第七章 政略の季節(五)
俺にとって解放暦二三八年七月は、驚くほどあっという間に過ぎ去った。
教皇親征に加わるため、ウィンディア領ソラリスの街からベルリーズへ戻ってきたのが六月の末。
以来、遠征の準備にはじまり、旧コーラル領への進軍、廃都での戦闘、ベルリーズへの帰還、王弟セルディオとの再会、カリスたちとの出会いなどイベントが盛りだくさん。
気が付けばいつのまにか七月は終わっており、暦は八月を指していた。
夏も盛りのこの日、俺はベルリーズ郊外に流れる川岸で釣り糸を垂れていた。
強い日差しを嫌って木陰に陣取り、かれこれ一刻あまりも川面を眺めている。
北のギール山から吹き降ろす山風が都市の暑熱を払ってくれるため、ベルリーズの夏はきわめて過ごしやすい。温かな木漏れ日に、頬を撫でる優しい風。このまま昼寝を決め込めば、さぞ心地よい午睡になるであろう。
しかしながら、過日、イズに言明したとおり全財産をシルル教団に寄付した俺は、現在ほぼ無一文の状態だった。
具体的にいえば、ここでの釣果の有無が夕食の有無に直結してしまう状況だということである。
俺ひとりだけなら一食くらい抜いても問題はないのだが、今の俺は家族(になる予定の姉妹)を抱えている身なので、釣り一つにも真剣にとり組まねばならない。
ちなみにその家族の一人、妹のトワは今も俺の近くでちょこまかと手足を動かしている。
釣った魚を泳がせておくため、川岸の小石をどけて穴を掘っているのだ。そこに川水を流し込み、小さな池をつくるという寸法である。
姉のカリスもそうなのだが、この姉妹、見た目は楚々とした風情ながら、実際に接してみると意外に活発であり、もっというとパワフルだった。
もちろん腕力的な意味でのパワフルではない。生活力があるというか、適応力に長けているというか、そんな感じの力強さである。
ランカース公が叛逆罪で処刑されて、まださして時は経っていない。その処刑を実行した国王の命令で、一介の冒険者に与えられた。そんな自分たちの境遇に思うところは多かろうに、悲哀や愁嘆はまったく見せない。少なくとも俺は見たことがない。
カリスは初対面時から積極的に話しかけてきて、俺と良好な関係を築こうと努力しているのが見て取れたし、トワにいたっては俺の行くところ行くところ、笑顔を浮かべてちょこちょこと付いてくる。
弟のシュナは小さい頃は病弱で、外を駆け回ることはできなかった。なので、こういう風に元気よく付きまとわれる感覚は俺にとっても新鮮だった。
――正直にいうと、教団に寄付をするにしても、当面の生活に支障が出ないくらいの金は残しておくべきだったかなー、と少々後悔している。
ランゴバルドからもらった金品もまとめて寄付してしまったから、俺がみずから招いた困窮に、おもいっきり姉妹を巻き込んでしまっているのだ。
言い訳をするならば、本来の俺の予定では、まだ姉妹はセルディオのもとに留まっているはずだった。
旧コーラル領をめぐる各勢力の話し合いが半月や一月で終わるとは思えず、当然、王弟はその間ベルリーズに滞在する。
一月もすれば、俺の一時的な困窮状態も解消しているだろう。俺としては、それから改めて二人を迎えるつもりだったのだが、あにはからんや、二人はさっさと俺のところに来てしまった。
王弟に強いられたわけではなく、自分たちの意思で、である。
姉のカリスいわく、どのみち一緒に暮らすなら早い方が良いでしょう、とのこと。その隣ではトワがこくこくとうなずいていた。
俺がこの姉妹の持つ『強さ』を感じたのはこれが最初である。
ぶっちゃけると、当初は素泊まりの宿(食事を出さない宿)で三人で寝てました。
鍵はおろか扉もなく、外から中をのぞき放題の掘っ立て小屋。宿泊費はお一人様銅貨一枚。雨風がしのげる分、野宿よりはましだろう、という宿屋である。
仮にも公爵の愛妾だったカリスからすれば、あまりの転落っぷりに目がくらむような環境だったはずなのだが、当の本人はいたって平然としていた。トワの方はといえば、かえって物珍しさが先行したらしく、覗き込まれるのを嫌がるどころか、自分から他の部屋を覗きに行く始末。しばし後、帰ってきた少女の手には他の宿泊客からもらった干し肉やら果物やらが握られていた……
――釣り糸を垂れながら数日前のことを思い出していると、不意に袖を引っ張られた。
目を瞬かせてからそちらを見やると、トワがふんすと鼻息を荒げて胸を張っている。池作りの作業を終わらせたらしい。
上流から水を引っ張り込み、下流に向けて流す水路までつくっているあたり、意外に凝り性なのかもしんない。
左手を釣竿から離して、リボンごと頭をなでてあげると、トワは嬉しそうにくしゃっと笑う。可愛い。
その後、俺の手を煩わせるのを避けるように、トワは自分がつくった池のところに戻った。
ビクに入っていた三匹の魚を池に放ち、水の中を泳ぐ魚たちを興味深げに見守っている。
ただ、当然といえば当然だが、トワがつくった池は三匹の魚が自由に泳げるほど広くない。中の一匹が狭さに耐えかねたように大きくはね、飛び散った水がトワの顔にかかってしまう
「……ッ!?」
驚いたトワが声ならぬ声をあげてのけぞる。
はねた魚は大きく池を飛び出し、川の浅いところに着水する。さらにぴしゃぴしゃとはねて川に逃げ戻ろうとする。
それを見たトワは、あわあわと慌てて駆け寄ると、服が水に濡れるのを厭わずに川辺にしゃがみこんで、逃げようとする魚を捕らえにかかった。あの様子では服が水びたしになってしまいそうだが……まあ、今日の陽気ならすぐ乾くだろう、うん。
その後、かろうじて再捕獲に成功したトワが申し訳なさそうにしているので、気にしていない旨を伝える。
すると、栗色の髪の少女はぱっと表情を明るくし、こちらに駆け寄ってくるや、俺に寄りかかるように座り込んだ。
ややあって、その口からすうすうと寝息がこぼれ始める。このあたりの動と静の目まぐるしさも、いかにも子供らしい。
ところで、今の一幕の間、トワは盛んに表情をかえ、身振り手振りで感情を伝えてくれたが、その口から意味のある言葉が発されることは一度もなかった。
もっといえば、出会ってからこちら、俺はトワの声を一度も聞いたことがない。
トワは声を失った女の子なのである。
◆◆◆
「生まれつき、というわけではありません」
妹の異常について姉のカリスが口にしたのは、件の素泊まり宿に泊まった最初の夜だった。
自分の膝を枕にして眠るトワの髪を優しくすきながら、カリスは妹が声を失った事情を教えてくれた。
「先ごろからランゴバルド王国で大勢の人間が行方知れずになっていた事件はご存知ですね? この子もその一人だったんです。半年前、何の前触れもなく姿を消してしまった。私は懸命に捜しましたし、公爵様も力を貸してくれました。けれど、どうしても見つけることができなかった。見つかったのは、ついこの間のことです」
「……む」
それを聞いた俺は眉根を寄せる。
ついこの間――それはつまり、ボタン廃鉱の魔方陣を通じて発見された行方不明者たちの中にトワがいた、ということであろう。
魔人と、魔人にくみしていた反乱軍に囚われていた被害者のひとり。
そして、その反乱軍の首魁は、今カリスが口にした公爵様――ランカース公だった。少なくとも、ランゴバルド王国の公式発表ではそうなっている。
カリスはそんな俺の戸惑いを察したらしい。いや、察したというより予期していたのだろう。こんなことを口にした。
「私は公爵様が魔人に通じていたとは思っていません。トワを案じてくださる公爵様の気持ちは本物でした。公爵様を処断した陛下の判断は間違っています」
一瞬、カリスの藍色の瞳に強い感情の光がきらめき――すぐに消えた。
「……解放されたトワは、おそらく恐怖のためでしょう、捕まっていた間の記憶を失っていました。それと共に声も出せなくなってしまったんです。お医者様の話によれば、虜囚生活の不安と恐怖が高じたためだろう、ということでした」
心の問題なので、薬や魔法で治すことは難しい上、無理に治そうとすればますます悪化してしまう恐れもある。これから普通の生活を送っていけば、ふとした拍子に治ることもあるだろう――医者はそう語ったそうだ。
ようするに、治す手立てはなく、治る見込みも少ないということだろう。
ただ、声が出せないといっても感情を失ったわけではないし、口が動かせないわけでもない。
楽しいとか、綺麗とか、嬉しいとか、そういった短い言葉であれば、口の動きだけである程度は伝えられる。長年寄り添ってくらしてきたカリス相手ならば、もっと長い会話も可能であった。
と、ここでカリスはトワの頭を膝から枕に移し、自らは姿勢を正して俺に向き直った。
そして、おもむろに額が床につくくらい深々と頭を下げた。
「王弟殿下からうかがいました。トワをはじめとした行方知れずの方々を見つけることができたのは、あなたが反乱軍の目論見を見抜き、これを撃ち破ったからである、と。私の事情を承知した上で、お傍に侍ることを許していただいたこととあわせて、ここに心から御礼を申し上げます」
なんというか、礼法の教科書にそのまま見本として載せられそうなくらいに綺麗な座礼であった。
ようするに土下座なわけだが、これを土下座と表現するのは少しはばかられる。単純に綺麗なのである。
俺の偏見であるが、権力者の愛妾だった踊り子というから、もっと色気や媚態を前面に押し出してくる人物かと思っていた。
ところが、カリスにはそういった狎れや媚びがない。かといって、権高であったり、取り澄ましているわけでもないのは、今こうしてここにいる事実が物語っている。
わきまえがある、とでも言おうか。俺に従う様子をはっきりと見せながらも、自分の誇りとする一線をきちんと持っている。
人によっては踊り子ごときが何を気取っているのか、と受け取りかねない態度だが、俺から見れば実に好ましかった。
正直、変に媚びられても困るし、逆に「私は公爵の愛妾だったのだ」というプライドを振りかざされても困る。
だが、こういう女性なら大歓迎だ。
王弟セルディオやランゴバルド王国の思惑に頭を痛めていたのだが、今なら彼らに感謝のキスをすることさえやぶさかではない。この姉妹を押し付ける相手に俺を選んでくれてありがとう。
まあ、それはともかく、いつまでも頭を下げさせているのも落ち着かないので、俺はカリスに頭をあげるようにうながした。
こうして、俺とカリス、トワ姉妹の新しい生活が幕を開けたのである。




