ばつと下るは 毛深の邪悪-Ⅰ
太古、空は昆虫のものだった。節の足を持つ仲間のなかで、羽ばたいたのは彼らだけ。仲間はせっせと足を増やすが、彼らはたったの三対六脚。代わりに二対の翅を背負う。外骨格の軽い身体は、斯くて空へと飛び立った。
然れど、晴れて目出度と成らぬが理。高い熱量の蛋白源が、看過ごされるほど甘くない。恐ろしの竜の兄弟分が、腕を打ち振り追い掛ける。徐々に其の手は翼と成して。中空骨の軽い身体は、斯くて空へと飛び立った。
属名、ソルデス。識別名、〈蝙蝠擬き〉。
翼の開長、六〇センチ。頭の長さは一○センチ弱。翼竜として、決して大きいものでは無い。
だが。比して大きい眼窩には、眼球がぎょろりと剥いている。吻は短い嘴と化し、数え得るほどの歯が生える。ずらり並んだ訳では無い牙は、寧ろ異様を際立てる。全身に纏う体毛は、親近感より不安を熾す。何れも此れがちぐはぐなのに、尖る尾を曳き空を飛ぶ。
其の様に、人は彼らを邪悪と呼んだ。いつだって、正邪善悪は人の手が書く。
◇ ◇ ◇
「〈非常措置:対恐竜等〉継続。市内の注意報を警報へ格上げする」
助手席に置いた端末を打鍵しつつ、インカムに向けて佐藤が言った。
迎撃作戦に先立って、既に注意報は発令している。〈四ツ足〉だけなら「直ちに影響は無い」。〈蝙蝠擬き〉は「想定外」だ。
〈発令しましょうか〉
伊香がすずやかに問う。
銃を構えたままなのが、声だけで分かる。
「いや、役場に代行させる」
坊田や朝日の局とは違い、潮路市役所は割かし友好的だ。
利害の一致を見ているだけだが、郵防公社は其れすら出来ていない。
「伊香、奴らを頼む。此処を抜かれば、手が付けられん」
〈了解しました〉
優秀な部下の返事を聞くと、左の肩越し、振り返る。
声が乗らないようマイクを塞ぐ。
「全く、今日は厄日だな?」
沈んで黙るは、三宅 惹子。
嘆息とともに諦めて、硬い座席に座り直した。
「そもそも何で、此のタイミングで〈蝙蝠擬き〉なんだ?」
誰に言う訳でも無くて、正に佐藤の素直な胸中。
ただの愚痴でしかなかった其れ。
〈!〉
ぱんと手を打つ音一ツ。ただの愚痴でしかなかった其れが、感嘆符へと姿を変えた。
〈……そっか。共生〉
再び上身を捻って見れば、三宅は何やら納得の様。合わせた両手は握られていて、一々の所作が猫らしい。
〈佐藤さん――〉
〈〈蝙蝠擬き〉を肉眼で視認、発砲します〉
未だ疑問符の佐藤のことも、口を開いた三宅のことも、伊香は構いやしなかった。
今日の〈非常措置:対恐竜等〉二枚目の幕は、M型軽機関銃に撃って落とされた。
◇ ◇ ◇
対象、九体。〈四ツ足〉の背に在って、小さな羽を眠らせていた。
初撃の微弱な刺激に目覚め、二度目の被雷に血を沸かす。温い血が、彼らを空へと駆り立てる。
恒温性は燃費に悪い。軽い身体は持久力が無い。飛べば飛ぶほど腹が減る。
喰う為に空へ進んだ竜は、飛ぶ為に喰らう翼と化した。
彼らが好むのは、節足動物や小魚。だが、喰えるものなら何でも喰らう。両生類や爬虫類、幼い恐竜、ときには御仲間。動きが鈍くて毛も皮も薄い、間抜けな大型哺乳類。
〈蝙蝠擬き〉の円い眼が、そんな伊香を映し込む。そして其れきり、光が消える。
三点射は二度、どれが当たったか定かで無い。細くて長いライフル弾は、其の華奢な腹を撃ち抜いた。
哀れ重力が引くより早く、遺る八体、ばっと散る。
被食者、捕食者、二つの本能。楔でも無い、横隊でも無い、歪な陣形。其れが同時に突っ込むだけで、被害が減って喰い扶持は増す。単純がゆえ、防と攻とが一と成る。
如何に伊香が優秀だとて、八ツもの移動目標を、同時に処理することなど出来ない。四度三点、一二の弾丸。鉄の歯が、不浄の頭蓋を噛み砕く。
そんなものには構いもせずに、残る七ツの顎が開く。舌のぬらめきまでもが見えた、とき。
〈掴まれ〉
佐藤の声が、するか早いか軽四が動く。積載量の多いが為か、急発進には程遠い。ぐるりと左に旋回すれば、細い身体が振り回される。
先まで伊香の居た場所が、離着陸の滑走路と化す。続々と空へ発って行くなか、うちの一体に追い付いた。
六ミリに満たぬ径の矢も、頸を千切るに事足りる。離陸を果たした連中は、一〇の羽をして天を目指した。
伊香の左手、三指と一指が、弦を摘まむよう眼鏡を直す。其れを介して空を見遣れば、ぽつり、雫がレンズで砕けた。
◇ ◇ ◇
〈蝙蝠擬き〉の一体が、三時の向きから伊香へ迫る。
一メートルまで高度を下げれば、車載の機銃は俯角が取れない。そもそも意識は空を向くから、気付くことすら難しかろう。伊香に責など微塵も無いが、代価を払うは彼女自身だ。
低空、猛進、すわ激突かと思わるときに、軽四の上へと躍り出る。
あっと言っても、もう遅い。がぶり、右腕へ喰い付く悪魔。
〈蝙蝠擬き〉の其の牙は、肉を裂くには確かに不向き。だが、虫の殻を割り魚鱗を穿つ。ナイロン一枚、柔皮一枚、容易く貫き血が滲む。更に其のまま頸を曳いたら、吻は小さな鋸と化す。
鈍い切創に袖が破れて、開いた口には朱が散る。そして再び鋸刃が噛んで――伊香の左手が引き剥がす。喰い込んだままの歯と爪が、合成繊維を襤褸へと変える。
左から右、手中の竜を薙ぐよう放る。右から左、拳銃を抜く。左手が出迎えるように遊底を引く。右手の二指が、三回、動く。其のうち二発が命中し、頭と胸とが消し飛んだ。
◇ ◇ ◇
「伊香さん!」
「ススムくん、」
バックドアから駆け込むススムを、いつもの伊香が出迎えた。
佐藤の姿が見えないが、あんな奴のことは如何でも宜しい。
「御帰りなさい」
微笑む伊香の額には、脂汗が滲んでいた。右肩の下で袖は切られて、白い上腕が露わになる。いつものススムなら、其処に釘付け。
だが、肘から下腕は、ずたずただった。布とも皮膚とも知れない破片が、朱に染まって張り付いている。傷の深さは然程も無いが、ススムの目元は思わず歪む。
「〈蝙蝠擬き〉は市街地に向かって――んっ」
伊香の声が、苦悶に上擦る。ボトルいっぱいの消毒液を、惹子がだくだく打っ掛ける。血と汗が混じる伊香の匂いを、透明の汁が洗って流す。あれは普通の消毒液だ。
「追い掛けて。ね」
「そりゃ勿論です、けど」
奴らが何処に向かったか。其れが最も肝心で、其れが最も分からないのだ。虱を潰すと欲すれば、先ずは頭の位置からだ。
「惹子ちゃんが分かるから、二人で先に向かって」
「ニャンコさんが?」
当のニャンコは軽く頷く。巻いた包帯をテープで留めて、左脇から郵Ⅱ型防護帽を持つ。
彼女は、するりと身体を車外へ運ぶ。状況が呑めず、背中を目で追う。歩みの先には機動車と佐藤。
非常時の連絡用に、先行車両に積んであったもの。其れを佐藤が下ろしたのだろう。荷台箱を開け、何やらごそごそ弄っている。
其の傍らで、郵Ⅱ型防護帽を被り顎紐を留める。中々、如何して、似合ってしまって、素体の良さに感心をする。
車内では、運転席へと伊香が這い擦る。包帯姿は痛々しいが、臀部を縁取る制服に、総ての意識を奪われる。
「御願い、ね」
伊香は座席に納まって、左の肩越し、ススムと目が合う。
「勿論っす」
視線を外して、横顔で軽く頷く。
「ススムくん自身も、気を付けて。ね」
「あざっす。御任せ下さい」
いつだって、伊香に言われば悪気はしない。冷静の振りで短く応える。
車外に出たなら泥が迎えて、靴と一緒にべちゃりと鳴いた。湿った空気が肌に貼り付き、生温い風に雨が匂った。
◇ ◇ ◇
御天道様の御機嫌は、いっそう斜めに傾いていく。雨はとうとう本降りに、黒雲は低く唸りを上げる。
伊香と佐藤は指揮車に籠り、急ぎ調整を行っている。ススムとニャンコは、後扉で雨宿りしつつ其れを待つ。
しかし、まさか〈蝙蝠擬き〉が追跡弾を呑み込んだとは。
「きっと集った虫と勘違いしたんだよ。血の匂いには敏感だろうし、ほじくり返して食べたんだろうね」
声のトーンは、やや低い。
二台の機動車のライトは眩しく、雨の縦線が光を縁取る。空が遠くで、ごろごろと啼く。
「ニャンコさん、大丈夫なの」
「ガソリン免許、持ってるよ」
郵便業務の従事者は、内燃機関免許が求められる。いざと言うとき人手が要るから、内外を問わず必要資格だ。
だが、そう言うことでは無い。彼女も勿論、分かっている。だから前を見たまま言葉を続ける。
「そりゃ確かに好きだけどさ。人が怪我して、好きとか言ってらんないっしょ」
ふ、と口だけ笑って見せる。
「なぁんて! 恥ずかしいから忘れて?」
ススムに向いては、右手をひらひら。
寂しい笑顔だとススムは思った。だから「ニャンコさん」と口を開いた。
「なに?」
「惚れそうだわ」
「は……?」
眼は真ん丸にし、眉間を歪めて、口は半分開いている。飛び退るには至らなくても、上半身だけ距離を取る。猫に缶詰でも投げたら、こんな顔でもするだろうか。
「ニャンコさんが恥ずかしいこと言ったから。此れで御相子」
「其れこそ恥ずかしくない?」
眼が半ば閉じ、呆れたと言う。
籠った湿気を追い遣るように、ぱたぱたと襟を扇いで見せる。しっとりした鎖骨と、ススムの目が合う。
「……確かに」
空気が気不味くなる直前、伊香が調整の終わりを告げる。
ニャンコが、ばさりと合羽を羽織る。ひょいと機動車に跨って、「駄目だよ」と言う様は普段の調子。
「私には鈴音ちゃんが居るから。ね」
ちょっと競争相手が有力すぎる。逆立ちしたって敵いやしない。
残念だなあと機動車に乗れば、「あんま残念そうじゃなくない?」と突っ掛かられる。そんなこと無いと返してみても、「酷ぉい」と言って、にゃははと笑う。
相応しいかはさて措いて、出撃の意気は整った。
「さて、そんじゃ。恐竜退治と行きますか!」
わざとらしく腕の筋など伸ばして言うと、
「ちょっと、ススムちゃん?」
またもニャンコが眼尻を上げる。
「〈蝙蝠擬き〉は翼竜で、翼竜は恐竜じゃないの!」
「えっ、あっ、すんません」
猫は獲物を逃さないから、言い逃れるのも諦めた。そんじゃ兎に角、急いで行こうと、正にそう言うときだった。
〈退避ぃ! 総員退避!〉
そして天地が、ごうとなる。泥が噴き上げ、空気が揺れる。
〈退避ぃ! 退避ィーッ!!〉
汚泥のような佐藤の声。飛び起きるように指揮車が動く。
逃げる術の無い先行車両を、狙いも付けない稲妻が撃つ。くしゃり、音を立て、圧し潰される。
白い閃光が世界に満ちて、雷の竜が形を成した。
「しぶといなあ、おい!」
〈四ツ足〉に向けてススムが毒吐く。
口と同時に手足も動き、ギアを一速に入れアクセルを開く。泥を撒き上げて後輪が滑る。地面の表皮を抉ったところで、暴れ馬のように走り出す。すぐに前輪が遊びに行くから、手綱を強く押さえ込む。
「帰ったら補習だからねー!?」
併走しながらニャンコが叫ぶ。
補習なら寧ろウェルカム。其の為に、此の一仕事を終えねばならぬ。
降りしきる雨を掻き分けて、二頭の鉄馬が駆けて行った。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
ばつと下るは 毛深の邪悪-Ⅰ
―完―
註・属名のソルデス(Sordes)は一般的に「不浄、汚物」と訳されますが、「邪悪、悪魔の魂」などとする場合もあり、本稿は両者を採用しております。