最終話
*
……ハローハロー日本中のみなさんこんばんは……ねえ、ちょっと声が大きい……ほんとに……ほんとだよ、もし起きてきたら……じゃあもう一回……
(くすぐり合うような笑い声)
……駄目だよ、ちゃんとやれって……いーま自分だって……いくよ……ハローハロー日本中のみなさんこんばんは……
(耐えかねるような笑い声のあと、もぞもぞと聞き取れない声)
……ハローハロー日本中のみなさんこんばんは……兄の裕樹と……弟の祐二です……
今日は七月二十九日です……今日は七月二十九日です……さて、三度目となるラジオ天才兄弟のお時間ですが、祐二くん……はい、なんでしょう裕樹くん……ゲストの今村海斗くんはどこに行ってしまったんですかね……そうですね、今ごろはたぶんぐーすか寝てるんじゃないでしょうか……では今回はゲスト抜きということで……はい、そうしましょう……
(紙の擦れあう音、なにかを指示する声)
……では早速お便りコーナーです……はい、今回は……ちがうよ、そこはおれだから……あ、ごめん……お便りコーナー、今回は五年一組の佐原俊和くんからのお便り。最近学校で飼っているうさぎに元気がありません、どうすればいいでしょうか……うーん、どうすればいいでしょう、裕樹くん……そうですね、うさぎは寂しいと死んでしまうらしいので、佐原くんがもっと傍にいてあげればいいんじゃないでしょうか……人形を近くにおいておくとかね……人形じゃ駄目だろ、やっぱり人間じゃなきゃ……そうかな……というわけで次のお便り……はい、お次は僕からのご紹介。石井和馬くんからのお便り……なになに……いつも楽しく聞いています……どうもありがとう……このまえ遊びに行ったとき、ゲーム機を踏んじゃってごめんなさい、また遊ぼうね……気にしてないよな、そんなの……うん、全然……気にしてるの……してないよ、本当……というわけで僕たちは全然気にしていませんので、また遊びに来てね……待ってるよ……えーと、あとは……あとは誰にも教えてないよ……そっか、じゃあ次……
(紙の擦れあう音)
……いいよ、あいつのことは……でもみんなに嫌われてるし……いいよあんなやつ……おれも大嫌い……死ねばいいのにな……うん……ここで一回テープ止めちゃおうか……うん……ねえ、いま和室で物音したかも……え、嘘……
(沈黙)
……やばい止めて! お母さん起きてきた……スイッチどこ? ねえ、行かないで行かないで……
(ドアを開ける音、不自然な沈黙)
……もう、こんな時間になにやってるの……ほらほら、出てきなさい……お母さんごめんなさーい……裕樹はどこいったの……なんだそこにいるんじゃない……祐二隠れるの遅すぎ……ごめん……なあに、これ、なにやってたの。もうスイッチ切ってよ……スイッチどこだ……もう、寝られやしない……なにやってるんだよ、まぶしい……ちがうの、この子たちが……
*
テープに録音された声が終わったあとも、長い沈黙が辺りを覆っていた。まだなにかが残されているかもしれないという期待と、淡い感傷とが、どちらの胸もいっぱいにしてしまったのである。カチンという合図でテープが逆回しになったのを潮に、弟が立ち上がり、部屋の電気を点けた。僕らは思い思いに体を伸ばして、互いを見た。それからあまりにも哀しく笑った。
「あれ、どっちがシナリオ書いたんだ?」
「さあ。でもひどかったな」
「せっかくだからおふくろにも聴かせてやろうか」と弟は言って、僕の隣にまた腰を下ろした。「どうしよう。下に持っていって──」
「いや、もう少しここにいたい」僕は大きく息を吸い込み、吐き出した。頭にもやがかかったみたいだった。「……まるで長い眠りから覚めたような気分だ」
「もう少しで永遠に眠っていたかもしれない」
「そうだな」と僕は同意した。「今まで思い出したことすらほとんどなかったんだもの」
僕らは失われた年月について回想した。近所の駄菓子屋で段ボールを山ほど分けてもらい、坂を滑ったり、林の中に敷いて自分たちの陣地だと主張したあのころ。真夏に汗だくになりながら自転車に乗ったりもした。あるいは友だちの家を渡り歩き、気づくとすっかり大人数になっていたこともある。ときには健全な子供らしく、触れてはならぬものにも興味を持った。それらの情景は、今となってはまるで遠い昔に見た印象深い夢のように淡くつたない。
「それで」と弟は言い、洟をすすりながら手持ち無沙汰に痩せた両手を擦り合わせた。「今日は誰のところに行ってたの、結局のとこ」
「昔の彼女のところに」と僕は答えた。
「おれも見たことがあるって言ってなかった?」
「言ったよ」
「で、誰なわけ」
僕は名前を教えてやった。弟は記憶を探るように口を半ば開きかけた。
「……覚えてないな、やっぱり。でもどうして今さら?」
「同窓会の報せがあって、それであの子がうちに電話してきた。昔の連絡網をそっくり保存していた人がいて、ちょうどあの子の家の次がうちだったってわけ。同窓会には行かなかったけど、それからちょくちょく連絡を取り合ってる」
「なるほど」それから弟はあっさりと話題を変えた。「それで兄貴としてはうちに住む気はあるの?」
「あるわけないだろう──あれ、なんとかとしてくれよ」
「おふくろ?」
「いっしょに住みたいのよくはわかるんだけど」と僕はため息をついた。「おれはもうこっちに住みたくないんだ。あまりに嫌な思い出が多すぎる」
「でもいまはいじめられっ子じゃない」
「いや元々そういうわけじゃ──ただあのころは気を使いすぎてたんだ、何事にも」
説明しがたい緊張が、二人のあいだを走った。弟は誰もがそうするように、僕の言いわけを逃げ口上みたくとった。
「もうみんな大人になったんだし、いまさら兄貴から金を取ろうなんて考えるかな」
「考えないとは思うよ。でも怖いんだ。信用しきれない」そうは言ったものの、自負心のために、やはりきちんと事情を説明した方がいい気になってきた。「いや、だれかれ構わず金を貸していた自分が悪いんだけどね。ただ世間知らずだったというだけのことさ。それで色んなものが破綻した」
「破綻?」
「ああ、なんていうか──つまりは友だちが知り合いに変わるっていうことだよ」
弟はちょっとした驚きに打たれている様子だった。眉間に神経質なしわを寄せ、「ええと……」と口走る。言葉を見つけられないようでもあった。
「じゃあ金を取られていたわけじゃないの?」
「違う。正確にはね。あいつらがどう思っていたかは別にしてということだけれど」
「なるほど──いやまさか」
「おれは思うんだけどね、悪っていうものは想像を遮断することから始まるんだ。そう考えると、悪っていうものは誰の身にも潜んでいることになる」
「ああ、ちょっと待ってて」いくぶん取り乱しながら、弟はあわてて口を挟んだ。「いま下からなにか持ってくるから……もしかするとおれは兄貴に対して決定的な誤解を抱いていたことになる」
その夜、話は長く続いた。コーヒーを二杯分持って弟が戻ってくると、交換し合う言葉ひとつひとつにもさらに熱が入り、どちらも「どうしていままでそれを話してくれなかったんだい?」とばかりに、目に不思議な驚きを湛えていた。もはや嵐も二人の耳には入らない。そのうち、弟の表情に遠い記憶でしか覚えのない、独特の光が戻ってきた。それは全幅の信頼にも似た輝きだった。
「いや、けれど」と言いかけ、弟はなんとか言葉をつごうとするが、それは哀愁のため息にとって代わる。「……まさか兄貴にそこまで考える頭があったなんて。失礼な話、不甲斐ない人だと思っていたから」
弟の言葉に少々胸を痛めながら、僕は深く息を吸い込んだ。
「何度も言うように、おれは誰にも媚びたりした覚えはないよ」と僕は言った。いまではきちんと自分の声で弟に語れるようになっていた。「そういう人間を軽蔑するように心がけてきた。いや、もちろん軽蔑してはいけないとも感じていたんだけれどね。でもそうしないことには、うまくああいう連中と渡り合えなかったんだ」
「そうか。いやでも本当に──なんか笑っちゃうよ」
弟の笑い声に、僕の笑いがかぶさった。気恥ずかしくもあり、同時に感動を覚えてもいた。あまりに臆面なく自らをさらけ出したことを、多くを語りすぎたことを極まり悪く思いながらも、同時に弟と分かり合えたことに感動を覚えてもいた。
「これでやっと胸のつかえがとれたよ」
「明日出るの?」
「その予定だったけど、もう少しゆっくりしていってもいいかもしれない──ちょっと待ってて」携帯電話が鳴っていることに気づき、僕は立ち上がった。「すぐ戻るから」
「いいよ、ゆっくり電話してきて」
僕は部屋の外に出た。
「……もしもし?」
「もしもし。おはよう」
ひとみからだった。その声は上ずりながら、同時に冷静であろうと努めているみたいに聞こえた。
「おはよう。いまは何時?」
「朝の四時半。あれからわたし、一睡もできなかったの」彼女はそう言ってから、気まずそうに付け加えた。「……別に君のせいにしてるってわけじゃなく、ね」
「わかるよ」と言ったが、頭は別のことにとらわれていた。驚くことに、僕らはあの部屋で酒を飲むでもなく、二三杯のコーヒーを口にしながら五時間ほど話し込んでいたことになる。
「ねえ」
二人の声がそろった。そろって黙り込んだあと、僕から切り出した。
「昨日のことなら気にしてないよ」
「ごめんなさい、わたし……」
「いや、それよりきちんと話したいことがあるんだ」両親の眠る寝室から少し離れようと、僕は階段を下った。窓の向こうには晴れ間が見えた。「今日か明日に少し時間を作れないかな。昼でも夜でもかまわない」自分の声が弾んでいることに、僕は気づかされた。「いま外を見てる? 雨が上がったみたいだよ」
「そう、いまちょうど窓のそばに立ってるの。なんだか機嫌がいいみたい」彼女の声もしだいに明るさを取り戻していった。「それなら明日君のおうちにおじゃますることにする。何年ぶりだろう! おば様は元気?」
「元気すぎるほどね」
「あら」ひとみは思い出したように声を上げた。「でも今日には帰るんじゃなかった?」
「いや、下手をするとしばらくはここに留まるかもしれないよ」
「すごい気の変わりよう」
「本当にそうだな。自分でも驚いてるんだ」僕らは二人とも笑った。懐かしい思い出がいちどきに胸に溢れた。「こんな気持ちになるのは本当に久しぶりだよ。弟に感謝しなくちゃいけない」
「弟くんがなにかしてくれたの?」
言葉がでなかった。説明しようと試みて、口を半開きにしたまま、自分がいままさに身動きもとれないほどの感動に打たれていることに気づいた。体が病的に震え始めていた。息が詰まり、目の奥から涙が溢れた。それは脈打つ生命の輝きそのものであり、長いあいだ忘れかけていたものたちのかけらだった。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない……本当になんでもないんだ」
泣いていることをごまかそうと、また止めどない涙を少しでも飛ばそうと僕は窓を開け放った。冷えた地面と上空の暖気が混ざり合い、一陣の爽やかな風が頬を打った。そこには、たった今までどこかに閉じ込められていたとでもいうな、芳醇な夏の香りが満ちていた。
「窓を開けてみて」と語りかけるように彼女は言った。「すごくいい風が吹いてる」