第四章 ハイランダー(三)
昼なお暗い森の中を黙々と進む。
道らしい道はどこにもない。鬱蒼と生い茂った木立はそれ自体が障害物となって侵入者を阻み、ときおり聞こえてくる鳥獣の声は招かれざる客を威嚇する響きに満ちている。
行けども行けども周囲の景色は一向に変化せず、進めば進むほど濃密な森の息吹が鼻腔を刺激して、けほけほとむせ返ることもしばしばだった。青々と茂った草花の香りは、それだけならば心地よいの一言で済むのだが、腐った枝葉やら動物の糞尿やらの臭いが入り混じって、ぶっちゃけ臭い。すごく臭い。
侵入した者の視覚、嗅覚、聴覚を絶えず苛む深緑の迷宮。
それが一国に匹敵する面積をもつ大森林、妖精郷セラであった。
ウルクとはじめて出会ったレルケ村近くの森もけっこうな広さだったが、セラの樹海は『広さ』が指す範囲が根本的に異なる。ウルクの先導がなければ、入って一時間と経たないうちに迷っていたことだろう。
ややあって、先頭を歩いていたウルクが休憩を告げる。
と、けふんけふんと咳き込みながらイズが小声でぼやいた。
「これはたまらないね……」
「同感だわ。ローブは新調確定よ」
ため息まじりにローブの裾をつまむフレア。途中、幾度も枝にひっかかったせいで、そこかしこにほつれができていた。
いつもかぶっているとんがり帽子に関しては、ウルクの助言で森に入る前から外してあったので被害はない。頭部を保護するため、帽子の代わりに薄布を幾重にも巻きつけた今のフレアは、どこか少年めいた雰囲気を漂わせていた。
殿を務めていた俺は二人の会話を聞くともなく聞きながら、周囲に警戒の視線を走らせる。
視界が利かないということは敵の接近に気づきにくいということで、近距離から奇襲を受ければ相手が獣であっても危険は大きい。まして、今この森には多数の魔物が徘徊しているはず、片時も油断はできなかった。
――まあ、そもそも魔人に付けねらわれている時点で、油断なんて論外なわけだが。
内心で自分にツッコミを入れていると、ウルクが声をかけてくる。
「テオ。このまま進めば、日が沈むまでにプラヌスの集落に着くことができます」
「了解した。で、そこから先はどう――」
「それは着いてから説明しますよ」
にこやかに説明を拒否するウルクに、俺は小さくため息を吐いた。
プラヌスの集落というのは、十あるエルフ氏族の里の一つで、最も東方――つまりランゴバルドに近い。
すでにこの里が魔物によって攻め落とされていることを俺たちは知っていた。樹海の近くで天幕暮らしをしているエルフたちから直接聞いたのである。
ベルリーズを発つ前、イズがテトロドトス枢機卿から聞いたという「ランゴバルド王国に救いを求めてきたエルフたち」というのは、このプラヌスの里の住人のことであった。
天幕暮らしの言葉でわかるように、ランゴバルド王国は避難してきたエルフを領内の街に迎え入れようとはしなかった。これはエルフへの警戒心や、住民との軋轢を恐れたという事情もあったようだが、同時にエルフ側が人間の街に行くことを拒んだ、という理由もあったそうだ。
エルフたちが求めたのは庇護ではなく、里を取り戻すための助力。
一方で、ランゴバルド王国は樹海から魔物があふれ出した際の防壁を必要としていた。
そんな両者の思惑が合致した結果、樹海の外に数十の天幕で構成される巨大キャンプができあがったらしい。
このキャンプにはエルフはもちろんのこと、ランゴバルド軍の将兵や治療に携わるシルル教徒といった多種多様の人々が生活していた。
したがって、事情を説明すれば人間とエルフとを問わず協力者を見つけるのは難しいことではなかっただろう。
だが、俺たちは彼らに説明らしい説明を何もせずに樹海に踏み込んだ。もっといえば、キャンプの大半の人たちは俺たちが到着したことさえ知らないでいる。
どうして彼らに助力を求めず、のみならず無視するような真似をしたのか。
理由は簡単で、あのキャンプで協力者を募った日には、エルフと人間、王国と教会、その他もろもろの事情が投網のごとく絡み付いて身動きとれなくなってしまうと考えたからである。
なにせこちとら勇者(シルル教団)に魔法使い(無所属)、魔法戦士(エルフ王女)に戦士(表向き無所属、実はウィンディア騎士)という異色の取り合わせ。エルフの王女にいたっては魔人がねらう『鍵』を所持しているというおまけつきである。
最悪の場合、俺たちの処遇をめぐってキャンプ内で争いが起こりかねず、協力者を募ることは早々に諦めざるをえなかったのだ。
次に最初の目的地をプラヌスの集落に定めた理由であるが、これは先導するウルクが発した「これが白精樹への最短ルートです」との一言による。それ以外のことは詳しく聞いていない。というか、今のように訊いても教えてくれない。
何やら企んでいる気配が濃厚な王女様だが、そのことはとりあえず脇に置いておこう。問いつめている暇はないし、そんなことをしている場合でもない。
「気味が悪いくらい静かだな」
周囲を見渡してぽつりとつぶやく。
静かといっても、鳥の声や風で草木が揺れる音は聞こえてくる。俺が言っているのは襲撃がないという意味での静けさだ。樹海に入ってからおよそ半日、魔人はおろかゴブリンの影ひとつ見当たらない。
俺の声が聞こえたのか、ウルクの長い耳がぴくりと震えた。
「セラは広いです。一度踏み込んでしまえば数千の大軍も森の一部。まして、魔物たちはセラ中に分散しているようですから」
「連中がいる場所よりも、いない場所の方がはるかに広い、というわけだな」
ウルクの言うとおり、一国に匹敵する広大な森に踏み込んでしまえば、万の大軍さえ地図上では小さな点に過ぎない。くわえて、プラヌスの集落が陥落したのは二十日以上前のことだから、俺たちが敵と遭遇しないのは何ら不思議なことではなかった。
それでもついつい周囲を警戒してしまうのは、やはり魔人に狙われているという事実のせいだろう。特に俺はユーベルという魔人を直接目にしていないので、どうしても気になってしまう。
ランゴバルドで戦ったベアトリスに続く二人目の魔人。
ガルカムウ山脈で戦っている時でさえ一度も魔人と出くわすことはなかったのに、花嫁令でウィンディアを離れるや、短期間のうちに続けざまに魔人と遭遇することができた。運が良いのか悪いのか。
そんなことを考えながら、俺は乾いた唇をなめた。
◆◆
それからさらに進むこと半日あまり。日没とほぼ同時に俺たちはプラヌスの里にたどりついた。
ゴブリンやオークといった敵対種族に滅ぼされた妖精族の集落。
オークの性質を考えても、相当にむごい光景を目にすることになると覚悟していた。実際、陥落直後は正視に堪えない情景が繰り広げられたことだろう。
その爪跡は今も集落の各所に残っていると思われる――のだが、幸いというべきだろう、日没の訪れと共にあたりは夜の闇に包まれ、悲劇の痕跡は俺たちの視界から遠ざけられた。
火打ち石を打つ小さな音が暗闇に響く。と、小さな光源が俺たちの周囲をぼんやりと照らし出した。
小型のランタンを掲げたウルクの先導にしたがって、ゆっくりと集落の中を進んで行く。
奥に進むにつれて、森の臭いにぬぐいがたい腐臭が混ざりはじめた。おそらく、そこらの木立をのぞけば、妖精と魔物の亡骸がいくつも見つかることだろう。
もちろん、好きこのんでそんなことをする者はいない。死者を埋葬するにしても、それはセラから魔物を駆逐した後のこと。そう思い定めて、俺は視線を前方に固定した。
「……よかった。神木は無事でしたか」
しばし後、ウルクの安堵の声が聞こえてきた。
見れば、集落の中心部に樹齢数百年を数えそうな巨大樹が植えられている。いや、植えられているというより、プラヌスの集落はこの巨大樹を中心に形成されていったのだろう。
ランタンの光源に照らされた巨木の根元には、火で焼かれたとおぼしき焦げ目や、斧を打ち込まれたらしき切断の痕跡が何箇所も見て取れる。
おそらくこの地に攻め寄せた魔物たちがやったのだろうが、幹が太すぎて徒労に終わったらしい。まあ直径四、五メートルくらいはありそうな太さだから当然といえば当然だった。
……というかこの太さ、樹齢数百年どころか数千年クラスではなかろうか?
しかし、シルリス大陸の歴史からしてそれはありえないはず――と首をひねっても正答が出てくるわけではない。おそらくエルフたちが何らかの手段で成長を促進させたのだろう、とひとりで納得する。
ウルクによれば、白精樹を守るように四方に配置された十氏族の集落の中心部には、それぞれ神木と呼ばれる巨大樹が植えられており、始祖の結界の基点となっていたらしい。
ウルクはさらに言葉を続けた。
「この神木には結界の基点となる他、もう一つ重要な役目があります」
「ほう?」
「それはなに?」
俺とイズがそろって首をかしげる横では、フレアが頭上を見上げて、まさか、と呟いている。
そんな俺たちを見やったウルクは、しごく真剣な表情で答えを口にした。
「緊急時における高速移動手段です」
――ウルクの説明によれば、こうである。
わざわざ地面におりて生い茂った草木をかきわけて進むよりも、森の木々をロープでつなぎ、そこを伝って移動する方がだんぜん早くて楽。これは人間もエルフもかわらない。
周囲の木々よりも高く伸びた神木は格好のスタート地点であり、ここから他の集落の神木や、聖域である白精樹へつながる経路が存在するそうな。
もちろん、カゴのような乗り物が用意されていて、それに乗れば目的地まで一直線――などという楽な展開はありえない。そもそも一直線で結べるほど、それぞれの神木の距離は近くない。
したがって、時にロープを使って、時に蔦を伝って、数十本の巨大樹を経由して白精樹を目指さねばならない。もちろん生身で。
食糧をのぞいて装備や荷物を極力軽くするように、というのは出発前のウルクの指示だったが、あれは密林を歩く苦労を考えてのことというより、このアクロバティックな近道を使う上での必須事項であったようだ。
エルフたちでさえ緊急時以外の使用は許可されていない、速度優先、安全軽視の最短経路。
状況が状況だから仕方ないとはいえ、実際に神木の上にのぼった俺とイズ、そしてフレアは、ロープについている大きなフック(引っ掛けるための器具、たぶん木製)を見て、思わず「うわぁ……」と声をあげてしまった。
あれですか、このフックをロープにひっかけ、つかまりながら樹海の上を滑空せよとおっしゃいますのんか? 場合によっては垂れている蔦を掴んで木から木へ飛び移れと?
昔、人間が森の獣に育てられた物語を読んだことがあるが、その主人公が似たようなことをやってたなあ、と現実逃避気味に懐かしく思い出す。まさか自分が似たようなことをやる羽目になるとは思わなかった。
落ちればまず間違いなく即死する高さ、当然命綱なんぞありゃしない。王都の軽業師だってこんな危険な興行は行わないだろう。
「これを使えば白精樹まで二日とかかりません。ただ、言うまでもなく危険をともないますので、歩いて進むのも一手ではあります」
ドン引きしている俺たちを見かねたのか、ウルクが次善の策を口にする。
ではそちらで、と言いたいのは山々だったが、エルフ王のことを考えれば、今は砂時計の一粒一粒が宝石さながらに貴重である。タイムロスは極力避けたかった。
「ちなみに、地上ルートを使った場合、白精樹まではどれくらいかかるんだ?」
念のために訊ねてみる。
答えは「今日のペースを維持できたと仮定して七日から八日」というものだった。実際には疲労やら戦闘やらで必ずペースは落ちるから、十日以上、へたしたら半月近くかかると見るべきだろう。
……今さらだが広すぎるだろう、この森。樹海の名は伊達ではないってことか。
「選択の余地はなし、ね」
フレアがため息まじりに言うと、イズが苦笑してうなずいた。
「かたや二日、かたや半月じゃあ比べるまでもないからねー。テオは大丈夫そう?」
「俺は大丈夫だが、ロープの方が大丈夫かはわからんなあ」
俺は格別大きな身体つきをしているわけではないが、それでもやはり女性であるイズたちや、細身のエルフ族に比べれば背丈も体重も勝る。装備の重さも加味すると、張り巡らされたロープやら蔦やらが持ちこたえてくれるか、いささか心配だった。
重い荷物は極力置いてきたつもりだったが、さらにもう少し削るべきか。
あらためて自分の装備を見直した俺は、革の胸甲や腕甲を取り外していく。これで防具らしい防具は両足の鉄靴くらいしか残っていない。できればこれも脱ぎたいところだったが、途中でロープが切れていた場合、再び森の中を歩くことになる。それを考えると、さすがに靴を脱ぐわけにはいかなかった。
魔人相手に無防備もいいところだが、冷静に考えてみると、仮に名工の手になる鋼の甲冑を用意したとしても、魔人の攻撃を防ぐことは難しいだろう。であれば、開き直って素早さ重視の超軽装というのも一つの手といえるのではなかろうか。
食糧も大半はここに置き捨てる――のはもったいないので、今夜と明日の朝で片付けよう。食いだめ、食いだめ。
「ふと思ったんだが、これを使うつもりだったなら、はじめから食糧も少なめでよかったんじゃないか?」
ピンと張ったロープをぺしぺしとたたきながら問うと、ウルクは小さくかぶりを振った。
「神木が無事であるという保証がありませんでしたから。もし神木が魔人の手で倒されていた場合、歩いて白精樹に向かわねばなりません。あと、ロープが魔物たちの手で切断されていた場合も、やはり森の中を歩くことになります」
「そのとき食糧が三、四日分しかありませんでした、では話にならないか。たしかにな。にしても、別にこういう手段があると隠す必要はなかったように思うんだが?」
「人間の世界にはこれほど巨大な木はないでしょう? 言葉ではうまく説明できる気がしなかったのです」
「ふむふむ――で、本音は?」
「テオたちが驚く顔が見られるかな、と思いました」
案外素直な王女様はそう言っていたずらっぽく微笑んだ。
ただ、その笑いはすぐに消えてしまう。たぶん、父王のことで俺たちに心配をかけまいと無理にテンションをあげてみたものの、下の惨状を垣間見た直後とあって、笑い声をあげるのがはばかられたのだろう。
気持ちはすごくよくわかる。集落に立ち込めていた腐臭は神木の上まで達していないが、滅ぼされた集落の上で夜を明かすのは落ち着かない。
できればさっさと出発したいところだが、さすがに件のアクロバットを夜間に実行するのは不可能である。
ひとまずはここで夜を明かすしかなさそうであった。




