第十二章 女神の真実(三)
王宮のバルコニーに出ると、空はすっかり夜闇の色に染まっていた。
ウルクとフレアを連れたアスティア様が王宮に戻ってきたのが夕刻のこと。俺とイズ、スーシャ、それにウルクとフレアの五人が同じ場所に集うのは廃都遠征以来であり、俺たちは陛下とアスティア様を交え、別行動をとっていた間の情報を交換しあった。
まあ情報交換といっても、話し手を務めるのはもっぱら俺ばかりだったけれども。
なにしろ大抵の厄介事は俺がらみで起きているため、必然的に俺の口は動きっぱなし。特に蓬莱での魔人騒動について語れるのは俺しかいないから大変だった。
こうして外の空気を吸いに来たのは、いいかげん喋りつかれたという理由が一番大きい。決して俺の女性関係に対する一部からの非難が心にぐさっと突き刺さったから、などという理由ではない。ないったらない――と、誰にともなく内心で言い訳がましいことを考えていると。
「テオ、ここにいましたか」
鈴を転がすような澄んだ声の主は、腰まで伸ばした黒髪が麗しい戦神様だった。
どうやら俺を探していたようで、手には冷えた水が入ったガラス製の杯が握られている。
しゃべり通しで疲れたでしょう、と言って差し出された杯を、俺は恐縮しつつもありがたく受け取った。
戦神に侍女まがいのことをさせるとか、他の廷臣に見られたら間違いなく非難轟々だが、ここには俺たち以外誰もいないから大丈夫だろう。先ほど情報交換をした際も、廷臣はおろか侍女のひとりもいなかったし、この一画はあらかじめ陛下が人払いしているに違いなかった。
一息で水を飲み干した俺は、礼を述べようとアスティア様の顔を見て――そこで思わず口を噤んでしまう。
じぃっと俺の顔を見つめるアスティア様の顔は真剣そのもので、両の目に宿る光は沈痛ですらあった。
こんなアスティア様を見たことはついぞない。いったい何事かと戸惑っていると、アスティア様はわずかに面差しを伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「――まさか、フッキが人間の手で討たれるとは思ってもみませんでした」
悔いるような、あるいは嘆じるような、そんな響きを帯びた声。
アスティア様のこんな声を聞くのも初めてだった。
膨れ上がる俺の困惑をよそに、アスティア様はさらに言葉を続ける。
「いえ、それ以前に、あの複頭竜が何年もの間、人間に化けて人界に入り込んでいたとはまったく予想の外でした。察知できなかったのは不覚以外の何物でもありません。本当に、よく無事に帰ってきてくれましたね、テオ」
心底安堵したように、豊かな胸に両手をあてて微笑むアスティア様。
そこにいるのは間違いなく俺の見知っているアスティア様であり、今しがたの声も表情も幻のように掻き消えている。もしかしたらアスティア様自身、まったく無自覚の所作であったのかもしれない。
だとすれば、へたな詮索は禁物だ。俺はぺこりと頭を下げた。
「恐れ入ります。代わりに、魔剣を筆頭に山のような厄介事を持ち帰ってしまいましたが……」
「死屍の帰還に比べれば、どのような問題も取るに足らないことです。それに、その月喰という剣があったればこそ、教皇殿はわが国を訪れることができた。厄介事どころか吉事と評してよいくらいです」
ここでアスティア様は小さく肩をすくめると、困ったように微笑んだ。
「さすがにお腹に子供を宿した花嫁を連れて来るとは思っていませんでしたけれど。それでもこの世に生まれて来る命は例外なく尊いもの。間違っても厄介事などと言ってはいけませんよ?」
たしなめるように、アスティア様にちょんと額を突っつかれた。
その仕草に、知らず懐かしさがこみあげてくる。俺がウィンディア王国に来たばかりの頃、早く兵士になりたいと駄々をこねるたび、こんな風にたしなめられたものだった。
当時のことを思い出しながら、俺は大きくうなずく。
「むろんのことです。今のはあくまで月――ではなかった、魔剣やランゴバルド王国、シルル教団との関係を指して言ったことで、カリスたちを厄介者だなんて思っていませんよ」
ここだけは勘違いして欲しくなかったので、強い口調で断言する。
それだけでこちらの心情を汲み取ってくれたようで、アスティア様は「ならばよし、です」といってニコニコ笑う。こう見えて子供好きな方なので、赤ん坊が生まれてくること自体は手放しで喜んでくださっているのである。
その笑顔を途切れさせてしまうのは残念だったが、俺はここで話題を魔剣の方に移した。
可能石のこともある。月喰に関しては一度じっくりとアスティア様に調べてもらいたいと考えているのだ。
「あの剣に関しては何も分かっていないも同然なので、ぜひ一度アスティア様に見ていただきたかったのですが――」
俺は無念そうにかぶりを振る。月喰はベルリーズの中央教会に保管されており、手元にはない。当然、見てもらうこともできない。
いやまあ、単に召喚するだけなら話は簡単なんだけど。ここで俺が月喰の銘を口にすれば、すぐにでもベルリーズから飛んでくるだろう。
しかし、そんなことをすれば聖賢会議の敵意が天井知らずに上がってしまう。
俺はすでに連中の敵意を買いまくっているので、今さら気にしても仕方ないといえば仕方ないのだが、スーシャやイズのことを考えれば独断で無茶はできなかった。
それを聞いた黒髪の戦神は心得たようにうなずく。
「たしかに、教皇殿がウィンディアに入国した今、過度に教団を刺激することは避けるべきですね。あなたの判断は正しいと思いますよ、テオ。言い添えるならば、実際に我が目で見なくとも、教えてあげられることはあります」
そう言った後、アスティア様は何かに気づいたように小さくかぶりを振った。
「いえ、教えてあげる、という言い方は適当ではありませんね。伝えなければいけないことが……これも少し違う。聞いてほしいことがある……うん、おそらくこれが一番正しいでしょう」
なにやら自分に言い聞かせている戦神様に小首をかしげて問いかける。
「アスティア様が俺に聞いてほしいこと、ですか?」
「そうです。魔人のこと、女神のこと、戦神のこと。たくさんあります」
アスティア様の双眸に満ちる真摯な光を見れば、話の内容が通りいっぺんのものでないことはすぐに理解できた。
応じるまでに少し間が開いたのは、俺なりの心構えをするために要した時間である。
「――うかがいましょう」
こちらの言葉に応じてアスティア様が口を開きかける。
と、不意にバルコニーに強い風が吹き付けてきて、俺たちの髪を大きく揺らした。はや冬の冷気を感じさせる寒風は、ガルカムウ山脈から吹き降ろしてきたものだ。
その風がおさまるのを待って、アスティア様は静かに言葉を続けた。
「あなたが倒したフッキは、トロイと並ぶ竜種の双璧。かつて魔人領域で暮らしていた人類を滅亡の淵に追いやった元凶でもあります。女神と八柱の戦神は双璧の打倒を願ってやみませんでしたが、結局、誰一人それをなすことはできませんでした。それを思えば、人の身でフッキを打ち倒した功績の価値はいかばかりか。テオ、あなたは私の誇りです」
それは控えめにいっても激賞だった。
敬愛する戦神からの褒詞を受け、直前の冷風で凍えた心身に一瞬で活力が満ちたのがわかる。他の誰でもなく、アスティア様に認められた――この喜びは筆舌に尽くしがたい。
「魔人どもの同士討ちに利用された挙句、借り物の力で勝ち得た成果と言われても否定はできないのですが」
応じる声がついつい皮肉っぽくなってしまったのは照れ隠し以外の何物でもない。
アスティア様は驚いたように目をまん丸にするが、俺の頬が上気していることに気づいたのだろう、口許に微笑を湛えて言った。
「だとしても、ですよ。そもそも、他者から力を借り受けることがいけないというのであれば、戦神こそ真っ先に否定されなければなりません。この身を満たすのはシルル様から与えられた借り物の力なのですから」
右手をまっすぐ前に伸ばしたアスティア様は、神槍を振るう己の利き腕を慈しむように左手で撫でさする。
俺がその言葉の意味を計りかねていると、アスティア様は小さな声で、テオ、と俺の名前を呼び――
「神、とは何だと思いますか?」
そんな問いを投げかけてきた。




