第六章 魔剣(二)
「……コーラル帝国を守護していた戦神レノ様、ですね」
陰々とした闇に包まれた空間にスーシャの声が響く。
低く、それでいて芯の強さを感じさせる声。鋭く細められた翠緑の双眸には恐怖も驚愕もなく、眼前の光景が教皇の予測の内にあるものだったことを言外に物語っている。
甘粥を飲んでほんわかしていた少女とは別人のようだ。
一方の俺はざわつく感情を抑えることができずにいた。
コーラルの戦神が果てたのは今から三十年前だ。当然、俺は生まれておらず、レノという神に対する個人的な思い入れはない。
だが、神々に――アスティア様の同族に対する敬意はあるし、その人が三十年以上の長きにわたって死屍を磔にされていると思えば、どうしたって怒りは湧いてくる。
俺たちが下ってきた階段は、どう考えてもこの場所にやってくるためのものだ。つまり、この惨状を意図的に継続させている何者かが存在するのは間違いない。
敬愛する女神の面影が、死してなお朽ちることを許されない戦神の顔に重なり、俺は鉄靴のかかとで床を蹴りつけた。
と、まるでそれを合図としたかのように、魔剣が禍々しい赤光を放ち始める。
とっさに剣を構えて警戒するが、どうやらこの異変は侵入者を察知して起きたものではないらしく、直接的な攻撃が飛んでくることはなかった。
かわりに、柄に埋め込まれた真紅の宝玉から放たれる光がどんどん強くなっていく。息がつまるような圧迫感。目には見えない、それでいて確かな実体をともなった魔力の奔流が全身にからみついてくる。
俺は反射的に左手で鼻と口を覆った。そうしないと、鼻や口を伝って体内まで魔力に侵されてしまいそうな気がしたのだ。
思い出すのは白精樹で魔人ユーベルが正体をあらわした際のこと。あの時もこれに似た圧力を感じた。
違いがあるとすれば、この剣はユーベルのように俺に敵意を抱いているわけではない、ということか。俺が感じているのは、魔剣が秘めた力の余波に過ぎないのだろう。
その余波が、魔人級の圧力を生み出しているという事実に薄ら寒いものを感じてしまう。
凝然として立ち尽くす俺たちの眼前で、魔剣の光と、戦神の血と、腐った土が溶け合わさって新たなスライムが誕生する。
廃都のスライムが他所に生息する個体と異なる性質を持っている理由を知った俺は、低い声で呟いた。
「……つまり、これがコーラルを犯す呪いの源、ということか」
「間違いありません」
隣にいたスーシャから即答がかえってくる。
今しがたのおぞましい光景のせいか、あるいはそれ以外の理由があるのか、少女は唇をかみしめ、柳眉を逆立てていた。
「不思議には思っていたのです。広大なコーラルの天地を呪いで覆い尽くすためには、とてつもない魔力を必要とするはず。いかな魔人といえど、自らが滅びた後で三十年以上も弱まることのない呪いを残せるものなのか、と。ですが、なるほど、同族の心臓を触媒に。これなら呪いは永久に機能し続ける」
小声の述懐は俺への説明というより、自分の考えをまとめる為のものだったのだろう。
その証拠に俺が「心臓?」と疑問の声をあげると、スーシャは驚いたように目を瞬かせて、こちらを見上げてきた。
「あ、はい、そうです。剣の柄に埋め込まれている赤い玉が見えますよね。あれは魔人の心臓――無限の魔力の源です」
「魔人の力……よくそんなことを知ってるな?」
「むかし、一度だけ見たことがありますから」
こちらの疑問に、スーシャはしれっとした顔で聞き捨てならない答えを返してきた。
俺は目を剥いてスーシャを見る。
「見たってどこで!?」
「エンテルキアの大神殿で。テオだって見たことはなくても聞いたことはあると思いますよ。賢者の石とか、エリクサーとか、聖杯とか、聞き覚えがありませんか?」
無限の魔力、不老不死、死者蘇生、その他あらゆる不可能を可能にする万能の一。
誰もが一度は聞いたことがあるであろう、本当の意味での奇跡の産物。
その正体は魔人の心臓なのだ、とシルル教皇は口にした。
「魔人は無限の魔力を持つ存在であり、心臓はその根源。魔人の体内から取り出された心臓は、純粋な魔力生成機関として機能します。その力をもってすれば、大抵の願いはかなえられるでしょう。コーラルを襲った魔人は、それを剣に組み込むことで力を増幅させていた。そしてレノ様と刺し違えたとき、剣を触媒としてこの地に呪いを残したに違いありません」
それを聞いた俺は眉間にしわを寄せて考え込む。
与えられた情報が重大すぎて微妙に処理が追いつかないが、今、俺が気にするべきはあの魔剣のことだ。
スーシャの言葉が正しければ、剣の柄に埋め込まれた紅玉は魔人の心臓。
永遠、無限、万能、そういった伝説を生み出した奇跡の象徴にして力の極み。
手に入れれば魔人に等しい力を得られるであろう剣を前に、俺は我知らず生唾を飲み込んでいた。
魔剣の赤い輝きが、俺の視線をとらえて離さない――いや、違う。剣が俺をとらえて離さないのではなく、俺が勝手に剣に見入っているのだ。
おそらくはイズの聖剣よりも強力な神殺しの魔剣。それを前にして端然としていられるほど無欲にはなれない。
端的に言うと、超欲しい。
憑かれたように魔剣を凝視していた俺の耳に、スーシャの凛とした声が響いた。
「魔人の力は強大にして底を知らず。人の器に収められるものではありません。無理に注ぎ込めば、器そのものが壊れてしまいます」
澄んだ双眸でじっと俺を見つめる少女の顔は、これ以上ないほど真剣なものだった。
それは「余計なことを考えてくれるな」という忠告であり、警告であり、もしかしたら懇願でさえあったかもしれない。
もし俺がここで魔剣を手にとって命を落とせば、スーシャはこんな地の底で一人ぼっちになってしまう。魔剣の魔力で正気を失った俺がスーシャに襲いかかる可能性だってあるだろう。
強大な武器を得るために賭けに出て、結果として落命したとしても、それは俺の自業自得で済む。しかし、それによって他者に重荷を背負わせてしまうのはどう考えても間違っている。
というかそれ以前に、廃都の地下深くで得体の知れない力に魅入られ、子供を不安にさせている時点で大人としてダメダメだ。
おのれの醜態を自覚した俺は、ためらいなく自分の頬をひっぱたいた。力のかぎり思いっきり。
バッチンッッ、という派手な音が周囲に響く。傷を塞いでもらったばかりの左頬から飛び上がるほどの激痛が伝わってきて、視界一杯に星が乱舞した。
「ぐぉぉ……いってぇ」
「テ、テオ!? とつぜん何を!」
突然の奇行を目の当たりにしたスーシャが驚いて目をまん丸にする。
俺は痛む頬を撫でながら、正直に自分の行為を説明した。
「い、いや、ちょっと邪念が湧いて出たんで、誘惑を振り払うために強烈な一撃をかまして目を覚まそうと……」
「だからって塞いだばかりの傷口をひっぱたく人がありますか!?」
「スーシャを不安にさせた自分への罰も含めておいた」
「唐突に自傷行為に走られる方が不安になります!」
頬を膨らませたスーシャに怒られてしまう。
言われてみればそのとおりだったので、俺は錫杖片手にプンスカ怒る教皇にすんませんと頭を下げた。
◆◆
「むー、テオに怒ったせいで緊張とか不安とかが全部どこかに飛んでいってしまいました。ひょっとして、計算ずくだったりしますか?」
しばし後、怒りをおさめたスーシャはそう言ってこちらの顔をうかがってくる。
俺は軽くかぶりを振って応じた。
「それだったら格好がつくんだがな。残念ながら怪我の功名だ」
魔剣を欲しいと思ったのも、見入ってしまったのも、まじりっけなしの本気だった。
まあ冷静に考えてみれば、こんな伝説級のアイテムを個人所有できるはずがない。
仮にこっそり持ち出したとしても始末に困るだろう。こうも赤々と光られたら持ち歩くだけで目立つし、なにより自動で魔物を生み出す剣とか怖すぎる。持ち主である俺が魔人扱いされて討伐されかねん。
その程度のことにも気づかなかったあたり、どうやら俺もだいぶ廃都の毒気にあてられていたらしい。
ともあれ、考えるべきはこれからのことである。
我が身の安全だけを考えるなら、ここで回れ右をして立ち去るべきだろう。
しかし、今回の大遠征の目的は廃都の浄化であり、つまりは眼前の魔剣を何とかしないといけない。
スーシャが封印できるならそれに越したことはないのだが、対象はコーラル全土を三十年以上に渡って汚染して、なお尽きることのない呪いの水源。これを封じ込むことの困難さは俺でもわかる。
俺の懸念を聞いたスーシャはこくりとうなずいて肯定したが、続けてこうも言った。
「たしかに完全に封じ込むことは不可能です。人の力では無限の魔力に対抗できませんから、一時的に押さえ込むのが精一杯でしょう」
そこで小さく一息ついたスーシャは、静かに付け足した。
「けれど、手段はあります」
「それは?」
「壊します。これで」
教皇が女神の錫杖で床をつくと、杖の頭部につけられた複数の銀環が触れ合って、しゃらんと澄んだ音をたてた。
静かな物言いが、かえって激しい本心をあらわにしているように思われる。
おそらく、スーシャははじめからこの魔剣――正確にいえば、魔剣の柄に埋め込まれている紅玉を破壊するつもりだったのだろう。
その理由もスーシャは教えてくれた。
「魔人の力は人の手に余ります。無理をして手に入れたところで活かす術はなく、疑心と妬心の温床になるだけ。それなら初めから得ない方がいい」
そう言うスーシャの声は低く、重い。何かに耐えるように言葉をしぼり出す様はひどく苦しげだ。
今のスーシャを動かしているのが、単に強大な力に対する危惧だけなら、ここまで深刻な様子を見せることはあるまい。おそらく、過去に何かあったのだろう。あのスーシャが無意識のうちにここまで苦しげな顔をしてしまう何かが。
こんな顔をされてしまっては反対意見など口に出せるはずがなかった。今しがた魔剣に魅入られかけた身だから尚更に。
俺は努めて軽い調子で賛意を示す。
「そういうことなら、さっさとやってしまおう。なに、呪いの源が何だったのかを知ってるのは俺たちしかいないんだから、何の問題も――」
ない、と言いかけた俺は途中まで出かけていた言葉を飲み込んだ。
気配がしたのだ。目には見えず、耳には聞こえず、けれど確かに神経に触れてくるものがある。
後方の闇の中から俺たちをうかがう視線。
突然黙り込んだ俺を見てスーシャが怪訝そうな顔をするが、俺は彼女に説明する手間さえ惜しんで闇とスーシャの間に割って入った。
そうして剣を構えて視線と対峙する。
俺が前置きもなく臨戦態勢に入ったことで、スーシャは何が起こっているのかを正確に洞察したのだろう、すぐさま自分も錫杖を構えて警戒態勢に入る。このあたりの勘の良さ、察しの良さは、教皇というよりも一流の戦士のそれだった。
俺は感嘆と安堵を同時に感じた。
感嘆は純粋にスーシャの資質に感じ入ってのこと。安堵の方は、スーシャが言葉によらず状況を察してくれたことで、視線の主への対処に全力を注げるからである。
いつの間にか、額にじんわりと汗がにじみ出ていた。無意識に緊張を強いられた結果だ。
自分で言うのもなんだが、こんなことは滅多にない。相手の正体はさっぱりわからなかったが、それでも他所事に気を取られてよい相手でないのは火を見るより明らかであった。
闇に潜んだ相手の正体を見極めるべく目を凝らす。が、視界にうつるのはわだかまる闇ばかり。
松明と魔剣の赤光だけでは全容がまったく見通せない。魔剣に気を取られていて気づかなかったが、この場所は相当に広大な空間であるようだ。俺とスーシャが立っている場所は全体のごく一部にとどまるのだろう。
そんな俺たちを、闇の奥からじっと見つめている誰かがいる。
「……テオ」
指示をあおぐように小声で俺の名を呼ぶスーシャを、ちょいちょいと手招きし、後ろに隠れるよう促す。
こちらを見据える闇の視線に殺気は感じない。
だが、光源の近くにいて姿をさらしている俺たちに声をかけず、自分は闇の中に潜んだままということは、味方である可能性はごくごく低い。
味方でなければ敵。廃都の地下という状況を考えれば、それは当然の判断であろう。
スーシャは余計なことは何も言わず、何も訊かず、指示されたとおりに俺の後ろに移動する。
敵に集中したい俺としては実にありがたかったが、最後にスーシャは予想外の行動をとった。俺と背中合わせの姿勢をとったのだ。
スーシャはスーシャでただ庇われるつもりはなく、後方――俺たちが下りてきた階段の方を警戒する心積もりであるらしい。
……うん、ほんとに良くできた子だこと。どれだけ高い魔力を持っていたとしても、普通、ここまで想定外の事態が重なれば少しくらいは怯えたり、取り乱したりするものだろうに。年齢を考えればなおさらだ。
しかし、スーシャはその場その場で自分のできる最善をしっかりと把握し、それに沿って行動している。頼もしいことこの上ない。
こんな素敵な子を、こんな薄汚い場所で傷つけさせるわけにはいかなかった。
絶対に。
剣の柄を握りなおした俺は、改めて前方の闇と対峙する。
そのまま姿の見えない敵との対峙をどれくらい続けただろうか。
終わりは唐突に訪れた。
それまで闇一色に染まっていた前方の空間に小さな光がともる。松明の明かり。俺とスーシャ、視線の主以外の誰かがこの場所にやってきたのだ。
その「誰か」の声が響いたのと、俺たちを見つめていた視線が途絶えたのは、ほとんど同時であった。
「あ、テオ、無事だったんだ! 良かったぁ――って、聖下もいらっしゃる!?」
わだかまる闇を一息で吹き飛ばしてしまいそうな明るい声音を聞き間違えるはずもない。
それはイズのものだった。それと気づいたスーシャがひょこりと俺の後ろから顔をのぞかせると、明るい声に歓喜の色合いが加わる。
と、顔をほころばせて駆け出そうとしたイズを、冷静な声が引きとめた。
「こら、イズ、少しは警戒しなさい! 魔物が擬態しているかもしれないんだから」
「でもフレア、聖下の持つ女神の錫杖を握れる魔物なんているとは思えないんだけど?」
「それも含めて偽者かも知れないでしょう。それに、あの二人が本物だとしても、私たちが追って来たオウガはどこに消えたの?」
その言葉に理を認めたのか、イズは踏み出しかけていた足をとめ、あらためて周囲に警戒の視線を向ける。
かわって声をあげたのはウルクだった。
「私の目には、あの二人は本物に相違なしと映っていますが、そういうことなら確認をとりましょう。過日、セラに赴いた前日にテオが私たちに振舞ってくれた料理は何でしたか?」
どうやら謎かけで真偽を判断しよう、ということらしい。
当事者しか知りえない事柄で偽物の正体を暴くというのは、こういった場合の定石である。
俺は迷うことなく応じた。
「魚団子と香草の薄塩スープ」
「その材料になった魚を釣ったときの釣果の内訳は?」
「俺が四匹、ウルクが八匹」
「テオは私の髪を無理やり切り落としたことがある?」
「……無理やりではなく、必要に駆られて、と言ってほしい」
「テオは初対面で私の水浴びを覗いた。はいといいえ、どちらですか?」
「ちょっと待てぃ」
俺が出題者に対して問題選びの真意を問いたい衝動に駆られていると、ウルクは澄ました顔で同行者二人にうなずいて見せた。
「間違いなく本物のテオですよ」
「……そのようね」
「あ、あはは」
フレアが冷たい表情でうなずき、イズが苦笑する。
そのやり取りを見れば、向こうこそ魔物の擬態なのではないかという疑念はいっぺんに吹き飛んだ。
知らず安堵の息を吐き出しながらも、俺は微妙に納得のいかない表情をしていた。
今ここにいるのはウルクが呪いでゴブリンにされていたことを知っている者ばかり。なので、俺がエルフの水浴びを覗き見した不届き者にされる恐れはないだろう。
ウルクがそれを考慮して問題を選んだことはわかる。わかるのだが、もう少し選びようがあったんじゃなかろーか。
そんなことを考えて渋面をしていると、不意に至近からくすくすと小さな笑い声が聞こえてきた。
声にうながされてそちらを見れば、スーシャが楽しげに微笑んでいる。
と、俺の視線に気づいたスーシャは、どこか悪戯っぽい表情を浮かべて口を開いた。
「知りませんでした。テオってえっちだったんですね」
ぐらり、と俺の身体が大きく揺れた。
からかうような声音を聞けば、スーシャなりの冗談であることはわかる。だが、それを差し引いても俺が受けた衝撃は大きかった。まさかシルル教皇にえっち呼ばわりされる日が来ようとは。
思わず天を仰いだ俺をあざけるように、魔剣が赤い光を煌かせた。




