第一章 魔物と王位と花嫁と(一)
その日、俺は暗い顔をした女神さまに呼び止められた。
「テオ、少しよろしいですか?」
「はい……って、アスティア様、どうなさったのです!? そのような顔をなさって!?」
何かを案じるように眉根を寄せる女神を見て、俺は思わず驚きの声をあげていた。
憂いが濃い影となって神の秀麗な顔を覆っており、長く伸びた黒髪を額から払う仕草も、どこか心ここにあらずという体である。
それを見た俺は言いようのない不安を覚えた。
北の山脈から十万を超える魔物の大軍が攻め寄せてきた、という報告があってもこの方はこんな表情を浮かべないだろう。
戦神アスティア・ウルム。おそらくはただ一人、この世界に生き残っている現人神。
ここウィンディア王国において、いや、シルリス大陸全土を見渡しても、アスティア様の名を知らない者は一人もいないだろう。
ウィンディア王国は魔人領域と境を接する唯一の人間国家。人界の盾ともいうべき守護神の尊顔を、誰が、あるいは何がここまで曇らせたのか。
「陛下が……」
「陛下が、いかがなさいました……?」
相手の沈痛な声にならうように、俺の声も自然と低くなる。
この国の王、俺にとって主君にあたる御方の名をアレス・フォーセイン一世という。
取るに足らない人間の身で『魔人殺し』という偉業を成し遂げ、一代でウィンディア王国を築き上げた大英雄。
齢六十に達する老齢であるが、つい昨日までぴんしゃんしていたはずだ。
まさか昨夜のうちに体調を崩されたのか、と不吉な予感に身を震わせていると――
「良いことを考えついた、と上機嫌なのです」
深い憂いと共に発された、その一言。
それを聞いた俺は、眼前の女神と同様、眉間に深いしわを刻んだ。
「…………それは、まずいですね」
「ええ、まずいのです」
種族の垣根を越えて互いの危惧を共有した俺たちは、顔を見合わせて深い溜息をついた。
アレス陛下は英雄たるにふさわしい気概と力量、魅力を備えた御方で、俺は心から尊敬もうしあげているのだが、なんというか、根が冒険者なせいか、ときどき突拍子もないことを計画しては、あふれる行動力で実行に移してしまうのである。そしてそのつど、臣下一同が後始末に奔走することになる。
陛下のとっぴな思いつきが、日々魔物の脅威にさらされているこの国の活力になっている面は否定できないのだが、だからといって王都全域をつかった大規模かくれんぼ――国民総出で陛下を探す。見つけ出せたらその年の税を免除――だの、これも王都の大通りをつかった騎士団の精鋭(陛下を含む)による馬比べ――ようするに競馬。賭けの胴元は宰相だった――だのを定期的に開催されてはたまったものではない。
というか、宰相は陛下を止めてください便乗してんじゃねえ。
……まあ、かくれんぼが開催された年はひどい凶作だったりと、陛下なりに色々考えてのことだというのは重々承知しているのだが、それならそれで普通に税の免除を布告すればいいのではなかろーか、と俺などは思ってしまうのである。
おかげで凶作をしのいだ後も「今年はかくれんぼはやらないのですか?」という声が必ずあがるようになってしまった。大半は好意的な冗談なのが救いだが。
ともあれ、アスティア様が顔を曇らせている理由を把握した俺は、眼前の女神様がわざわざ俺に声をかけてきた理由を正確に洞察した。
「かしこまりました。陛下のお考えが定まる前に、わたくしからも一言申し上げようと思います」
それを聞いたアスティア様は安堵したように豊かな胸に両手をおくと、やわらかく微笑んだ。
「助かります、テオ。わたしでは言葉たくみに陛下を思いとどまらせることはできません。その点、あなたならば大丈夫でしょう」
見た目は俺と同じく二十歳そこそこ、しかして実年齢はその十倍以上というアスティア様だが、言葉を操るすべはいまだ人間に及ばないようだ。
そもそもアスティア様が戦神として陛下に加護を与えるようになったのも、半ば以上陛下の口車に乗せられたためであるらしい。
陛下に出会う以前のアスティア様は、人間世界には一切関わりを持たず、ただひたすら北のガルカムウ山脈で魔物を退治し続けていた。
そんなアスティア様に近づいたのが「いい年をして王になるという野心にとりつかれていた(本人談)」アレス陛下である。
いったいどういう手管をつかったのか、アスティア様を説き伏せた陛下は戦神の加護を得て名をあげ、ついにはウィンディア王国を成立させるにいたる。
この国の民であれば子供でも知っている建国譚だ。
そのアスティア様から口の巧みさを褒められた俺は、わざとらしくしょげてみせた。
「剣の腕ならともかく、舌の働きを評価されても喜べませんよ、アスティア様」
「あ、それは、その……決してあなたを口舌の徒として見ているわけではありませんよ?」
とたん、アスティア様がわたわたしはじめる。心無い言葉で俺を傷つけてしまった、と考えたのだろうが――うむ、可愛い。
女神に抱く感情ではないが、俺はそう思って口の端をほころばせた。
と、それに気づいたアスティア様の目がたちまち半眼になる。
「……テオ。他者をからかうのは感心しません」
「アスティア様をからかうなど、そのようなつもりは――」
「なかった、と主張しますか?」
「少しだけしかありませんでしたッ」
「つまり、からかったのではありませんか!」
がー、と吠えるアスティア様。うん、やっぱり可愛い。
この世界で唯一生存が確認されている戦神を、神聖不可侵の存在として崇めたてまつる者は多い。
そういう人たちが今の俺を見れば、不敬きわまる態度であるとして弾劾してくるかもしれない。
しかし、今のやりとりを見てもわかるように、普段のアスティア様はとても人間味にあふれた方で、人と神との垣根を感じることはほとんどない。
戦場では他を寄せ付けない強さを発揮するが、休みの日などは王立図書館の片隅で置物のように本を読んでいる姿もよく見かける。そして、そういう時のアスティア様は、周囲の人間がそれと気づかないくらいに溶けこんでいたりする。
アスティア様自身、過度の崇敬を向けられることには抵抗があるように見えるので、俺はつとめて気楽に接するようにしているのだ――もちろん最低限の礼節をわきまえた上で、であるが。
「テオ、どうしました?」
急に黙り込んだ俺を見て、アスティア様が怪訝そうに首をかしげる。
その動きに応じて、長い黒髪がさらさらと肩口から流れ落ちていく。その様は思わず息をのんでしまうほどに優美で、とてものこと、神槍の一投で竜種を叩き落としてのける戦神と同一人物とは思えなかった。
ちなみに、そんなアスティア様の加護を得た陛下の力も凄まじく、それは人間の天敵、魔物の王たる魔人を四体も滅ぼしたという史上空前の偉業が証明している。
英雄王と戦女神。
アレス陛下とアスティア様が健在であるかぎり、ウィンディア王国が揺らぐことはない――王国のすべての廷臣、すべての国民がそう信じていた。
ぺこぺこと頭を下げてアスティア様に謝罪した俺は、その足で陛下のもとへ向かう。
途中、ふとこれからのことが脳裏をよぎった。
国民や廷臣が抱くアレス陛下とアスティア様への信頼に偽りはない。これは俺も同様だったが、問題がないわけではない。どれだけ偉大な英雄であっても不老不死ではいられない。陛下が老齢であるという事実に恐れを抱く者は多いのだ。
陛下には五人の奥方と十人の御子がいるので、後継者の数に不安はないのだが、魔物による有形無形の圧力を受けるウィンディア王国において、国王に求められるのは戦士としての力だ。陛下の血を継いでいれば誰でもいい、というわけではない。
少なくとも俺は、陛下の血を引いているだけのぼんくらに仕えるつもりはなかった。
もしも陛下が亡くなられたら、この国はどうなってしまうのか。アスティア様が加護を与えているのは陛下個人であって、この国そのものではない。陛下が亡くなった後もこの国にとどまってくれるとはかぎらないのである。
それとなく訊ねてみても、はきとした答えは返ってこなかったので、アスティア様自身決めかねているのだろう。あるいは他に何か理由があるのかもしれないが、神の内心は俺では探りようがない。
「考えてみれば、ずいぶんともろい国だな」
一人になると、そんな不敬な考えが口をついて出てしまう。
一人の英雄が築きあげた国。老齢の英雄に頼りきった国。そして、その国が人界の盾であるという現実。
現在、魔人たちはガルカムウ山脈の北で沈黙を保っているが、連中がその気になれば明日にでもシルリス大陸は地獄と化すだろう。陛下もアスティア様もそのことは認めていた。
魔人たちがそれをしないのは、連中にとって人間が収穫物に過ぎないからだ。
適当にほうっておけば勝手に増えていく便利な労働力。十年ないし二十年に一度の割合で起こる魔物の大侵攻は、魔人たちにとって麦刈りのようなもの。存分に破壊をまき散らし、多数の人間を捕らえて北へ帰っていく。
そして十年後、あるいは二十年後、再び人間の数が増したときにまた大侵攻を起こすのである。魔人たちにしてみれば、南の大地で人間を放牧しているようなものだろう。
現在の暦は解放暦二三八年。記録に残っている大侵攻は十三度。
ただ一度の例外をのぞいて、人間世界は大侵攻のたびに多大な被害を出してきた。死者、行方不明者は数知れず、一国の王都が一夜で滅びた例すらあり、地図上から消えた国は一つ二つではない。
悪夢と形容するしかない、血まみれの大陸史。
そこにたった一つの例外がつくられたのは、今から八年前のことであった。
建国して十年たらず、まだまだ小国の域を出ていなかったウィンディア王国を率い、ガルカムウ山脈からあふれでた魔の大軍を撃退した人物こそ、我が主君アレス・フォーセイン。
その主君の居室にやってきた俺は、一度深呼吸してから部屋の扉を叩いた。
部屋の前に衛兵がいないのは、陛下本人が「そんなものいらん」の一言で片付けてしまうからだったりする。
自分に護衛を置くくらいなら、一人でも多くの兵をガルカムウ山脈に配置する、というのが陛下の思考だった。そうすれば、そのぶん魔物の侵入を防ぐことができ、民の暮らしを守ることができる。
部屋の中から返ってきた言葉には張りがあり、それを聞くだけで俺は老いてなお矍鑠とした陛下の姿を脳裏に描くことができた。
尊敬おくあたわざる主君に対し、少々時間を拝借したい旨を伝えて室内に入る。
そして――
それから一刻(二時間)と経たないうちに、俺は扉を蹴破る勢いで主君の部屋を辞していた。
「あんのバカ王がああああッ!」と内心で吠えながら。
◆◆◆
以下、解放暦二三八年四月にウィンディア国王が布告した王位譲渡に関する宣言、いわゆる『花嫁令』の文言。
『我、アレス・フォーセインはここに宣言する。
我はこれより一年の後、今日まで我が築きしすべてのものを後継者に譲ることとする。
我が後継者たる資格は血にあらず。生国にあらず。英雄たる力を備えた者は、たとえ他国の者であっても後継者の資格ありと認む。
では、何をもって英雄たりえるとみなすのか。並び立つ英雄のいずれを優れているとみなすのか。我は考え、そして決めた。
古来より英雄は色を好むという。
我はこの格言に従い、他の国からより多くの嫁、より優れた嫁を連れて来た者を後継者と定めるであろう。
我が愛する臣民よ。
我はこの決断が王国に、そして人界の未来に大いなる恵みをもたらすと確信する。
我が後を継がんと志す小英雄たちよ。
まずは我が王宮を訪れよ。我みずから汝らと顔をあわせて詳細を語るであろう。
我は王宮にて未来の英雄たちと出会い、語るを心から楽しみに待っている』




