幕間 ウルクファルク・ラ・セラサス②
「…………え?」
コーネリアの街にあるシルル教会の一室。そこでウルクは思わず驚きの声をあげていた。
その視線は自分の両手に向けられている。白い繊手。黒くもなければ、獣のごとき体毛も生えていない、エルフであるウルク本来の手。
「うそ、もどって……」
呆然とした呟きが瑞々しい唇からこぼれ落ちる。その呟きも、ゴブリンの喉を通して出てくる濁声ではなくなっていた。
慌てて部屋の姿見に駆け寄ったウルクが鏡面の向こうに見たのは、呆然とたたずむ一人のエルフの姿であった。
少しだけ乱れた金色の髪、せわしなく動く長い耳。瞬きを繰り返す湖水色の双眸は、信じられないと言わんばかりに大きく見開かれている。
鏡の中のエルフは、子供用の服を無理やり着込んだような奇妙な格好をしていた。袖や裾から伸びた手足はともかく、輝くばかりに白いへそまわりがあらわになっているのは、ウルク的にはいただけない。
ほとんど無意識のうちにウルクが両手で腹部を隠すと、鏡の中のエルフもまったく同じ動作をした。ついでとばかりに頬をつねってみると、この動きにも追随してくる。
「……夢、ではないようですね」
赤くなった頬を撫ぜながら、ウルクは小声でつぶやいた。
他の同行者たちは連れ立って酒場に出かけており、室内にはウルク一人しかいない。それでも声を低めてしまったのは、この変化がもたらすものが必ずしも善いものであるとは思えなかったからだ。
もちろん呪いが解けたことは喜ばしい。
しかし、解呪の試みをしたわけでもないのに魔人の呪詛が解かれたとすれば、考えられるのは術者たる魔人が滅びたか、あるいは魔人がみずからの意思で術式を解いたのか、この二つくらいである。
前者であれば重畳きわまりないが、始祖の結界を破壊し、ただ一人で白精樹を陥落させた魔人がそう簡単に滅びるとは思えない。
であれば答えは後者ということになるが、だとすれば、どうして今この時になって呪詛を解く気になったのか。
鏡に映ったウルクが唇に手をあて、険しい表情で考え込んでいる。
と、その時だった。
『見ぃつけたぜぇ』
舌なめずりするような、ねっとりとした声がウルクのすぐうしろから聞こえてきた。
同時に、鏡の中のウルクの背後に黒い闇が湧き上がり、見る間に一つの人影を形作っていく。
赤い髪に黒い肌、額から突き出た鬼の角。そして、全身が押しつぶされるかのような圧迫感。
声も、姿も、感覚も忘れていない。忘れられるはずがない。
「――ッ!」
ウルクはとっさに身を投げ出して背後の人影――魔人ユーベルと距離をとった。
ゴブリンとエルフの体格差のおかげか、小さくなった衣服は多少動きにくさを感じさせたが、戦闘に支障をきたすほどではない。
むろん相手が魔人である以上、衣服がどうあろうとも状況は最悪から動きようがないのだが、それでもあきらめて敵の爪牙を待つつもりはない。ウルクは素早くユーベルに向き直り、腰の双剣を抜き放った。
そんなウルクを見て、完全に姿を現したユーベルが鼻で笑う。
「その棒切れで何をする気だよ? そんなものを握るより、どうか殺さないでくださいと床に這いつくばる方が効果があるぜ」
そう口にする間にも、ユーベルの周囲には魔力で練られた黒色の針が次々にあらわれている。短剣ほどの長さがある極太の凶器が避けようのない至近距離で展開していく。
ウルクが少しでも動けば、二十近い数の長針が残らず身体に突き刺さるだろう。
この針は妖精族の防具を易々と貫く凶器であると同時に、傷つけた者を混乱状態に追い落とす暗器でもあることをウルクは知っていた。先の白精樹での戦いで、仲間の防人が幾人も恐慌状態におちいったのを見ているからだ。
致死性の毒に比べればマシではあるが、戦士であれ、魔法使いであれ、戦いの最中に集中をかき乱されれば実力の半分も発揮できない。
動かない、否、動けないウルクを見て、ユーベルは満足そうにうなずいた。
「そうだ、じっとしてろ。やっと見つけた手がかりだ。へたに反抗されて、うっかり殺しちまったなんてなったらシャレになんねえからな」
魔人の目がぎょろりと動き、ウルクのつまさきから頭のてっぺんまでをなめるように凝視していく。
ほどなくして、その口から棘のある問いかけが放たれた。
「いいか、でまかせを言ったら承知しねえぞ――おまえ、妖精王の娘か?」
「ウルクファルク様と私を間違ってくださるとは光栄ですね」
一瞬の躊躇もなく否定の言葉を口にするウルク。しかし、魔人はこれが偽りであると即座に見抜いたらしい。無言で右手のひとさし指を動かし、その動きに応じて針の一本がウルクの右ふとももに突き刺さった。
身体の中に異物がもぐりこんでくる違和感。わずかに遅れて、焼け付くような痛みがふとももから脳を直撃する。
「ぁああああッ!?」
たまらずウルクはその場に倒れこむ。そのウルクに向けてユーベルが中指を動かすと、二本目の針がウルクの左ふとももに突き立った。
再びあがる悲鳴。苦痛もさることながら、吐き気をともなった強烈な頭痛と不快感がウルクの意識をかき乱し、知らず苦悶の声が口からあふれ出る。
にじみ出る汗で身体が冷たいのに、頭の中はかっかと熱い。ともすれば視界が白濁し、いいようのない苛立ちが黒い染みとなって心を覆っていく。
それは魔力針がもたらす状態異常。
反吐が出る、という言葉の意味を、ウルクは生まれてはじめて実感した。
「警告はしたぜ。あのとき、棒切れ二本を振り回していたガキが娘だったなんてことは、とうの昔にてめえの親父から聞きだしてるよ」
その言葉は床であえいでいたウルクの耳にもしっかりと届いた。
エルフの王女は両目を見開き、魔人を睨むように見上げる。
「――お、お父様は、生きて……くぁぁぁぁぁッ!?」
言葉の途中、ユーベルはウルクの右ひざに突き立ったままの己の針を蹴り飛ばす。傷口を激しくえぐられ、たまらず絶叫するウルク。
傲然とその様を見下ろすユーベルは、べろりと唇をなめて哄笑を発した。
「ああ、てめぇの親父は今でもちゃんと王座に座ってるぜぇ――鎖で縛り付けられたまま、だけどな! クソも小便も垂れ流しだ、ヒャッハハハハァ!!」
魔人の言葉どおり、エルフ王は今も生きて白精樹の王座にすわっている。
だが、魔人が口にしなかった事実が一つある。ユーベルの魔力針を多数その身で受けたエルフ王は廃人同然となっており、ろくに言葉も話せない状態になっていた。
これはユーベルが意図して引き起こしたものではなく、エルフ王の魔法に対する高い抵抗力が結果として命をつないだ格好だ。
この王の命を盾に、ユーベルは生き残りのエルフから強引に王女の特徴を聞きだしたのである。
本当のことを話せば王女の口が石のごとく固くなると考えたユーベルは、この事実を伏せた。ユーベル自身、らしからぬと感じる慎重さだったが、それはとりもなおさずこの魔人が『鍵』の奪取に本気になっていることを意味する。
とりあえず暴れてから探せばいい、殺してから奪えばいいと安易に考えて行動した結果、先の白精樹での戦いでは『鍵』を奪いそこねた。
ここでウルクを殺すのは簡単だが、ウルクが『鍵』を他人に預けていた場合、あるいはどこかに隠していた場合、ユーベルは再び手がかりを失うことになる。そうなれば元の木阿弥、待っているのはユーベル自身の破滅である。
王女を殺すのは『鍵』の現物を見るか、少なくともありかを聞き出してから。そのためには父親の命を盾に取るのが一番てっとり早い、とユーベルは考えていた。
「質問その二だ――『鍵』はどこにある? 持っているならすぐに出しやがれッ」
偽りは通じないと相手の心身に叩き込んでから本題を口にする。相手がだんまりを決め込むようなら、また膝の傷をえぐってやる、と早くも足を持ち上げる。
直後、ドタン、と大きな音をたてて部屋の扉が開かれた。
現れたのはこの街の教会に所属する二人の教会騎士。
ウルクの悲鳴とユーベルの哄笑は部屋の外まで響いており、おそまきながら異変を察知した彼らは大急ぎで駆けつけてきたのである。
「武器を捨てよ、賊!」
「我らが教会に侵入するとは身の程知らずな。おとなしく武器を捨てればよし、さもなくば容赦はせぬぞッ」
部屋に入ってきた二人の騎士は口々に言い立てながら侵入者に剣を突きつける。
そして、剣先にいるのが角を生やした鬼族――すなわち魔物であったことに気づいて表情を変えた。
外套をかぶって姿を隠していた勇者の連れが、実はエルフであったなどということは、魔物が街に侵入した事実に比べれば些細なことであった。
「なぜ魔物がこんなところに!? 市壁の見張りは何をして――」
教会騎士の疑問の声が終わらないうちに魔人の苛立ちが爆発した。肝心なときに邪魔をされ、もともと長くもない堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。
「黙りやがれッ!!」
怒声と共に室内に吹き荒れる、目に見えない力の奔流。
物理的な圧力さえともなうそれを間近で受け、床に倒れたウルクの口から呼気のかたまりが吐き出される。
二人の教会騎士もまた、心臓を握りつぶさんばかりの重圧にさらされてへたりこんでしまう。悲鳴をあげなかったことが、彼らの精一杯の抵抗であった。
ユーベルは音高く舌打ちする。
「ち、めんどくせえ――いや、かえって好都合か」
一歩踏み出した魔人は、しりもちをついた教会騎士の頭をわしづかみにした。
「おい妖精、さっさと『鍵』を出せ。三つ数えるうちに出さなかったら、こいつの頭を砕き割る」
冷然とした言葉を浴びせられ、ウルクはとっさに返答に迷う。
先ほどから魔人が口にしている『鍵』の心当たりはある。普段は首にかけているが、今は寝る前なので外して懐に入れてあり、すぐにも取り出すことができる。
だが、これは父王から決して手放してはならぬと言われたものだ。特に魔の者には決して渡してはならない、と言われていた。それを魔人に渡すなどできるはずがない。
くわえて、魔人は『鍵』を渡せとは要求しているが、渡せば助けてやるとは一言も口にしていない。相手の言うとおりにしたところでウルクたちが助かる保証はなく、むしろ魔人に『鍵』を渡したとたん、もう用はないとばかりに殺されるビジョンしか浮かばなかった。
「三…………二…………」
ユーベルはウルクの焦慮をあおるようにゆっくりとカウントダウンを進めていく。
ウルクの顔が大きく歪んだ。
両膝を貫いた針のせいで、戦うことはおろか逃げることもできない。
意識の混濁は一向におさまらず、視界を覆う白いもやは濃度を増すばかり。おそらく、このもやが完全に視界を覆ったとき、自分は理性を失った狂戦士と化すのだろう、とウルクは思った。
その前に決着をつけなければならないが、しかし、いったいどうやって。
どうする、どうする。
濁った頭に決断をうながす己の声がこだまするが、答えは出てこない。
当然といえば当然だった。魔人を前にして動きを封じられた挙句、人質をとられているのだ。出てくる選択肢など、相手の言うことに唯々諾々と従って人質と共に殺されるか、相手にあらがって人質と共に殺されるか、この二つくらいしかない。
どちらも選べないウルクが、確たる考えもないまま、とにかく何か言わねばと口を開きかけたときだった。
『光よ!』
鞭打つような響きを帯びた古代語が室内に響き渡る。
部屋の入り口から伸びた一条の光線が、ユーベルの胸部を直撃――する寸前に不可視の防壁によって阻まれた。
光撃の魔法を無傷でしのいだユーベルは、苛立たしげに牙を剥き、教会騎士の頭を掴んでいた手を入り口へとむける。
「また人間か! てめえらなんぞお呼びじゃね――なにッ!?」
魔人の言葉が中途で止まり、その目が驚愕に見開かれる。
その視界には黄金色に輝く聖剣を握ったイズの姿があった。言うまでもなく、先の魔法はフレアのそれだ。
フレアによって酒場から教会へ強制送還されたイズであるが、ウルクの悲鳴とユーベルの哄笑を聞いた瞬間から酔いは冷めている。
『火輪!』
魔人の探知を警戒して、あえて使わずにいた解放をここで行う。
陽光のごとき聖剣の輝きを間近で見たユーベルの顔に、初めて焦りが浮かんだ。
魔人はいかなる種族を相手にしても、たいていの攻撃を弾き返すことができる。剣でも、魔法でも。
だが、眼前の剣が「たいてい」の範疇に入らないことはユーベルにも理解できた。とっさに飛びのこうとするが、わずかに遅い。
斬、と剣風が吹いた。
閃光が空を薙ぎ、魔人の右手が宙を舞う。
「ぐ、ぐごあ!? こ、この、人間ごときがあああああッ!!!」
窓際に退いたユーベルが残った左手を乱暴に振る。と、宙に浮かんでいた残りの針が一斉にイズに向けて襲いかかった。
しかし、苦しまぎれに放った攻撃はろくに狙いが定まっておらず、イズがわざわざかわすまでもなく大半が外れていた。命中するはずだった針も聖剣によって叩き落とされてしまう。
それを見たユーベルが目を剥いた。
「なんだと!? なんで人間ごときにそんなことができ――うがぁッ!?」
言葉の途中、ユーベルの顔面で火球が炸裂する。
魔人がウルクや教会騎士から十分に離れたと見てとったフレアが、得意の炎魔法を放ったのだ。魔法自体は先の光魔法と同じく防壁で弾かれたが、火球の衝撃までは殺せない。
ユーベルがフレアの魔法でわずかに怯んだ隙に、イズは敵との距離を一気に詰め、魔人の眼前に迫っていた。
今やユーベルの表情は焦慮を越えて恐怖に達しつつあった。
これまで多くの戦いを経験してきたユーベルであるが、その多くは魔人の力で敵を蹂躙するもの。魔人になって以来、敵が自分を殺し得るという状況をユーベルはほとんど経験したことがない。なぜなら、そういう状況にならないように身を処してきたからだ。
それ自体は卑劣でもなんでもない、むしろ賢明さのあらわれであろう。
だが、本当の意味での戦いを経験してこなかったユーベルは、いざ自分の命が危険にさらされたとき、必要以上に恐れを抱いてしまった。
腕の一本や二本、再生できるのに。
かつてウルクにそうしたように、呪詛をかけていずこかへ転移させることもできるのに。
空間転移でイズの背後に出て針を叩きつけるなり、いっそ自分の手で人間の細首をねじきることもできるのに。
ユーベルは何もせず、何もできず、ただ逃げた。自分を殺し得る神の武器から一刻も早く遠ざかりたかったのだ。
一瞬後、街の上空に転移したユーベルは、断ち切られた右腕を抱えるようにしながら忙しなく言葉をつむいだ。
「火輪、火輪だと!? フッキ様が仰っていたブレイブハートの武器じゃねえか。なんであんな奴がここにいる!? ベアトリスの野郎、これが狙いだったのか!?」
勇者の手でユーベルを滅ぼさせるためにあえて情報を伏せていた――先のベアトリスとのやりとりを、ユーベルはそのように解釈した。
「ふざけやがって! ふざけやがってェェェッ!!」
夜空に怒声を響かせながら、ユーベルは眼下の街並みをにらみつけた。
街ごと勇者たちを吹き飛ばしてくれようか、という思考が魔人の脳裏を満たす。
だが、それをすれば『鍵』のありかが再びわからなくなってしまう。
なによりも、ユーベルにはそれを為すための手段がなかった。
『なら、お言葉にあまえて、ここから王都の街並みを半分ばかり破壊してくださらないかしら? オウガの魔法と、魔人の魔力をあわせもったあなたにとっては容易いことでしょう』
取り澄ましたベアトリスの顔を思い出し、ユーベルの口からギリギリと歯軋りの音がこぼれる。
これまでユーベルは自分の秘密を知る者はいないと考えていた。たとえ他の魔人であっても見抜けはしまい、と。
だが、そうではないことに気づかされた。
あるいは、あの時のベアトリスの言葉はユーベルを揺さぶっていただけなのかもしれないが、それでも痛いところを突かれたことに変わりはない。不快だった、これ以上ないほどに。
その上で今日、人間ごときに手傷を負わされ、挙句、『鍵』のことも忘れて逃げ出すという醜態を演じてしまった。
多少、落ち着きを取り戻した今になっても、勇者が待ち構えるあの場所に戻る気にはどうしてもなれない。
――まるで、ただただ逃げることしか頭になかった、魔人になる以前の自分に戻ってしまったかのように。
何よりも、誰よりも、その自覚がユーベルを苛立たせた。
「クソが、クソが、クソが! どいつもこいつもクソったれがあああああッ!!」
轟きわたる魔人の咆哮。
空を割り、地を砕くに足る巨大な魔力が嵐のごとく荒れ狂う。
だが、その魔力が形となって眼下の街に襲いかかることは、ついになかった。




