鉄に蘇せるは 暴君の竜
はっ。はっ。はっ。
切れる息が五月蠅い。床を連打する、自らの足音が聞こえないほどに。
はっ。はっ。はっ。
薄暗い廊下。薄くない酸素。全力疾走に、悪くない環境。
『施設内は静かに歩きましょう』
壁に貼られた注意書きと、一瞬で擦れ違う。其れを知覚する熱量すら惜しい。
俺を咎める者は居ない。先刻、死んだ。
忙しかったのだろう。書留受領の署名を求めると、音を出さずに舌打ちして殴り書きしてくれた。
こんな客は全く以て気に入らないが、今や心底どうでも良い。
かつん、と冷たい音が響く。
ヒトが持ち得ぬはずの暗器。強く湾曲した鎌状の其れ。だが間違いなくヒトの姿をしていた。
かつん、と冷たい音が響く。
粟立つ皮膚を置き去りにせんと、いっそう強く両足を動かす。
乾燥した空気が鼻の奥に痛い。出口は近い。
午後三時の陽光が零れている。自動鍵の自動扉。中から出るのに特別な操作は不要だ。
転がるように――否、転がりながら悪魔の巣から脱出する。
柔らかい腐葉土、腐った肉の臭い、そんなものが俺の身体を受け止める。立ち上がろうにも身体が動かない。
酸素が足りていない。更に呼吸を荒げてみても、蒸せる空気に咽るだけだ。
咳き込んでみれば、味すら感じそうな臭気が口蓋垂を掴む。
反射に耐え兼ねて胃の中のものを吐き出す。胃酸の一部が鼻腔に入り内壁を灼く。
味覚と嗅覚が自分の吐瀉物に支配される。知らず、鼻からは水っぽい汁が、閉まらない口からは粘度のある涎が伝う。
頭が痛い。意識も飛びそうだ。
〈――ない! おい!〉
耳元で騒ぐ中年男性の声が、酷く耳障りだ。
此のまま無視して眠ってしまえば、とても楽なのでは無いか。
〈どうした! 小山内!!〉
名前を呼ばれて僅かに覚醒する。
なるほど、転がった際に無線が繋がったらしい。
が、どうしたと言われてこうしたと答えられる余裕は無い。代わりに上半身を何とか引き起こす。
右手を気怠く動かせば、腰から伸びる落失防止紐に触れる。
肘から先だけで手繰り寄せたのは、俺の得物。一一・四ミリ口径、装弾数は七発、制式名称「11型けん銃」。
首を巡らせば、苔生した大岩小岩。羊歯と蘇鉄に覆われた森。
場違いに、無機質に、〈研究所〉の自動扉が口を開ける。
郵Ⅱ型保護帽のカメラが、上司の元へと映像を電送したようだ。
息を呑む声が聞こえる。
現れたのは、ヒトの姿をしたもの。衣服は無い。全身を覆うのは茶色の鱗と、短い羽毛。
頭部は後方に肥大しており、重そうな脳を収容していると見える。鼻梁から口へは前方に伸びるようで、嘴を短くしたような趣だ。
黄土色の眼球は頭部と比しても大きめで、其の中に感情の伺えない縦型瞳孔が走る。
〈恐竜人間……!〉
恐竜人間。思考実験の末に生み落とされた、架空の存在。
〈小山内! 発砲を許可する!〉
かちり、と安っぽい金属音がする。拳銃の安全装置が遠隔解除された。
左腕を何とか動かし、遊底を引き、初弾を装填する。
一歩、一歩、恐竜人間が近付いてくる。腐葉土の上とは言え、足音は驚くほど静かだ。
足先には大きな鉤爪。接地せぬよう、器用に持ち上げている。
一〇〇〇グラムを超える鉄の塊は、今の俺には重過ぎた。
漸う両手で持ち上げたとき、彼の健脚は地を蹴っていて――気付けば俺の得物は再び地に転がっていた。
長く、健やかな尾だ。姿勢制御の要を失った其れは、退化するのでは無く、純粋な武器としての進化を果たした。
まるで独立した意志を持つが如く、其れが一匹の蛇であるかのように、怪しく蠢いている。
倒れ込むように、銃を求めて伸ばした右手。其の下腕を、爬虫類の左足が踏み付ける。
鱗の感触は冷たいが、突き立てられた鉤爪は熱い。破れた皮膚から赤い汁が溢れる。
思わず呻いて身体を捩る。が、ぴくりとも動かない。
脈と共に血液が押し流され、入らない力が更に抜けて行く。
「〈歯磨き係〉は何処だ……?」
目の前の爬虫類が喋った。人語、其れも日本語だ。
理解が追い付かない。動かない脳に対して、入ってくる情報が多すぎる。
口を開閉させてみても、何の言葉も出て来ない。
上下の唇は震えていて、痙攣しているのと差は無かった。
舌は虚しく泳ぐだけで、森に漂う死の臭いを舐め取るばかり。
数秒の後、俺に価値は無いと判断したのだろう。右足が動いて、俺の胸部を押さえ付ける。
肺を圧されて呼吸が出来ない。細く、小刻みに吸気を試みる。今の俺は、もう死んでいないだけの生き物だった。
酸素を失って窒息するか、其れとも鈍く光る鉤爪が臓腑を抉り出すか。
死にたくは無いが万策も尽きた。全身から力が抜ける。再び意識が遠のいて、眠りに落ちるような感覚を味わう。
そんな俺の頬を引っ叩いたのは、今度は汚い声では無かった。
地面から突き上げるような衝撃。多くの樹木が倒れる轟音。発酵した蛋白質を、融かし込んだような臭気。
恐竜人間が俺から飛び降りる。其の様子は、先刻までの俺と何ら変わりない。
即ち、得体の知れない何かへの怯え。
そして、岩が立ち上がった。
全身を覆う鱗は爬虫類であることを、頭頂部から尾端へ掛けて生える羽毛は鳥類との類縁性を思わせる。鱗は足先の赤茶から、背中の錆色へグラデーションしている。腹は少し明るくて、背を走る羽毛と似た色をしていた。
そんなことより、問題は其の大きさだ。ざッと見繕うに、全長は一〇メートル、体重は五〇〇〇キログラムを下回らない。
骨だけを見て彼らを分かった気になるのは、大きな誤りだ。身体が持つ体積は、随所に漲る筋肉に因るもの。吻から尾までを「頑強さ」が包んでいる。
齢千年の古木に劣らぬ後脚。体幹から真っ直ぐに降りて、大地を踏み締めている。ヒトとは違う形の二足歩行。皮膚が微かに波打っているのは、姿勢を保たんと筋肉が努めているからだろう。
頭部こそ頑強さ、筋肉の塊だ。頭骨長は一メートル半ほどのはずだが、こうして相見えると全長の四分の一ほどが頭と言う印象すら受ける。
前を向いた両眼は立体視の為と言うよりも、顎の筋肉が発達しすぎた結果、眼窩が前を向いてしまったものだ。
比して小さい前肢などは可愛らしく見えるが、ゆえにこそ頭部と後脚の大きさを際立たせる。
哺乳類の一種は、彼らを「暴君の竜」と呼んだ。
暴君は、巨体に反して俊敏だった。
俺から飛び降りた恐竜人間を、振り向く間すら与えず丸齧りにした。臼歯こそ無いが、呑み込む過程で骨を砕く。ばきばきと嫌な音が響く。
頭を二度、三度と振り上げて嚥下を果たす。此のまま去ってくれたらな。願ってみるが、そうも上手くは行かぬもの。
俺の右腕から溢れる鉄の匂いを、空腹な王様が嗅ぎ付けぬ訳が無かった。前を向いた両眼が、俺と見詰め合う。
一歩だけ踏み込んで、口を開く。
悪臭と言うものは、極めれば目や鼻を灼くのだ。呼吸しようにも五感が拒否する。
僅かに残った力で瞼を閉じる。酸素を諦めた身体が、筋肉の収縮に任せて悶える。
先刻から漂っていたのは、此の臭いだったのだ。死の空気に、満ち満ちていたのだ。
回らぬ頭の片隅が、妙な納得をして見せる。逝くのに思い残しは少ない方が良い。
「こら! だめだよ!」
そう、もう俺は駄目なのだ。
肉食恐竜の糞になる運命。今まで、多くのヒトが、そうなってきた。俺だけ、そうならぬ保証など無い。
「このひとは〈はいたつがかり〉さんなんだから!」
胃の中は少女の声が聞こえるものなのか。矢張り、何事も経験してみなければ分からない。
「たべちゃだめなの!」
食べちゃ駄目と言って聞く相手では無いし、第一もう食べられたのでは無いのだろうか。
生きてきた中で最も重たい瞼を開ける。涙と刺激臭に霞む視界。濃緑に染まる世界に、奇妙な彩色。
背丈からして一〇歳ほどの少女。白いワンピースが眩しく見える。其処から伸びる華奢な四肢は、衣服同様に色素が薄い。
黒い髪が蒼すら思わせるのは、白いリボンとの対照が生み出すものか。腰の辺りに届いていて、なお毛先まで艶を保っている。
ぐるるる、と暴君竜が猫のように喉を鳴らす。
ぺちぺち、と少女が吻部を叩く。
「いいこね。べつのところで、ごはんにしましょう」
何が起こっているか分からないし、どうすることも出来ない。
眼球を動かすことと、脳に視覚情報を入れることで精一杯だった。
「あら、あなた」
少女が俺を覗き込む。
「けがしてるの?」
好奇心いっぱい、くるくるとよく動く黒い瞳。
高くは無いが、整った小鼻。薄い唇は健康的な桃色で、大きく開いて笑顔を作る。
「ちょっと、まってね」
俺に言ったのか、恐竜に言ったのかは定かで無い。さらりと彼女はリボンを解く。
拘束を失った黒髪が、ざあっと流れ落ちる。縛った跡の付かぬは若さの証拠。
リボンを手にして、俺の右腕に、しゃがみ込む。
水分を多く保つ、健康的な太ももが布切れから覗く。肌理が細かくて、如何にも柔らかそうだ。肢の間は無防備で、最奥部の秘布は唇にも似た薄桃色だった。
「よいしょ」
腕を持ち上げる気力すら無い俺に代わって、彼女が俺の腕にリボンを通す。
ひんやりとした冷たさは、先ほど踏まれたときの其れとは雲泥の差だ。
前屈みになっているから、ふわふわとワンピースの襟首が撓む。肉付きの薄い首筋から、ちらちらと細い鎖骨が見える。
そんな俺を知ってか知らずか、少女が渾身の力を込めてリボンを結ぶ。子供の力とは言え傷口に響く。
痛ぇ、と叫んだつもりが声にならず、身体も動かず、ただ呻くしか出来なかった。
「がまんがまん! すぐよくなるからね!」
せめて礼を伝えたかったが、矢張り唇が震える以上にはならなかった。
「じゃあ、またこんどね」
軽やかに立ち上がると、黒髪を翻して背中を向ける。
其の一本いっぽんが、午後の陽光を受けてしなやかに踊った。
此の記憶を最後に、俺は今度こそ意識を失った。
そして此れが、俺と〈歯磨き係〉の出逢いだった。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
鉄に蘇せるは 暴君の竜
―完―