第十二章 女神の真実(一)
「ただいま――といっても、この時間だと誰もいないけどな」
イワン宰相と共にウィンディアの王都サザーランドに到着した俺は、ひとまず自分の家で休息をとることにした。
アレス陛下やアスティア様にこれまでのことを報告するにしても、それは旅塵を落としてからのこと――宰相にはそう言ったが、それは建前で、本音をいえば素で疲れていただけである。
蓬莱を出てからこちら、カーナ連合、ランゴバルド、ウィンディアの三国をろくな休みもなしに走破したのだ。せめて一晩でいいから惰眠をむさぼりたいという俺の欲求は正当なものであろう。
しばらく国外に出ていたとはいえ、半年程度で道を忘れるはずもない。
カリスとトワを連れて――ポポロはイワン宰相と話があるとのことでズゥライト商会の会館に向かった――自分の家に戻ると、家の外観を見たカリスが感嘆の声をあげた。
「これは……ずいぶんと大きなお屋敷ですね」
姉妹がこれまで過ごしてきたゼイエンの王宮やランゴバルドの公爵邸と比べれば、我が家の大きさなど知れたものだと思うが、賛辞にひねくれた答えを返す必要もない。
錠前を外し、邸内に二人を招じ入れながら笑って応じた。
「おかげで家の掃除や庭の手入れが大変でな」
「そういうことならお手伝いできることも多そうです。ね、トワ?」
姉に水を向けられ、トワはこくこくと真剣な顔でうなずく。
――が、すぐに我慢できなくなったようで、目に好奇心を湛えてきょろきょろとあたりを見回し始めた。目を離せば、すぐにでも邸内の探険に出かけてしまいそうである。
それを見たカリスが、微笑ましそうな、それでいて申し訳なさそうな顔でこちらをうかがってきたので、軽くかぶりを振って気にしていない旨を伝える。
すると、カリスはにこりと笑って感謝の意を伝えてきた。別段、艶めいた表情でもないのに、思わずどきりとしてしまう。
な、なんか雰囲気かわったな、カリス。
上気した頬を手でさすりつつ、俺は内心でそんなことを考える。
これまでもカリスは俺に対して礼儀正しかったし、こちらの言葉に不服を唱えたり、逆らう気振りを見せたことはなかったが、それでも俺との間に一線を引いていたのは確かだったと思う。
俺自身、カリスとの距離を測りかねていた面もあった。
ろくに女性経験のない俺に、カリスのような複雑な境遇にある女性との適切な接し方なんてわかるわきゃないのである。
そんなわけで、おそらく向こうも向こうで俺が一線を引いていると感じていたはずだ。
そうして出来てしまった一線、言いかえれば溝が、ウィンディア入国以来、少しずつではあるが埋めたてられている気がする。
いや「気がする」ではなく、事実として埋められていた。ベルリーズにいた頃のカリスであれば、今のような会話が成立することはなかっただろう。
少しは信頼を得られたと考えても良いのだろうか、などと内心で首をひねりつつ、俺は話を続けた。
「シュナが帰って来るまでもうしばらくかかるだろうし、二人は一休みしていてくれ。部屋は……とりあえず客室がいいか。さすがにシュナも、空き部屋の掃除までは手がまわっていないだろうし」
俺は二人を案内しがてら、井戸の場所や台所の場所、さらには俺とシュナの部屋などを説明していく。その際、トワには勝手に屋敷内を探険しないように、と注意しておいた。
俺はトワが屋敷内を駆け回っていても気にしないし、たぶんシュナもそうだと思うのだが、この家は今日までシュナが守ってきてくれた場所だ。探険の許可はシュナが出すのが筋だろう。
トワに対するシュナの第一印象が、礼儀知らずの子供、なんて風になっても困るしな。
探険を禁じられたトワは少しばかり残念そうだったが、かわりに後で王都の案内をしてあげると約束するとすぐに笑顔が戻った。その後にあくびが続いたところを見ると、やはりトワも疲れが溜まっているのだろう。
二人を客室に案内した後、俺は湯を沸かすべく井戸へ向かった。
その際、ふと思い立って中庭を見渡してみると、雑草は綺麗に刈り取られているし、旅に出る前に大量に用意しておいた薪もほとんど目減りしていない。
清潔な邸内の様子といい、相変わらずよく働く弟である。山岳騎士の任務上、家事の負担をかけるのは今に始まった話ではないのだが、それでも騎士学校の暮らしに悪い影響が出ているのではないかと心配になってしまう。
「……よし! ここは一つ、シュナが戻るまでに風呂の用意、飯の支度を完璧に終えて、お帰りなさいと出迎えようそうしよう。たまには俺の方から弟の苦労をねぎらってやらないとな」
ぶっちゃけ、ご機嫌取りもかねて!
カリスたち姉妹については、先にウルクに託した書状の中で触れておいたから、シュナも二人のことは知っているはずだ。
ただ、当然だがジノン教やトワの変貌のことは知らないし、なによりカリスのお腹の子供についてシュナはまったく知らない。
俺とカリスが出会った日数的に考えて、そろそろ「俺の子供」として周囲に伝えても問題ない時期にきている。
ただそうすると、俺はランゴバルド王から下賜された女性を即日寝所に引っ張り込み、あれやこれやしたことになってしまうわけで、そのあたり、兄たる身の威厳に少なからぬ影響が生じるのは確実であろう。
なので、あらかじめシュナの機嫌をとって、なるべくやわらかーく『事実』を伝える必要があった。
くわえて他にも廃都でのこと、蓬莱でのこと、伝えなければならないことは山ほどある。それを考えると今から頭痛がするが、まあ、全部自分の選択と行動の結果だから文句も言えない。
とりあえず今は風呂の準備からはじめよう。
問題の大きさに比して、やっていることがせせこましい気がしないでもないが、そのへんは深く考えないことにしようと、俺はやや後ろ向きな決意を固めた。
◆◆
……トントントン、という軽やかな音がゆるやかに覚醒をうながしてくる。
軽やかな、それでいてどこか温かさを感じさせる音。まどろみの中で、それが台所から響いてくる包丁の音だと悟った俺は、もうしばらくこの心地よい感覚にひたっていたいとごく自然に考えた。
自分がどこにいるのか、何をしているのかといった記憶はぼんやりとかすみ、ただ温かさだけが心身を包み込む。こんなにも穏やかな心地になったのは、いったい何年ぶりだろうか。
特に最近は魔人やら魔剣やらのせいで、ろくに休むこともできなかったし…………ん?
魔人、魔剣といった物騒な言葉がふっと脳裏に浮かんだ瞬間、ぼんやりとかすんでいた記憶がいきなり鮮明に色を帯びた。連鎖的に次々と記憶がなだれ込み、それまで感じていた心地よさが急激に遠ざかっていく。
そして。
「うぉ、まずッ!?」
自宅のソファでまどろんでいた俺は跳ねるように飛び起きた。活性化した脳はすぐさま直近の過去の事象を思い出させてくれた。
風呂の用意を終えた後、さて次は買い物だ、と客室のトワに声をかけにいったら、姉妹はそろってお昼寝中。
無理に起こす必要もないので、書置きでもして俺ひとりで外に出ようとしたのだが、もし留守中にシュナが帰ってきてしまうと、シュナ、姉妹共に気まずい思いをするのはうけあいである。
そんなことを考えているうちにふと眠気に襲われ、自分も少しだけ休もうとソファに横になり――で、そのまま熟睡してしまった、というのがここに至る流れだった。
見れば、先ほどまで確かに差し込んでいたはずの西日はとうに消えうせ、閉じられたカーテンの隙間からのぞく空は夜闇に覆われている。
少し休むどころか、がっつりと寝入ってしまったことは確定的に明らかだった。というかこの時刻だと、シュナはとっくに帰宅しているはずだ。
そう思って室内に視線を転じると。
「――あ、兄さん、起きたんだ。おはよう」
俺が使っていた前かけを着たシュナが、包丁片手にニコリと笑いかけてきた。
その笑顔があまりにも自然すぎたので、一瞬、花嫁令の布告に始まるここ半年の出来事すべてが、俺の夢だったのではないかかと錯覚しそうになったほどである。
もちろんそんなことはなく、続くシュナの台詞がそれを証明した。
「学校から帰ってきたら、たしかにかけて出たはずの錠前は外れているし、誰もいないはずの家から人の気配がするしでびっくりしたよ」
「――あ、ああ、すまん。色々と急だったんで、手紙を出す暇もなくてな」
半年ぶりという間隔のせいか、弟との会話に若干戸惑いを覚えてしまう。
シュナの方はといえば、戸惑いの「と」の字もない自然さで答えを返してきた。
「うん、大変だったみたいだね。さっきカリスさんに少しだけ話を聞かせてもらったんだ」
そう言ったシュナは、俺の顔に浮かんだ疑念に気づいたのか、すぐに先を続けた。、
「あ、カリスさんとトワちゃんは今お風呂だよ。ふふ、トワちゃんって可愛いね。我が家自慢のお風呂を見たとたん、目を輝かせてた」
「ああ、それは予想どおりだな」
ウィンディアでは、風呂といえば大抵は蒸し風呂(熱した石に水をぶっかけて蒸気をつくる)であり、湯を張った風呂は贅沢に分類される。我が家ではその贅沢が日々楽しめるわけで、互いに忙しい日々を送る俺たち兄弟にとっては重要な癒しの場となっていた。
なお、毎度毎度井戸から水を汲むのが面倒なので、風呂用に雨水を貯める仕掛けを二人でつくったりもしたのだが、その仕掛けは今も現役で稼働中である。
実のところ、風呂場を見せたときの姉妹の反応をけっこう楽しみにしていたのだが、俺が惰眠をむさぼっている間に重要イベントは終わってしまったらしい。無念。
まあ、それは仕方ない。問題は今、この瞬間にある。
「あーっと、それでだな、シュナさんや」
「はいはい、何ですか、テオさんや」
準備万端ととのえて迎えるはずだったのに見事に寝過ごしてしまったバツの悪さやら、カリスとの話というのはどこまで踏み込んだものだったのかという困惑やらで言葉選びに迷う俺と、そんな俺にいたずらっぽい態度で応じるシュナ。
俺は何と言ったものかと迷った末、一番最初に浮かんだ言葉を口にした。
「とりあえず、あれだ――ただいま」
「はい、お帰りなさい、兄さん」
そういって嬉しそうに微笑む弟の顔を見て、俺はようやく故郷に帰ってきた実感を得られた気がした。




