磨き係〉が、ススムにちょっかいを出している。
其れにニャンコも加わって、音は聞かねど騒がしそうだ。
「な」
吸殻を捨てて頬杖で、視線を戻して、そう言った。
窓からの風が煙を払い、意外と臭いは残らなかった。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
ばつと下るは 毛深の邪悪
―了―