第十章 喰らうモノ(三)
八月も終わりに近づく晩夏の一日。
その日、蓬莱の国都 開陽は朝から暑熱に包まれていた。昼に一度だけ短い雨が降ったのだが、この雨は涼気をもたらすことなく止んでしまい、かえって蒸し暑さを増す一因となった。
結局、うだるような暑さは日が沈んだ後も続き、開陽の住民は寝苦しさに喘ぐことになる。
異変が発生したのはその夜のことだった。
月の光が射さない新月の晩、開陽の各所で同時に火災が発生する。
失火ではなく放火。むろん、これは王宮潜入を目論む朱鷺国佐による陽動作戦であり、開陽はたちまち騒然とした空気に包まれていく。
異変はただちに王宮へと伝えられた。
二人の美姫と共に甘美な眠りをむさぼっていた志士果は、報告を受けるや両脇の美女たちを跳ね飛ばす勢いで立ち上がり、怒声を張りあげる。
「都内には八万もの兵が詰めているではないか! 余の眠りを妨げている暇があるなら、将軍どもを叩き起こしてさっさと鎮圧させよ!」
報告にやってきた廷臣は裏返った声で「は、はいぃッ」と返事をすると、あたふたと部屋から出て行く。
廷臣は知っていた。この場にとどまれば、志士果の怒りが暴力という形で己の身に降りかかることを。
こけつまろびつ去ってゆく配下の背を見送った志士果は低くうなる。
「丞相は謀反、廷臣は無能、まったく余は配下に恵まれておるわ!」
本来の予定であれば、志士果はとうに軍を率いてカーナ連合王国への征途についていたはずなのである。それがいまだ国内はおろか開陽から出ることさえできない。
「淑夜めの妄動さえなければ……ッ」
志士果は忌々しげに卓に拳を叩きつける。ガンと大きな音が鳴り響き、寝台の上で身を寄せ合っていた美姫二人が小さく悲鳴をあげた。
ここ数日、志士果は予定されていた軍事作戦の修正に忙殺されている。謀反を起こした淑夜から、敵国であるカーナ連合王国に情報が漏れている恐れがあったからだ。
また、大瑠璃家に近しい高官、将軍の動向を洗いなおす必要もあった。場合によっては彼らを罷免して、新しい責任者を据えなければならない。
出陣間近の時期に将官の首をすげかえれば必然的に軍務に支障をきたしてしまうが、だからといって獅子身中の虫を放っておけるはずもない。
志士果はこれらの対処のために奔走し、その結果、出陣日時は一日、二日と遅延を重ねていた。
それがようやく一段落したと思った矢先に今夜の騒動である。不機嫌にならざるをえなかった。
「このままではカーナを討つ機を逸してしまう。折角の提言を無為にしてしまっては亜母も落胆なされよう。どこの誰かは知らないが、ただではおかん」
志士果は夜着を脱ぎ捨てると、寝台で怯える美姫たちを怒鳴りつけて着替えを手伝わせた。
将軍たちを叩き起こして鎮圧させろとは命じたものの、志士果は配下の働きに期待するつもりはない。自らの手で不届き者たちを叩きつぶし、出陣前の血祭りにあげてくれる――そう決意して足音荒く寝室を出た。
そして。
「……ぬ!?」
寝室から出たとたん、強制的に足を止めさせられた。血に濡れた剣刃を首筋に突きつけられては止まらざるをえない。わずかにおくれて、鼻腔に濃密な血の臭いが広がった。
壁にかけられた灯火が、廊下に倒れ伏している人間をうっすらと照らし出している。先に報告に来た廷臣だったが、部屋を出て行ったときにはあったはずの頭部が失われていた。
見れば、欠けた頭部は壁際に転がっている。悲鳴をあげる暇もなく、手練の一撃で首を断ち切られたのだろう。
そして、その下手人は、今まさに志士果に剣を突きつけている者に違いなかった。
「ご無沙汰しております、王よ」
近衛兵の武装に身を包んだ若者が口を開く。むろん、国王の身を守るべき近衛のとる行動ではない。
謀反、という言葉が志士果の脳裏をよぎった。とっさに飛びのこうとするが、寸前、志士果の動きを牽制するように近衛兵が刃を押し込んでくる。
ツッと国王の首筋から血が伝った。
「逃げられるとは思われませぬよう。この場にいるのは我が配下のみでござれば」
どこか余裕を感じさせる物言いに、志士果は口を曲げて応じた。
「……ふん、その顔、その声。覚えているぞ、朱鷺国佐。没落した廃貴族の当主がこのような夜に何のようだ。余に恨み言でも言いにきたか」
挑発するように言いながら、志士果は素早く周囲を確認する。
国佐の背後には近衛兵の格好をした兵士が十名ばかり控えているが、今の状況を目の当たりにしてもまったく動じていないあたり、国佐のいうとおり全員が敵なのだろう。
自身が危地に陥ったことを、志士果は自覚せざるをえなかった。
とはいえ、怯んだわけではない。竦んだわけでもない。
似たようなことならいくらでもあった。それこそ、子供の頃から、いくらでも。
志士果は巨眼を剥いて、ぎろりと国佐を睨む。
この敵のことを志士果はよく知っていた。別に知りたくはなかったが、父王からさんざん聞かされたのである。幼少の頃から英名を謳われていた朱鷺家の神童。父王は志士果を責めるとき、比較の対象としてよく国佐の名をあげた。
せめて国佐の才能の半分くらいは持ち合わせておらぬのか、と。
志士果にしてみれば面白いはずがない。王になった後、朱鷺家を没落せしめたのは、王宮内部にまで食い込んだ朱鷺家の力を無視できなかったからであるが、それ以外の理由がなかったわけではなかった。
対する国佐は、志士果の両眼に満ちる憎悪の色に気づいていたが、今の状況を考えればこの反応は当然のものだったため、そこに深い意味を見出すことはなかった。
どのみち、ここで討つ相手だ。詮索する意味もない。
「たしかに王に申し上げたいことは多々ござるが、今宵推参つかまつったは別の件でございます」
「別の件。ふん、余の命を奪いに来たわけか」
「御意」
朱鷺という大家の跡継ぎだった国佐は王宮の構造を熟知しており、その知識は表向きの地図には記されない裏面にまで及んでいる。放火で混乱した王宮で、近衛兵に扮した国佐らを見とがめる者はおらず、国佐は予定よりもはるかに早く寝所までたどり着くことができた。
これは現在の蓬莱王宮が国佐の予測をこえて混乱していることを意味している。
志士果の死は魔人を呼び寄せる可能性があるため、できれば淑夜と神器を確保してから事に及びたかったのだが、だからといってこの好機を見逃すのは愚かというものだ。虜囚にすることも考えないではなかったが、国王の気性や膂力を考えればそれは危険だった。
ここで一息に命を断つにしかず。
国佐はそう決断し、迷うことなく行動に移した――いや、移そうとした、そのときだった。
国佐たちの背後から猛然と迫り来る三つの影があった。兵が警告の声をあげる頃には、三つの影は国佐たちを指呼の間に捉えている。
影の正体は緋袴を履き、長大な偃月刀を抱えた巫女。
伏姫の私兵であった。
「滅ッ!!」
鋭い気合の声がその場にいた者たちの耳朶を打つ。
先頭を駆けていた巫女が床を地を蹴りつけ、矢のように突っ込んできた。ほぼ同時に他二名の巫女は信じがたい跳躍力で宙を飛び、上方から国佐たちめがけて襲いかかる。
空気を裂いて振るわれる偃月刀。その狙いは正確であり、威力は絶大だった。
国佐の側近の一人は南瓜のように頭部を粉砕され、一人は雑草のように首を刈られ、一人は人形のように身体を縦に両断された。
重く湿った音が周囲に響き渡り、わずかに遅れて鼻をつく異臭が広まっていく。
討たれた者たちは決して弱兵ではなかった。弱兵どころか国佐にとっては虎の子の戦力といってよい。
それがろくに反応もできずに叩き斬られた。戦いと呼ぶことさえためらうような、圧倒的な力の差。
残った兵たちは彼我の差を本能的に感じ取って慄然としたが、それでも国佐を守るべく巫女たちに戦いを挑もうとする。
その捨て身の行動をとめたのは国佐の一喝だった。
「退くぞ!」
国佐は巫女たちがどんな存在なのかを知っている。彼女らは魔人フッキの眷属にして竜種。この戦いで出てくる可能性も当然考慮していた。
真っ向からやり合っても到底勝ち目はない。向こうが出てきたときは、こちらが退くときだとわきまえている。
ここで国佐は躊躇なく志士果から離れた。
むろん、生かしたままで。
あとほんの少し刃を押し込めば国王を討つことは可能だったが、巫女たちの目的が志士果の救出にあることは明白である。その志士果を殺せば、巫女たちは怒り狂って国佐に襲いかかってくるに違いない。
ここで志士果を生かして逃げるか、殺して逃げるか。いずれが自分の生還の可能性を高めるかと考えたとき、天秤は前者に傾いたのである。
見方をかえれば、国佐は志士果をそこまで評価していなかったことになる。
なんとしてもここで討っておくべき敵であると考えていれば、たとえ生還の確率が下がるとわかっていても躊躇なく刃を押し込んだに違いない。
「ふん! 逃げられると思っているのか、国佐よ!?」
増援を得た志士果が、見逃されたことも知らずに嘲弄を向けてくるが、国佐の脳裏に志士果の存在はすでにない。
国佐の頭脳はすでに『次』に切り替わっていた。
神出鬼没の魔人と眷属の存在は、今日の作戦における不確定要素そのものだった。関与してくるのか、こないのか。関与してくるならそのタイミングはいつか。投入してくる戦力はどれほどなのか。
いずれをとっても無視できない重要事であり、向こうの出方次第で作戦は大きな変更を強いられる。実際、今しがた国佐は「志士果王を討つ」という目的を放棄した。
しかし、国佐の顔には絶望も諦観もない。厄介なことになった、という眉間のしわはできていたが、それも作戦を中断するような致命的なものではなかった。
何故といって、姿を見せた不確定要素はもう不確定要素ではないからだ。少なくとも「伏姫が作戦に関与してこない」という可能性は排除できたわけで、今後は適宜作戦に修正を加えていけばよい。
もとより今日の襲撃は一か八かの危険なもの。いつ魔人勢力があらわれるのかと戦々恐々としているより、明確な脅威として目の前に現れてくれたほうが、よほど対処もしやすいというものであった。
しばし後。
たった三人の増援によって国佐の兵はたちまち半数以下まで討ち減らされた。
それでも、かろうじて全滅だけは免れることができたのは、兵たちの奮闘もさることながら、眷族が逃げる国佐らを追ってこなかったからである。国佐たちに追撃を仕掛けている間、別働隊によって志士果が襲われることを懸念したのだろう。
となると、伏姫の指示は「侵入者の殲滅」ではなく「志士果の護衛」だと判断できる。
であれば淑夜の救出と神器の奪取はまだ可能だ。国佐は斬られた右腕を押さえつけながらそう判断した。
そちらはそちらで別の眷属が向かっている可能性もあるが――そうなったら尻尾を巻いて王宮から退散すればいい。
結果として何一つ果たせなかったとしても、得るところはある。もとより今夜の襲撃は陽動、わずかなりと魔人の戦力を王宮側に割くことができた時点ですでに成果は出ているのである。
ただ、国佐にも武人としてのプライドがある。魔人なり眷族なりが出張ってきたから何もできませんでした――ではあまりに無様であり、沽券に関わる。生き残った兵たちが国佐を見る目も変わってこよう。
今後のことを考えれば、最低限二つの神器――正理の鏡と七星剣だけはおさえておきたい。
国佐はそう考え、生き延びた兵を連れて王宮の廊下を進みはじめた。
◆◆◆
同時刻。
国佐の陽動と時を同じくして、テオは霊山洞穴に足を踏み入れていた。
テオは過去に二度、この洞穴に侵入している。
一度目は九郎の父である斑鳩司祭を捜しに来たとき。
二度目は海東青を射た後の潜伏先として。
今回で都合三度目であり、いかに魔人の膝元とはいえ、もう緊張することはないと考えていた。
ところが。
洞穴に一歩足を踏み入れた瞬間、テオは全身から汗が吹き出すのを自覚した。
洞穴の熱気のせいだけではない。見られていると、そう感じた。
物理的な痛みさえ感じる視線の槍。その重圧のせいで空気が鉛のように重い。
気がつけば呼吸が浅くなっていた。この洞穴には何かとんでもないモノが潜んでいる。そのことがはっきりと感じられた。
共に洞穴に踏み込んだ国佐の手勢も、テオと同様のことを感じているようで誰も一言も発しない。
不可視の重圧は洞穴を進むにつれて強くなる一方だった。
ここに来るまでの間、テオを監視するようにずっと背後に陣取っていた兵士は、顔中から滝のような汗を流し、足取りも覚束ない。
身体の変調を訴える者も多く、重度の吐き気や眩暈で膝をつく者も出始めた。中にはまだ見ぬ敵に怯え、頭を抱えてうずくまってしまう者もいる。
とてものこと、戦闘に耐えられる状態ではない。
「……まだ姿も見せないうちから、これか」
しゃれにならん、とテオはうめくように呟いた。
これまでの経験から、魔人と対峙した人間がきわめて強い重圧にさらされることは理解していた。ベアトリスやユーベルと対峙したとき、テオ自身もそれを感じたことがある。
だが、姿も見えていない相手から、これほどの重圧を受けたのは初めてだった。
魔人フッキ。
その存在と秘めたる力をはっきりと認識しながら、それでもテオは前へと足を踏み出す。
ここまで来て引き返すのは論外。この場にとどまる意味もない。
であれば、前へ進むしかないではないか。
そんなことを考えるテオの腰で、聖剣が小さく煌いた。




