第五話
それから少しして嵐の幕が上がった。風が電線を上下に激しく揺すり、時おり突風と共にイナゴの大群を思わせる雨が窓を打ちつけた。カーテンに浮かび上がった庭木の影が落ち着かなく首を振り、雷が鳴ると遠くから甲高い悲鳴が聞こえてきた。僕は窓枠に指を置き、カーテンの隙間から絶え間なく流動する暗色の雲を見上げた。部屋はなにからなにまでむっとする湿気に包まれていた。
「お茶でも飲む?」と母が後ろから声をかけてきた。「それでね、お母さんなんて言われたと思う?」
「さあ。すごい雨だね」
「ほんと。屋根が吹き飛ばされなきゃいいけど」それから母は気の利いたことを言ったみたいにひとりで笑った。「それでね──大叔母さんよ、あの人がわたしに──」
僕は生返事をして居間の戸口から首を出し、廊下と向かいの部屋をのぞき見た。
「ねえ、親父はどこに行ったの?」
「上じゃないの? 知らない」母はふたたび声を落とした。「あの人って苦手、好きになれない。大叔母さん。みーんなそう言ってる。人をつかまえてわざわざ嫌味を言うんだから。それで今日わたしね、あんまり腹が立ったから言ってやったの、『でもうちはできる限りのお金は工面しましたよね?』って。入院費だって払ったし、葬儀代だって三分の一はうちが持ったんだもの」
「そしたら向こうはなんて?」
「それがね、無視するのよ、あの人!」と母はむきになって言った。「自分に都合の悪いことはぜーんぶ聞き流しちゃうんだから。髪の毛をあんな色に染めた人に説教なんかされたくない」
でも大叔母がどんな色に髪を染めていたか、僕にはさっぱり思い出せなかった。それから母親の荒ぶる魂を鎮めるべく、立ち上がってお茶の準備を手伝った。「あら、ありがとう」といつになく慇懃に母は言った。しかしまたもや住む場所に関する問題が持ち出されてきたので、僕としてはすっかり食傷した気分になってしまった。折りよくぐしょ濡れになった弟が玄関のドアから騒々しく帰還し、僕はすぐさま立ち上がった。
「おかえり」
弟はぐったりした様子で、壁に背をあずけながら家の中を濡らすまいと玄関でシャツを脱いでいる途中だった。生地が肌にへばりついてうまく脱げないみたいだったので、僕は手を貸してやった。
「ただいま」とやつれた声で弟は言った。
「傘くらい買えばよかったのに」と僕は呆れて言った。
「あっても意味ないさ……そこらじゅう傘の死骸だらけだぜ──」
弟は家中に響き渡る大きなくしゃみをして、激しく身震いした。その拍子に弟の髪から水滴がほとばしり、そのうちの何滴かが僕の頬と額を打った。タオルを取ってきてくれないかと頼まれたので、僕はいちばん布地の広いバス・タオルを取ってきて、弟の肩にかけてやった。母が居間からなにか声を上げたが、どうやら息子の心配より雨に濡れたスーツが気にかかるらしかった。
「少し濡れちゃったな」と洟をすすりながら、余裕のない顔で弟は言った。
「どう見ても少しどころじゃないだろうが。ちょうど風呂が沸いてるから──」
「いや、ちがうよ。さっき田端の家に寄ってこれをとってきたんだ」弟はスーツの内側をまさぐって中から古びたカセットテープを取り出し、ひっくり返して点検した。「別におれはいくら濡れたってかまわないんだから……くそ、ちゃんとかかるかな……」
一瞬息が詰まり、僕はしばらく言葉を失った。心臓を突然握られたみたいだった。
「ちょっと貸して」
テープを受け取ってみると、おぼつかない字で『ラジオ3』と記されている。まさか本当に取りに行くとは。
「よく残ってたな!」と僕は大きな声を出した。
「あって良かったよ。探すのに一時間はかかったな。途中で諦めようとも思ったんだけど」
「すごいな……でも肝心のラジカセがあるのかどうか」
「たぶん押し入れの中にでもあるんじゃないかな。これでラジカセがなかったらおれの立場がないもの」
そこへ居間にいる母から非難がましい声が届いた。びちょびちょのまま家の中に上がらないでね、と。でもその声には僕も弟も答えなかった。
「とにかくシャワーを浴びてくるよ」と気をはやらせながら弟は言った。「そのあいだに親父にラジカセのこと訊いてみてくんないかな?」
「オーケー、わかった」
ぺたぺたという足音を立てて弟は居間をよこぎり、脱衣所のカーテンをさっと閉めた。僕は居間に戻って戸口の前でしばらく立ち尽くし、深い驚きに感嘆の息をもらした。
「やっぱり信じられない」と僕はひとりごちた。
「あの子、どこにいってたって?」
「田端のうちに行ってたんだよ」と僕は教えてやった。「これを取りに」
「なんなの、それ」
「昔の思い出そのものだよ」
それ以上説明するのが面倒だったので、僕は階段を上がろうと部屋を抜けた。
「あの子御飯どうするか言ってた?」
「さあ。親父は起きてる?」と僕は階段から居間に向かってどなった。
「起きてるんじゃないの」
「わかった」
嵐のせいで、家の中は妙にしんとしていた。それは僕のほんのりとした、懐かしいような気分にいっそうの拍車をかけていた。嵐の夜というのは、とりもなおさず少年の心を思い起こさせるものである。階段を上がるうち、そののろまな軋みを聞きとって、二階の部屋で父親が立ち上がったのがわかった。ドアの鍵を外しておいたのだろう、僕が部屋に入ると、ちょうど革張りの安楽椅子に腰を下ろしかけているところだった。
「なにを探してるって?」父親は手に持っていた小冊子にしおりを挟み、本棚の端に収めた。下での会話の一部を聞きとっていたのか、表情にはとりすましたところが見られた。
「ラジカセってまだあるかな」と僕は尋ねた。「いまちょうど祐二が帰ってきてさ、田端の家から古いカセット・テープを持ってきたんだよ」
「カセット・テープなんか、なんのために?」
「なんとも説明しづらいことなんだけど──いいよ、立ち上がらなくっていいからさ。場所さえ教えてくれれば」
父はどことなくがっかりしたようだった。
「廊下の奥にあるよ。去年だったか大掃除のときに見たから」
それだけ言い終えると、父は興味を失ったように椅子を回転させ、本棚からまた同じ小冊子を手にとった。
僕は一階に下りた。テーブルに載った湯飲みから、湯気が立ち昇っていた。
「なにか必要なの?」と母はたずねた。「別に急なことじゃないんでしょ。温かいうちに飲んじゃいなさいよ。もったいない」
仕方なく座布団の上に腰を下ろし、お茶をすすった。なおも外では光のない雨が延々大地に降り注いでいた。そのうちになんだか体が熱っぽいような気がしてきた。
「風邪をひいたかも」と僕はつぶやくように言った。
「なあに、もう、いやだ。マスクしてよね」母はそう言ってから立ち上がりかけた。「薬箱探してみなさい。たぶんあったと思うから」
僕がそれに対して生返事をするのとほとんど時を同じくして、弟が風呂から上がって居間に入ってきた。ボクサー・ショーツ一枚といういでたちで部屋を見回したあと、僕に向かって「あった、ラジカセ?」と尋ねる。これから探すところだ、と僕は言った。
「親父に聞いたんだけど、あるとすれば廊下の奥じゃないかって」
弟はうなずいた。上で着替えるから少しのあいだ待っていてくれと言い残し、バス・タオルを床に放り投げていった。母がぶつぶつと文句を言いながらタオルを拾い上げ、ハンガーにかけた。僕はお茶を飲み干して廊下の奥に行き、こまごまと物の詰まった中からラジカセを探った。
目当てのものを見つけるまでにはかなりの時間を要した。弟は体を支えるように僕の肩に手を置いて、「どう、ありそう?」と尋ねた。
「あの奥にたぶん……」と僕は不自然な体勢のまま言いかけた。
「代わろうか?」
「いや、いいよ。もう手が届く」
そこにあるものたちと同様、例に漏れずラジカセもたっぷりと白い埃をかぶっていた。時代遅れのラジカセは無駄に大きくて重かった。そのときふいに懐かしい記憶が蘇った。子供のころ、野球中継が途中で打ち切られてしまった場合なんかには、よく家族がこの古びたラジカセの前に集まって試合を観戦したものである。僕らは母親の断固たる意見もあり、それを一度わざわざ外へ運び、玄関の庇の下ではたいた。
「どうしようか。二階へ持っていく?」
それがいいということになった。僕らは騒々しい音を立てて二階へ上がり、昔に僕の使っていた部屋に入った。部屋にはシーツのない丸裸のベッドと、隙間だらけの本棚だけが残されている。やはりこちらも埃にむしばまれており、まるで本棚は乱杭歯、ベッドは皮膚を剥がれた腿といったところ。
僕らはベッドの上に腰を下ろした。コードを伸ばして差しこみ、スイッチを入れると、仄赤い光が黒い塊のごつごつとした表面に浮かび上がった。このラジカセは父親が大学の入学祝いに両親からもらったものだ、というような話を、いつだかに父自身から聞いたことがあった。だとすれば実に半世紀ばかり昔に製造されたものということになる。
弟はカセット・テープに何度か息を吹きかけ、それから慎重に差しこんだ。僕が再生ボタンをまさぐると、弟の手がそれをさえぎった。
「ちょっと待って」と弟は弾むような声で言った。「どうせなら電気を消して聴こう」
「どうして?」その唐突さに僕は思わず吹き出してしまった。
「だってほら、なんていうか、昔は真っ暗な部屋で録音して聴いたじゃないか」と弟はたどたどしく言った。「ばれたら怒られるからって、二人してさ、まだこのうちに二階がなかったころの話だよ」
「覚えてるよ。わかった。消そう」
僕は立ち上がって電気を消した。部屋には切り絵のように窓枠が白く浮かび上がった。
「これでいい?」
弟は薄闇の中でうなずいた。僕はふたたびベッドに腰を下ろした。闇の中で弟の手がラジカセに伸び、やがてなにかの擦れるようなおぼつかない音が漏れだした。鹿爪らしい沈黙のあと、意を決したように声を出す。