幕間 アスティア・ウルム①
シルリス大陸の南西に位置する大国、蓬莱。
その国土を見渡すと、西は大海に面し、北はセラの樹海と接し、東と南の二方向は険しい山地によって遮られている。
国全体が天険に囲まれた蓬莱は、建国以来ただの一度も他国の支配を許したことがなく、これは大侵攻における魔軍さえ例外ではなかった。
大陸最古の歴史を持つ蓬莱の領内には「飢え知らず」と呼ばれる豊かな土壌が広がっている。
東の山地を水源とする川が国土を縦横に走って土地を潤し、渇水期であっても水に困ることはない。潤った土壌は四季に応じて種々の作物をうみだし、国民の腹を満たしてくれた。
人間の生活に不可欠な塩は西の海から、木材は北の樹海で、鉄や銅、銀といった鉱物は南の山地からいくらでも採ることができる。
外は鉄壁、内は豊潤。
そんな地勢が住民の心理にも影響を与えるのか、蓬莱の人々は進取の気風にとぼしく、変化を嫌う。必然的に他国との交流にも消極的であった。
蓬莱は蓬莱だけでやっていける。好きこのんで異国の風を取り入れる必要がどこにあろう、という理屈である。
現在、蓬莱は鎖国に等しい体制をとっているが、国民から不満の声があがらないのはこういった蓬莱人の気質によるところも大きかった。
もちろん、気質のみが鎖国の理由ではない。
蓬莱が国を閉ざした原因、そのことに不満の声があがらない原因は、究極的にはたった一人の巫女に求められた。
『外国との交わりは害多くして利なし。すみやかに外との交わりを断ち、不撓不屈たる蓬莱の純血を守るべし』
この神託を口にした巫女の名を伏姫という。
伏が名で、姫が敬称だが、ここでいう姫は「貴人の娘」という意味ではなく、巫女として蓬莱の安寧を守ってきた人物への美称として用いられている。
もともとは「伏」ではなく「福」というのが彼女の名であったが、神楽を舞っては豊作を招き、祈祷を行えば疫病を鎮め、占い、神託に外れはなく、蓬莱領内に迷い込んできた魔物をその霊力で封じ込めるなど、巫女として卓越した働きを続けた結果、神殿から「伏」の名を与えられることになった。
蓬莱に襲い来る魔物、災厄を調伏する姫巫女の誕生である。
巫女として名を高めた伏姫が国事に影響を及ぼすようになるまで、さして時間はかからなかった。なにしろ伏姫の占いも神託も外れることがない。彼女の言うことにしたがっていれば、国の運営をとどこおりなく進めることができるのだ。
蓬莱の為政者たちは先をあらそって伏姫のもとをおとずれ、彼女の助言を乞うた。
近年、蓬莱はエルフ領であるセラへの圧力を強めているが、これも近い将来の食糧不足を予言した伏姫の言葉によるところが大きい。
伏姫の献言は歴史ある蓬莱の国にさらなる繁栄をもたらし、人々は身分の上下を問わず伏姫を崇め奉った。過激かつ排他的な伏姫の言動に疑念を持つ者もいないわけではなかったが、姫巫女への崇敬の念はそんな疑念をたやすく上回り、疑念が表面化することはなかった。
現在の伏姫の住まいである翠微宮は為政者たちから与えられた離宮のひとつで、質素堅実な外観とは裏腹に内装は華美を極めている。この建物に費やした金銭だけで、一万の軍勢を一年間養うこともできるであろう。
伏姫の歓心を得られるならば、この程度の投資は安いものだ、と蓬莱の為政者たちは考えていた。
結論からいってしまえば、それは巫女の形をして国政に入り込んだ魔人を歓迎する愚行に他ならなかったが、このことに気づいている蓬莱人はいない。
病死、事故死、処刑、暗殺、神隠し。姫巫女の正体に気づいた者はおしなべて排除されてきたからである。
魔人フッキ。
人界において最も深き闇たる第五層。
その魔人は今、翠微宮の一室で気だるげな視線を眼前の配下に向けていた。
「――つまり、そちは『鍵』を手にいれるどころか見つけることさえ叶わず、おめおめと逃げ戻ってきた、と。そういうことかえ、ユーベル?」
額を床にこすりつけるように平伏している赤髪黒肌のオウガに、伏姫は冷めた声をかける。
「は、それは……」
「妾が部下の失敗を許さぬことは承知していよう。その上でこうして顔を見せたからには、何がしかの成果を得たと考えてよいのじゃろうなぁ……?」
伏姫の視線に凍りつくような威圧が漂いはじめる。
同じ魔人であっても力量差というものは明確に存在する。フッキがその気になれば、一瞬でユーベルを葬り去ることも可能であろう。
そのことはユーベルも承知している。
総身に汗を滲ませ、がくがくと身体を震わせるユーベルを見て、伏姫の目が糸のように細くなった。
「まさか、ただ逃げてきたというのかえ? 魔人たるそちが、人間や妖精に苦杯を舐めさせられて、なす術なく? 一粒の米さえ得られず、ただただ逃げてきたというのかえ?」
「は、いいえ、決して人間やエルフごときにしてやられたわけでは……ただ、戦神がしゃしゃりでてきて……」
頭を垂れながら、それでも懸命に言いつくろうユーベル。
しばしの間、そんなユーベルをじっと見下ろしていた伏姫は、不意に口の両端を吊り上げた。赤い紅をさした唇が三日月の形に開かれる。
「……く、くふふふふ、ふあっははははは!! そうか、そうか、逃げてきたのか! 面白い、面白いぞ、ユーベル!! 長く生きてきた妾であるが、ここまで無様を晒した魔人を見るのは初めてじゃ!!」
「フッキ様、それは……!」
「あっははははは、笑いが止まらぬわ! 戦を知らぬそちのこと、シルルの眷属に後れをとることは予想しておったが、まさか第三層たる身が人間ごときに名を成さしめるとはな!! 良い、良いぞ、ユーベル、これほど妾を興がらせるとは大したものじゃ! まったく、大したものじゃて! ふあっはははハハハハッッ!!」
狂ったような伏姫の哄笑は途切れることなく続いた。
室内には複数の侍女が控えており、部屋の外には護衛の衛兵も立っている。彼女たちは伏姫の狂笑を聞いても顔色ひとつ変えなかった。魔人という言葉を耳にしても身じろぎ一つしない。
置物のように黙した侍女たちの目を正面から覗き込む者がいれば、そこに蛇のように縦長の瞳孔を見ることができたであろう。
今、翠微宮に『人間』は一人も存在しなかった。
しばし後、ようやく笑いを収めた伏姫は、紅い唇をゆっくりと開いた。
「このような喜劇が見られると知っておれば、面倒がらずにセラの様子を探っておいたものを。見る必要なしと決めつけたのは早計であったわ、まこと惜しいことをした」
声に笑いをにじませて語る伏姫。
それを聞いたユーベルの背がぴくりと震えた。
戦神と対峙したとき、主の助力がなかったのも当然だった。もともと伏姫はユーベルの戦いなど見てもいなかったのだ。
「こたびの不始末、妾をここまで興がらせたことで不問に付してつかわそう」
「……は、ありがたき幸せにございます」
「じゃが、次はないぞえ。それは理解しておろうな?」
「はッ! ただちにセラに戻って『鍵』を奪ってまいりますッ」
ユーベルは強い口調で応じる。
内心、はらわたが煮えくり返っていたが、それを顔に出せば問答無用で滅ぼされる。だから、怒りを飲み下して相手の意に沿う答えを口にしたのだが、伏姫はあっさりと首を横に振った。
「無用ぞ。もはやそちでは『鍵』を手にいれることはかなわぬであろう」
「は? それは、どのような意味で……?」
「そのままの意味よ。魔人が『鍵』を狙っていると知れば、シルルの眷属は『鍵』を己の懐におさめるであろう。妖精たちがそれに抗うとは思えず、そちは眷属との対峙を余儀なくされる。すると、どうなるであろうの? 妾が思うに、そちは結局何もできずに逃げ帰ってくるのではないかえ」
占うまでもない、と言いたげに伏姫は語る。
それに異議を唱えることはユーベルにはできなかった。
「どれほど愉快な出来事であっても、二度続けば興も失せる。今回の任をそちに与えたのは、妾の一族をたばかって魔人に成りおおせた機転に期待してのことであったが、ふむ、力を得たゆえに失うものもある、ということであろうなぁ」
「……は、な、え!?」
伏姫の言葉を聞いたユーベルの顔が驚愕に歪む。
そんな配下の様子に気づいた伏姫は、にっと唇を曲げた。
「なんじゃ、まさか妾が気づいておらぬとでも思うておったのかえ? 知っておるぞ、小さき鬼よ。そちが魔人の力を得んがため、我ら竜種の同胞を罠にかけ、その身を喰ろうたことは」
伏姫がそれを口にした瞬間、それまで黙して座り込んでいた侍女たちが一斉に目を見開き、平伏するユーベルを凝視した。
声を荒げたわけでもなければ、怒りをあらわにしたわけでもない。ただ、じっと見つめてくるだけ。
それだけでユーベルの全身からは滝のような汗が吹き出した。
ここに居並ぶ侍女、外に控える衛兵は魔人フッキの眷属であり、同時に、最強種の一角たる竜種に属する者でもある。
文字どおりの一騎当千。相手が下位の魔人であれば、主人たるフッキが動くまでもなく彼女たちだけで殲滅できる。
それを知るユーベルはとっさに逃げようと試みたが、それを制したのは他ならぬ伏姫であった。
「くふ、おびえずともよい。言ったであろう、知っておった、と。罰するつもりなら、とうの昔に罰しておるわ。ゴブリンごときの罠に落ち、おめおめ喰われる軟弱者など同胞にして同胞にあらず。別段、仇を討とうとは思わぬよ」
伏姫が言い終えると、それに応じるように侍女たちは一斉に目を伏せて元の姿勢に戻る。
知らず安堵の息をこぼすユーベルに向かい、伏姫はたのしげに命令を下した。その口許に、安堵した相手を奈落に突き落とす暗い悦びが無いと誰に言えようか。
「次の命令じゃ、ユーベル。そちはただちにガルカムウを越えて竜王様のもとに赴け。そしてこたびの経緯を詳細にお伝えするのだ、よいな」
「な!? そ、それは……ッ」
顔をはねあげたユーベルが甲高い声をあげる。だが、フッキはまったく気にせずに続けた。
「嘘偽りなく、真摯に、誠実に、ジウ様にご報告もうしあげよ。シルルの眷属と戦うことに比べれば、なんら難しいことではあるまいて」
押し殺した声で笑いをこぼす伏姫とは対照的に、ユーベルの顔は恐怖と驚愕の二色で塗りつぶされている。
竜王ジウはその名のとおり竜種の長であり、伏姫をはじめとした複数の上位魔人を配下に従える深層の魔人。みずから魔王――魔人領域の覇者を名乗る性情は苛烈にして激越であり、敵はもちろん味方にも容赦はない。
そんな竜王の前で今回の一件を事こまかに報告すれば、すべてを語り終える前に踏み潰されてしまうことは火を見るより明らかであった。
「フ、フッキ様――!」
「たしかに命じたぞえ。では、下がりゃ」
伏姫はハエでも払うように軽く手を振り、再考を願おうとしたユーベルの言葉を遮った。さらに、一切の関心を失ったかのようにユーベルから視線を切る。
もういかなる言葉にも耳を貸すつもりはない、という無言の通告であった。
それと悟ったユーベルは歯噛みしつつ頭を垂れ、這うように伏姫の部屋を後にする。
部屋を出る際、ユーベルの背であざけるような女性の笑い声がはじけた。
それが伏姫のものであるのか、侍女たちのものであるのかはわからない。だが、室内にいる竜種が自分を嘲笑したことだけは間違いない――ユーベルはそのように感じ、心の内を怨嗟で染めた。
◆◆◆
ウィンディア王国領、ソラリスの街。
夜、政庁の一室にテオたちを集めたアスティアは、顔を真っ赤にしてうつむいているエルフの王女に気遣わしげに声をかけた。
「ウルクファルク、大丈夫ですか?」
「は、はい、問題ありませんッ」
父王が意識を取り戻した(その後、すぐにまた眠ってしまったが)ことに歓喜し、その感情のおもむくままにテオに抱きついて大泣きしたウルクは、顔の火照りを残したままこくこくとうなずく。
アスティアはそんなウルクを心配そうに見やった。
王女の様子を見るに、少し時間を置いた方がいいのは明らかであったが、今のアスティアには時間がない。すでに危険なくらいガルカムウの戦線に穴を空けてしまっている。ソラリスの街にいられる時間はもうほとんど残っていなかった。
「これはイズとフレアの両名にも確認しましたが、今から私が話すことは、これまであなたが抱えていた理を覆すものになるでしょう。これから先、安らかな夜を迎えることはかなわなくなるかもしれません。魔人のこと、『鍵』のこと、いずれからも距離を置くという選択肢もありますが――」
「私はそれを選びません、神アスティア」
きっぱりと断言するウルクを見て、アスティアは相手の決意を正しく読み取った。
ウィンディアの戦神は特にもったいぶることなく、結論から先に口にする。
「わかりました。では語りましょう。あなたが父親から預けられた『鍵』はエンテルキア聖教国にあるシルル様の霊廟を開くためのものです」
それを聞いて表情を険しくしたのは、ウルクよりもイズの方だった。魔人が女神の霊廟の鍵を欲している、その事実は教会騎士であるイズにとって聞き流せるものではない。
アスティアはイズの表情の変化に気づいたが、今はウルクへの説明が先だと考えて言葉を続けた。
「シルル様はお隠れになる際、幾人かの眷属に『鍵』を託しました。今、ウルクファルクが持っているのは、あなた方エルフが始祖と慕う妖精に授けられたものです」
「始祖さまの……」
銀葉の形をした鍵を見つめたウルクがぽつりと呟く。
「そうです。おそらく彼女亡き後、代々のエルフ王に受け継がれてきたのでしょう。霊廟はガルカムウに展開する対魔結界の核となっています。魔人が『鍵』を狙ったのは、この結界の排除のためと考えて間違いないでしょう」
そのアスティアの結論を聞いて、顔に疑念を浮かべた者がいる。
フレアが怪訝そうにアスティアに問いを向ける。
「ガルカムウ山脈は地形だけでなく、女神の結界の力で魔物の侵入を防いでいる、ということでしょうか? そのような結界があるとは信じがたいのですが」
「ちょ!? フ、フレア!?」
遠慮も何もないフレアの物言いにイズがあわあわと動揺する。
だが、フレアが疑問を覚えたのも当然といえば当然だった。
ウィンディアの長城には竜や巨人といった大型種が頻繁に襲いかかってくる。ゴブリンやオーク程度ならともかく、大型種をとめられない結界にどれだけの意味があるのか。
くわえて今回の一件で、ベアトリスやユーベルといった魔人が平然と人界で活動していることも明らかになった。
魔人たちが結界を力ずくで破ったのか、それとも隙間を縫って侵入してきたのかはわからないが、ガルカムウの結界が魔人にとって障害になりえないことはこの一事を見ただけでも明らかである。
なによりも過去二百年にわたる大侵攻と、それにともなう惨劇の歴史が対魔結界の意義を否定する。
そんな結界を排除するために魔人が『鍵』をつけねらう、というのはいささかならず妥当性を欠いている。少なくともフレアにはそう感じられた。
それに、結界が張られて二百年以上が経過した今になって魔人たちが動き出した理由もよくわからない。
このフレアの疑問に対し、アスティアは次のように応じた。
「ガルカムウの結界が働くのは、第六層以上の上位魔人のみです」
「上位魔人、ですか?」
「そうです。魔人領域の覇者たり得る実力を持った深層の魔人たち。彼らを阻むためにシルル様は身命を賭して結界を張りました――いえ」
ここでアスティアは小さくかぶりを振り、自らの言葉を訂正した。
「彼ら、ではありませんね。ガルカムウの結界は、極言すればただ一人の魔人を阻むために築かれたものなのです」
魔人ジウ。
アスティアは静かにその名を口にした。
「……ジウ」
フレアとイズ、ウルク、さらにはこれまで無言でアスティアの話に耳を傾けていたテオが、そろってその名を口にする。
これまで聞いたことのない、そしてこれから先、忘れることはないであろう敵の名前を。
「魔人領域では魔王とも竜王とも呼ばれる存在で、その名のとおり竜種の長たる魔人です。過去、人界を侵さんとした魔軍はすべて彼の者の配下でした。魔人たちが今になって『鍵』を求め始めたのは、間違いなくジウの命令によるものでしょう」
ジウは竜種以外のすべての種族を下等と見下し、支配と収奪の対象とする。
これまでは麾下の魔人を差し向けて人界を襲っていたが、とうとう自ら乗り込んでくる気になった。そのために邪魔な結界を、配下の魔人たちによって取り除かせようとしているのだろう。
二百年以上も動かなかったジウが、今になって行動に出た理由についてもアスティアは推測していた。
「ジウは傲岸にして不遜、何よりも敗北を嫌う者です。八年前の敗北が、よほど腹に据えかねたのでしょうね」
「――すべては八年前の大侵攻を妨げられた報復のため、ということですか? 配下に任せるだけでは飽き足らず、みずからの手を下さなければならないくらいに竜王は怒っている、と」
フレアの問いにアスティアはうなずいた。
「ジウにとっては、あなたたち人間も、私のような戦神も取るに足らない存在です。だから、これまで彼の者が自ら動くことはなかった。しかし、八年前、ジウの軍はそんな取るに足らない者たちに敗れてしまった。この事実が竜王の威厳をおおいに損ねたであろうことは想像に難くありません。ジウとしては、自ら人界を蹂躙することで先の敗戦の汚名を雪ぎたいと考えているのでしょう」
くわえて、魔人領域にはジウと反目する勢力も存在する。竜種の中にもジウに従うことをよしとしない者もいる。たとえばアスティアの騎竜のように。
ジウが自ら人界に乗り出そうとしているのは、そういう者たちに対する見せしめの意味もあるのかもしれない――アスティアは丁寧に説明したが、しかし、フレアの両眼はなおも疑問で曇っていた。
それはアスティアの語る内容に欺瞞が含まれていると感じたからではなかった。もっと単純で、だからこそ無視できない疑問。
女神の結界がジウを阻んでいることは理解した。ジウが八年前の報復のために結界を排除しようとしていることも了解した。
だが、そのために魔人たちが『鍵』をつけ狙っているという結論は納得しかねた。
何故といって、本当に魔人が結界の排除を目論んでいるなら、わざわざ『鍵』を探す必要などないからだ。
フレアがジウの立場であれば、配下の魔人を総動員して直接エンテルキア聖教国を襲撃する。そうして霊廟を破壊してしまえば『鍵』を探すまでもなく結界は解かれるだろう。
エンテルキアには聖騎士団をはじめとする強力な部隊が存在するが、人間の武器や魔法が魔人にとって脅威にならないことは、フレア自身が今回の戦いでいやというほど確認している。複数の魔人で襲いかかれば、エンテルキア襲撃はほぼ確実に成功するに違いない。
魔人たちがその手段をとらないのはどうしてなのか。
この疑問を向けられたアスティアは、ここで初めてためらいを見せた。
それは、できれば伝えたくなかった真実を語る者の顔であり表情であったが、今さら口を緘することはできない。もとよりフレアの疑問は今日の話の主題であり、はじめから避けて通ることはできないものであった。
戦神は先ほどまでより低い声で答えをつむぎだす。
「どこであれ、魔人の存在が明らかになれば、それは必ず私と陛下の耳に達します。魔人たちはそれを避けたいと考えたのでしょう」
それは『魔人殺し』たるアレス・フォーセインとアスティア・ウルムの力を恐れてのこと――ではない。
魔人の中で戦神を恐れる者などごくごく一握りしかおらず、ましてや人間を恐れる者など皆無である。
このことは先のユーベルとの戦いからも見てとることができる。
アスティアは聖剣によって深傷を負ったユーベルの不意をついて攻撃した。超遠距離からの神槍投擲。必殺ともいえるその一撃は確実にユーベルを捉え――それでもなお、魔人をしとめることはかなわなかった。
聖剣によるダメージを負った相手を不意打ちし、これ以上ない攻撃を成功させて、なお葬ることができない。
端的にいって、これが戦神と魔人の力量差。
そんな相手を魔人が恐れる道理がない。
では、どうして魔人たちはアスティアらに存在を察知されることを避けようとしているのか。
その理由は残酷なほどに単純だった。
ジウが結界を解こうとしているのは、みずからに恥をかかせた戦神と人間を滅ぼすため。いってしまえばアスティアたちは狩りの獲物である。
魔人たちはその舞台を整えるために動いている。その最中にアスティアらと戦いになり、これを討ってしまえば、部下に獲物を奪われたジウは不興の塊となるだろう。そして、その憤りがアスティアらを討った部下に向けられることは火を見るより明らかであった。
つまるところ、これが理由である。
魔人たちが目立った動きを避けているのは、戦神を恐れてのことでもなければ、人間を警戒しているからでもなく、ただ主君たるジウの機嫌をうかがっているからであった。
かつて、とある山岳騎士はシルリス大陸の現状を指して次のように言った。
『魔人たちにしてみれば、南の大地で人間を放牧しているようなものだろう』
この言葉は正確に事実を指摘している。
一つの国、一つの種族を揺るがす策動も、魔人にとってはご機嫌うかがいのための雑事に過ぎなかった。




