第十一章 北へ(七)
ウィンディア王国の重要人物をひとり挙げよ。
そう問われた人間の大半はおそらくアスティア様の名を挙げるだろう。そして、アスティア様の名を挙げなかった者は、たぶんアレス陛下の名を口にするはずだ。
戦神と魔人殺し。
この二人以上に重要かつ有名な人物はウィンディア王国には存在しない。それが衆目の一致するところであり、特に他国に住んでいる人たちは、この二人以外にウィンディアの人間は知らないという者がほとんどではないかと思う。
この評価に異を唱えるつもりはない。お二人が王国を支える力強い支柱であることは、額縁付き、保証書付きの事実である。
とはいえ、一国の運営を二人だけでできるはずもなく、ウィンディアが国として存立するためには、二人の意を汲み、手足となって働く廷臣たちの存在が不可欠である。
そして、そんな廷臣たちを実務の面で束ねる者が、国内で重きをなしているのはごくごく自然なことであろう。
ウィンディア王国宰相イワン・ズゥライト。
王国の政務全般を取りしきり、各方面の予算決定権を握るこの人物は、事実上ウィンディア王国のナンバースリーであり、こと政務にかぎっていえば陛下もアスティア様も宰相には及ばない。
ちなみに、ウィンディア国内の物流を一手に握り、陛下から軍資金の調達を一任されている商会の名をズゥライトというのだが、その名が示すとおり、イワン宰相はこの商会の関係者である。
極端な話、宰相とズゥライト商会が謀反を起こしたら、国としてのウィンディアは立ち行かなくなるだろう。ウィンディア王国にとって、イワン宰相はそれくらい重要な人物だった。
で、そんな大物がどういう人となりをしているのかというと、これがなかなかに面妖で――
「……あら? あらあら、まあまあまあ! あなたテオ、テオじゃないのぉ!?」
河岸に轟き渡る野太い声を聞いた瞬間、俺の身体は条件反射的にビシリと固まってしまう。
ギギギ、と錆びたブリキ人形のような動きで振り返ると、そこには小山のごとき巨躯をクネクネとくねらせた人物が、丸太のようにぶっとい手をぶんぶんと振っていらっしゃった。
いたるところに戦傷が刻まれた顔と、綺麗に剃りあげられた禿頭を見た瞬間、俺は思わず天を仰いでしまう。
間違いなくイワン宰相だった。
ポポロは驚いたように目を丸くし、カリスは警戒するように目を細め、トワにいたっては口をぽかんと開け、世にもめずらしい珍獣を見たかのような表情を浮かべている。
その珍獣もとい宰相は、どすんどすんと地面を揺らしながら俺たちのもとに駆け寄ってくると――女の子走りだった――再び野太い声を発した。
「こぉんなところで会うなんて奇遇ねぇ! いえ、もはやこれは奇遇を通り越して運命といっても過言じゃないと思うの! あなたもそう思わない、テオ!?」
「――は、その、なんともうしますか、なかなか遭遇することのない偶然であることは否定できないと存じます、宰相閣下」
できるかぎり当たり障りのない答えを返したつもりだったが、宰相は不服だったようで、厳つい面貌をぷくーっと膨らませた。
それを見たトワがビクリと身体を震わせる。
「んもう! せっかくの再会だっていうのに足りない、感激が足りないわ、テオ! ついでにいうと、アタシに対する親しみも足りないの!」
宰相はそう言うと、何かに気づいたようにハッと表情をあらためて身体を震わせた。
「ま、まさか、半年の時間がアタシたちの親愛を冷ましてしまったというの!? いけない、いけないわ! テオ、宰相閣下なんて他人行儀な呼び方はやめてちょうだい。これまでどおり、あたしのことはイヴって愛称で呼ぶように!」
「いや、これまでどおりも何も、今まで一度だって閣下を愛称でお呼びしたことはございませんがッ!?」
ずずいっと顔を寄せてくる宰相に対し、俺は思わず声を高めてしまう。
いかん、やっぱこの方苦手だ。色々とお世話になった方であるし、この態度にも相応の理由があることは承知しているのだが、だからといって受け流せるかといえば、決してそんなことはないわけで。
と、その宰相の視線が俺から外れ、かたわらでぽかんと己を見上げているトワへと移る。その瞬間、宰相は頬に両手をあてて「んまあッ!」と感嘆の叫びを発していた。
「なぁんて愛らしい子なんでしょう! お嬢ちゃん、お名前は何というの?」
そういって膝をつき、にこりと笑って問いかける姿は、蜂の巣を見つけた灰色熊を彷彿とさせる。子供が間近で見たら泣き出してしまいそうな迫力だった。
話しかけられたトワは泣き出しこそしなかったものの、驚いたのは確かだったようで、そそくさと俺の後ろに隠れてしまう。
それを見た宰相は「あら、逃げられちゃったわ」とクスクス笑って立ち上がった。
「さて、それじゃあ再会の挨拶はこれくらいにして話を聞きましょうか、テオ・レーベ。あなたのことだから、魔人殺しの勲をもって花嫁を射止め、めでたく帰国した――というわけではないんでしょう?」
そう言うと、イワン宰相は今しがたトワに向けたものとはまったく質の違う笑みを浮かべて俺を見た。
◆◆◆
それからほどなくして、テオたちは宰相イワンと共に船上の人となり、メルキト河を北へ渡っていた。
この時刻、メルキト河の川面は夕陽の色をうけて赤色に染まり、美観とも異観ともいえる不可思議な光景を現出させる。
トワが寝入ったのを見届けてから船室を出たカリスは、船べりに立ってその光景に見入っていた。
ときおり、船べりを越えて水滴がパラパラと降りかかってくる。
事前に聞いていたとおり、この大河の水流はかなり急であるようだ。何かの拍子に船から落ちてしまえば命に関わるだろう。
もっとも、ウィンディアの国旗を掲げた船は大きく、また極めて頑丈につくられているようで、急な流れの中をさして揺れることもなく着実に進んでいく。危ないから船室から出ないように、といった類の注意がなかったのは、自ら望まないかぎり船から転落することはないからなのだろう。
この分であれば、無事にウィンディア王国に入ることができる、とカリスは思う。
同時に、このままウィンディアに入国してもいいのだろうか、とも思っていた。
そんなカリスに横合いから声がかけられる。
「川風は冷えるわよ。船室にいた方がいいのではなくて、お嬢さん?」
姿を現したのはウィンディア王国の宰相であり、その登場にカリスが驚かなかったのは、早くから相手の気配を察していたからであった。
カリスは丁寧に相手に応じる。
「お気遣い痛み入ります、閣下。ですが、どうぞご心配なく。この程度で身体を壊すほどやわではありませんので」
「あなたはそうでも、お腹の子はそうではないかもしれなくてよ?」
その言葉が出た瞬間、周囲の空気がこれまでよりも数度下がった――少なくとも、カリスにはそう感じられた。
形の良い唇がゆっくりと開かれる。
「……あの人はどこまで?」
「それがテオのことを指しているのなら、特に何も聞いていない、と答えるしかないわね。アタシがあなたについて知っているのは、さっきの紹介のときに聞いたことがすべてよ」
まあ、訳ありの身であることは聞かなくてもわかったけれど。
イワンはそう言うと、口許に手をあててくすりと笑った。
「なにせ、テオと行動を共にしているのだもの。あなたについては知らないけれど、テオについては知っている。閉塞したシルリス大陸に現れた第二の魔人殺し。今のテオは厄介事のかたまりよ。普通の女性なら好んで近づいたりはしないわ。権力欲の強い女性なら、また話はかわってくるでしょうけれど――」
あなたはそういうタイプには見えなかった、とイワンは続ける。
「であれば、テオと行動を共にせざるを得ないような複雑な事情を抱えているのだ――この推測はそう大きく的を外していないと思っているわ」
「そうかもしれません。けれど、それでは子供の有無は判別できないのでは?」
この問いかけに、ウィンディアの宰相は自信たっぷりに応じる。
「あら、それについては少し見ただけでわかったわよ。気丈に振る舞っているけれど、ずいぶん疲れがたまっているのではなくて? テオは決して気の利かない子じゃないけれど、黙っていてもすべてを察してくれるほど聡い子でもないわ。特に女性の身体に関しては、男性は想像するしかないのだから、きついならきつい、つらいならつらいって言わないと。そのあたりをしっかりしておかないと、このさき苦労するわよ?」
そういってイワンはパチリと片目をつむる。
言葉や仕草だけを見ていれば人生経験豊富な婦人そのものだが、実際にそれをやっているのが、むくつけき大男というあたりにどうしようもない違和感――というか脱力感をおぼえてしまう。
気を張り詰めていたカリスですら、小さく苦笑を浮かべてしまった。
と、そんなカリスの変化を読み取ったかのように、イワンは穏やかな声で言う。
「後は、そうね、わからないことはわからない、知りたいことは知りたいって言うことも大切だと思うわ」
「……それは」
カリスが口を開くまで、ほんの少しだけ間があった。
それを見たイワンが目元を和らげる。
「どうして自分を連れて来たのか。連れて来てくれたのかが分からない。そんな風に考えているのね?」
カリスはその問いに答えなかった。
だが、その表情を見れば、宰相の言葉が正鵠を射ていることは明らかであった。
カリスは容姿を利して貴人の傍にはべることが多く、他者の歓心を買うことに長けている。必然的に相手の内面を読み取ることが得意だったが、そのカリスの目をもってしても、テオが何を考えているのかが分からなかった。
これは今に始まった話ではない。テオが蓬莱に旅立つ前、同じ部屋で寝起きしていた時からずっと、カリスは同じ感覚を抱いていたのである。
ランゴバルド王国の意向がからんでいるとはいえ、問題だらけの姉妹をあっさりと受け入れ、さしたる詮索もせずに共に暮らす。魔人崇拝の事実が暴かれたときでさえ、疑いの目を向けることなく即座に手を引いて助け出してくれた。
花嫁令のこともあり、カリスたちの存在がテオに益することは事実であるが、それにしたところで限度というものがあるだろう、とカリスは思う。
今のカリスたちをかばう行為は、明らかに益よりも害がまさっている。それがわからない人ではないはずなのに、トワの変貌を目の当たりにした今なお、テオは姉妹を守ってくれている。
そのことがカリスには不思議でならなかった。
知らず、警戒の念さえ抱いてしまうほどに。
カリスはイワンに赤裸々に心情を語ったりはしなかった。いかに一国の宰相とはいえ、ついさっき知り合ったばかりの相手にやすやすと心底を晒すほどカリスの自尊心は低くない。
ただ、自身のうちにたゆたう警戒心を解く手がかりを欲していたのは事実であったから、相手の言葉を遮ることもしなかった。
そんなカリスに対して、イワンは相手がまったく予期していなかった言葉を告げる。
「国民性、と言ったらいいのかしらね」
「え?」
思わず声に出して疑問をあらわしたカリスに、イワンは肩をすくめてみせる。
「建国して二十年に満たない国にそんなものがあるのか、と言われそうだけれどね。あなたはまだお若いようだけど、ウィンディアが建国される以前、メルキト河の北が流刑地同然だったことはご存知? ガルカムウの魔物におびえ、それでも南に逃げることは許されず、人々は法も理もない刹那的な争いを続けていた。放火略奪は当たり前、裏切り毒殺なんのその、どうせ魔物に殺されるなら死ぬまで好きに生きてやる、てね。これから私たちが行く場所は、文字通りの意味で無法地帯だったの。あのおバカが自分の国を建てる、その時まで」
あのおバカ、と口にしたイワンの顔を見たとき、カリスは少しだけ驚いた。バカという言葉にこれほどの熱量を込める人を見るのは初めてだったのだ。
むろん、バカとはアレス王のことだろう。ウィンディアの国王と宰相の間には、ずいぶんと深い信頼関係が築かれているらしい、とカリスは見て取った。
そんなカリスの内心に気づいたのか、イワンはこほんと咳払いして話を続ける。
「そういった人たちを取り込んでウィンディアは大きくなった。だから、国民の多くはすねに傷を持つ身なの。過去の罪状を法に照らして処断したら、牢屋は満杯、断頭台には行列ができてしまうでしょうね。そもそも国王陛下からして借金踏み倒しの常習犯だったのだから」
「……借金、ですか?」
目を丸くするカリスを見て、イワンは自分の口に人差し指を立てる。
「あ、これ内緒にしてちょうだいね? やっぱり王ともなると、威厳とか面子とかあるから。ちなみにアタシは借金取りとして陛下に出会ったの。返済の時期が来るたびに戦場やらガルカムウやらに逃げ込むものだから、ホント苦労したわぁ」
しみじみと呟いた後、話がそれたことに気づいたのだろう、またしても咳払いの音が響いた。
「ぅおっほん! ようするに何が言いたいかというと、ウィンディアの人間は他人の過去は詮索しないということなの。他人を詮索すれば、自分も詮索される。ならはじめから詮索しなければ、自分も他人もみんな幸せ。過去がどうあれ、今がきちんとしているならそれでいい――それがウィンディアの人間の考え方、つまりは国民性よ。その上で相手に踏み込むかどうかはその人との付き合い次第。テオが今日まであなたたちを助けてきたのなら、それはつまり、これからもあなたたちと一緒にいたいとあの子が考えているからなんでしょう」
話を聞き終えたカリスは、額に手をあててわずかに顔をうつむかせる。
イワンの言葉を鵜呑みにしたわけではない。国民性などといっても例外はいくらでもあるだろうし、テオがその例外でないという保証はどこにもない。
ただ、今の宰相の言葉は、これまでどうしてもカリスが理解できなかったテオの言動に対する一つの解になりえていた。
『俺たちの付き合いはまだ一月にも満たない浅いものだ。そんな相手に一から十まで素性を明かす奴なんていやしない。少なくとも、俺はごめんだ』
『俺は十のとき、魔物に襲われた父を見捨てて逃げ出した。十二のときは、姉を置き去りにして大侵攻から逃げのびた。口にしたくない過去の一つや二つ、人間ならあって当然』
『他人がいらんことをいうな。そういうのは本人の口から聞かないと意味がないんだよ。お前のせいで、今、俺はめちゃくちゃ気まずい』
ベルリーズにおけるテオの言葉が鮮明に思い出される。
テオが過去を詮索しなかったのは、自分もまた詮索されたくない過去を持っていたから。その過去をあえて口にしたのは、当人以外の口からカリスたちのことを聞いてしまった気まずさゆえか。
姉は叛逆者の子を孕んだ魔人教徒。妹は人ならざるモノに変異する異形の子。
そんな姉妹をテオが今日まで助けてきたのは、高邁な理念や悪辣な策謀があってのことではなく、セルディオに引き合わされてからの日々を大切に思っていたから――ただそれだけだった、のだろう、たぶん。
これまではどうしてもわからなかったテオの心底。カリスはようやくそこに触れることができた気がした。
同時に、自分の心から何かが確かに剥がれ落ちる感覚をおぼえた。
それが何なのかはわからなかったけれども。




