第五章 教皇親征(二)
廃墟。その都市を表現する言葉で、これ以上ふさわしいものはなかった。
城壁は崩れ落ち、家々は瓦礫と化し、噴水からは水の代わりに瘴気が噴き出して、住む者のいなくなった街並みを犯し続けている。
通りを歩くと、悲鳴にも似た重く低い音が鼓膜を揺さぶる。何の音かはわからない。街路を吹き抜ける風か、どこかで魔物が喚声をあげているのか、あるいはこの地で散った人々の苦悶の声なのか。
地の底から湧き上がる負の遠鳴りは都市全体を包み込み、あたかも街そのものが断末魔のうめきをもらしているかのようであった。
旧コーラル帝国の都コーラル・シー。
かつて戦神の下で栄華を極め、三十年前の大侵攻で魔軍によって滅ぼされ、今では廃都としか呼ばれなくなった街。
そんな廃れた街並みを横目に、魔人ベアトリスは一人悠然と歩を進めていた。三十年間、ただの一度も陽光を浴びていない闇一色の大通りに、赤いハイヒールを履いた魔人の足音がカツカツとこだまする。
しばし後、大通りを抜けたベアトリスは開けた場所に出た。
往時「スプーンからプレートメイルまで、ここで揃わぬものはない」と称された帝都市場、その中心地である。
かつては大陸中の人々が訪れたコーラル繁栄の象徴は、街並みと同様に無残に廃れ、今では無数の瓦礫と骨が散らばる遺構となっている。
それらの骨は三十年前に果てた住民のものと思われたが、よく見ればいずれも新しく、中には人間の骨格とは異なる形状をしている骨もあった。
ゴブリンの骨、オークの骨、鬼族以外の魔物の骨。
仲間割れか、同士討ちか。
魔物同士が相争うことは別段めずらしくもない出来事であるし、殺した相手の死肉を喰らう魔物や動物はどこにでも存在する。ベアトリスの眼前に広がる光景は、そういった出来事の結果であると思われたが、明らかに異常な点もあった。
骨の数が多すぎるのだ。
おそらく、この場で果てた魔物の数は十や二十ではきくまい。
一体何者がこれをなしたのか。
答えはすぐに向こうからやってきた。
『それ』は音もなく、這うように地面を伝い、ベアトリスに襲いかかった。
声はあげない。口がないから。
武器はもたない。腕がないから。
音はたてない。足がないから。
スライム、と呼ばれる粘液状の魔物である。定まった形をもたない液体モンスター。思考は存在せず、人や動物、魔物の死骸にたかり、死肉をとかしてエサとする。
全体が粘液であるから斬っても突いても一向に効き目がなく、打撃の類も効果は薄い。
反面、魔法には弱く、もっといえば松明などの火を近づけるだけで逃げていく。
本来であれば、よほどのことがないかぎり脅威にはならない魔物である。スライム自身、生き物に襲いかかることは滅多にない。
だが、この都市にかぎっていえば、スライムは生態系ピラミッドの頂点に君臨する魔物であった。
廃都に生息するスライムは従来のそれとは大きく異なる、いわば変異種であった。
武器は効かない。火も恐れない。上位魔法さえ通じない。動く者がいれば、それが何であれ襲いかかり、強酸にも似た体液で溶かして吸い尽くしてしまう。この場に転がっている骨は、運悪くスライムに捕捉されてしまった魔物たちの成れの果て。
ベアトリスに襲いかかったスライムはその中でも最大の存在であり、広場すべてを覆い尽くして余りある容量を持っていた。
この巨大な変異種を前にしては、百名を超える精鋭部隊でさえなす術なく全滅させられるであろう。
――もっとも、魔人にとっては地を這うナメクジ同様、なんら脅威とするに足らない相手であったが。
強酸の身体を波打たせ、大波のごとく襲いかかってくるスライムに向けて魔人は短く言葉を発した。
『弾け散れ』と。
直後、滝のように魔人に降り注ごうとしていた巨大スライムの身体が大きく弾けた。
一瞬で無数の飛沫と化したスライム。四方に散った飛沫はさらにはじけて小さな滴となり、滴はさらに弾けて粒となり――最後には一滴も残らず宙に溶けてしまう。
その間、五秒と経っていない。
ベアトリスは特に足を止めることもなく広場を通り過ぎる。今の一幕はすでに魔人の脳裏から消え失せていた。
◆◆
ほどなくしてベアトリスは都市の中心、かつて帝城があった場所に足を踏み入れる。
街の大部分の建物が損壊している中で、いかなる理由によるものか、この帝城だけは三十年前の偉容を今にとどめており、地下に築かれた広大な建造物もほぼ無傷のまま残っていた。
この地下の建造物というのは、歴代のコーラル皇帝が魔人との決戦に備えてつくりあげた地下要塞で、有事の際には廷臣や住民を収容して篭城戦を行えるように設計されている。
命知らずの冒険者の中には、危険を冒してここに潜り込む者も多い。
当時、最大の強国が魔物との最終決戦に備えてつくったものだけに、地下には魔法や奇跡が付与された武具や宝物が多く眠っているからである。
魔人殺しの聖剣『火輪』もこの地下要塞の一画で発見された。
かつてコーラルで戦った魔人と戦神は相打ちになったと伝えられている。ここで聖剣が見つかったということは、必然的に神殺しの魔剣もここに眠っているはず――そう考える者は多い。そして、その魔剣こそがコーラルを侵食する呪いの核になっているのではないか、と考える者もまた多かった。
魔人の身体が滅びた今、もっとも怪しいのは魔人が使っていた武器である。シルル教団による遠征の最終目的地が常に帝城に定められているのも、これが理由となっている。
「そのとおり、と教えてあげたいところね」
ベアトリスは小さく笑うと、魔人の力を発動させる。一瞬後、ベアトリスの姿はコーラルの地下深くに現れていた。
本来、転移するならばわざわざ街中を歩いてくる必要はない。しかし、長距離の転移を行えば、それだけ他者に察知されやすくなってしまう。この廃都を守る存在に気づかれたくなかったベアトリスは、あえて転移を最小限にすることで自身の進入を隠そう考えたのである。
そうしてベアトリスがやってきたのは地下要塞のさらに下、地図にも載っていない一画であった。
地下にあるとは信じがたいくらい広々とした空間には、魔人でさえ息がつまるほどの濃密な瘴気が渦巻いている。
闇の向こうからは、地上で聞こえた都市の断末魔を百倍に凝集したような異音が響いてきた。床の土は腐り落ちて、歩くたびに粘着質な音をたてる。立ち込める腐敗臭はもはや凶器の域に達していた。
並の人間であれば、十分もいれば気が触れるであろう腐乱の部屋。正直、ベアトリスも長居したいとは思わない。
それでもここにやってきたのは目的があったからである。
まっすぐに歩を進めたベアトリスの視界に、やがて一つの光景が映し出された。
余計な装飾をそぎ落とし、事実だけを記せば、それは一本の剣だった。
赤い輝きを放つ魔剣が、一人の女性の胸を刺し貫いている。
剣の形状はベアトリスが持つ血煙の剣と酷似しているが、刀身を包む赤光はこちらの方がはるかに濃い。
魔剣の柄に埋め込まれた球状の物体が、まるで心臓のようにドクドクと脈打っているのが分かる。この玉が脈打つたび、周囲に強い魔力が放射されていた。
女性の方はといえば、こちらは凄惨な有様だった。
胸の中央、心臓部分を串刺しにされ、壁に縫いとめられた姿は標本のようだ。腰斬されたように腰から下は欠けており、苦悶に歪んだ顔が痛々しい。
一方で、肌はまるでつい先刻果てたばかりのように白いままであり、人間離れした美貌はまったく損なわれていなかった。
と、不意に剣の光がこれまで以上に強くなり、赤光が周囲の空間を紅色に染め上げていく。同時に、瘴気の濃度も恐ろしい勢いで濃くなっていった。
壁に串刺しにされた女性の身体がガクガクと震える。
すると、腰斬された部分から、思い出したようにぽたりぽたりと血が垂れ落ちはじめた。
垂れ落ちた血は、腐った床の土と混ざり合い、さらに極濃の瘴気と溶け合って異形の変化を遂げていく。
ほどなくしてその場に誕生したのは、大きさこそ異なるが、先刻ベアトリスが一蹴したスライムの変異体であった。
あのスライムは魔剣の魔力と、女性――死した戦神の肉体を触媒として生まれ落ちたものだったのである。
「……おぞましい。いつ見ても」
ベアトリスはそう吐き捨てると、魔剣の柄に手を伸ばす。
銀髪の吸血種の小さな手が柄に触れようとした、まさにその瞬間。
ベアトリスの首にひやりとした刃の感触が押し当てられた。
魔人の口から、ふぅ、と小さなため息がこぼれる。前を向いたまま唇を動かした。
「あいかわらず油断も隙もないわね、カミュ。これでも気をつけていたのだけれど」
「……それはこちらの台詞です、ベアトリス」
ベアトリスの背後をとった長身の剣士は、静かな声音に鋼のごとき意志を込めて告げた。
「その剣を守ることが私が竜王と交わした盟約です。邪魔立てをするならば、魔人といえど容赦はしません」
「ふふ、魔人といえど、ね」
押し当てられた刃を無視してくるりと身を翻したベアトリスは、カミュと呼んだ剣士と至近距離で対峙する。
ベアトリスの視界には黒い肌と鋭い角を持ったオウガの女性剣士が映っていた。
「たしかにあなたの力量は剣も魔法もかなりのもの。オウガという種の限界に迫っているといえるでしょう。それでも、あなたは魔人ではない。それでわたしを討てると思うの?」
「できないことを、するとは言いません」
すっとカミュの腰が落ちた。ともすれば見逃してしまいそうな小さな動き。
しかし、それはベアトリスの目には看過できない動作と映った。
「……ふふ、ごめんなさい、悪ふざけが過ぎたようね。今日はあなたに伝えたいことがあって来ました」
戦意が無いことを告げるように、ベアトリスは軽く両手をあげる。
それは魔人にとって何の意味もない仕草であったが、カミュの身体から発される闘気の量は少しだけ減少した。
それを返答と受け取ったのか、ベアトリスはそのまま続ける。
「人間たちがまた来ます。今回はいつもよりもずっと大掛かりに、ね。まあ、ここまでたどり着ける者はいないでしょうけど」
ベアトリスがあたりを見回す。さきほど生まれたスライムは、いつの間にか姿を消していた。
「これまで南の地にへばりついていた者たちも重い腰をあげるみたい。いずれランゴバルドが彼の地を攻め落とすためにも、ここで叩いておくべきだと判断しました」
「……叩くというのは、あなた自身が動く、ということですか?」
「正確には私の協力者が、です。この地の守りを委ねられたのはあなただけど、人間と戦うことを好まないあなたにとって悪い話ではないでしょう?」
その問いにカミュは答えようとしなかった。それはつまり拒否もしなかったということ。
教皇親征が始まる十日前の出来事であった。




