第四話
ひとみ、というのが彼女の名だった。実際の彼女を見れば、多くの人がその名前に納得するのではないかと思う。その両眼は、文字通り彼女自身だと言ってもいい。その一対の巨大な目が彼女という人格を余すところなく相手に伝え、また同時に彼女自身の人格をさえ絶え間なく作り変えていくのだ。
突然とんと両肩に手を置かれたので、彼女は悲鳴を上げる代わりに大きく息を吸い込んだ。
「びっくりさせないでよ」と彼女は振り返って言った。それからおどけるように目を丸くする。「死ぬかと思った」
「仕事はよかったの?」
「今日の分はもう終わったからいいの」言いながらひとみは僕の腕をとって、通りの端に寄った。「雨が降らなくて良かった。傘を持ってこなかったから」それから唐突に打ち明けた。「ねえ見て、今日ここんところにコーヒー零しちゃったの。もう最悪!」
胸のところに大きなリボンのついた白いブラウスを指先でつまみ、憤然たるさまで彼女は服をのぞきこんだ。「ほらね。もう絶対に落ちない」──たしかに腰骨の辺りに茶色いしみができている。ブラウスには袖というものがほとんどなく、肩からつるりと腕がのぞいていた。開いた胸の部分に、見覚えあるかたちのネックレスが見える。
「で、どこに行くの?」
「大した店じゃないけど、いちおう席はとってある」
僕らは予約した店に向かって歩き出した。みるみるうちに宵の空が深まりを見せ、都市の明かりがぼんやりとその頭上に浮かび上がった。通りが人で狭くなると、僕は彼女の肩に腕を回してぐっと自分の方に引き寄せた。やがてほっそりとした腕が遠慮がちに、しかし親密みを持って僕の腕にからめられた。信号で立ち止まっていると彼女がしっくりこない表情をこちらに向けたので、僕は上着を脱いだ。
「わたしね、駄目って気づいたの。もう面倒になっちゃって」
彼女の言わんとするところを察して、僕は肯いた。
「よくわかるよ。女の子ってそういうものだ」
「そうかな? わたしは自分が特別だって思っていたから」と彼女は言い、迷うように付け加えた。「世慣れたなんて言うつもりはないけど、もう女の子じゃないの」
「そうか」
しばしの沈黙があった。信号が青になると、彼女は僕から離れた。
「先に信号を渡って。あとからついていくから」と暗い声でひとみは言った。
「嫌だよ。いっしょに行こう」
「そんなにびっくりした顔しないで。冗談なんだから」彼女はにっこりと笑い、ふたたび僕の腕に腕をからませた。「わたし、本当はなにも変わってないの。それがなんとも厄介なことなんだけれど」
地下にある小奇麗な居酒屋に、僕らは向かい合わせて座った。店の中も例に漏れず賑やかだったから、酒が入るまでそわそわと落ち着きなくメニューに目を這わせた。廊下を軋ませながら店員がやってきて、うつむいたまま注文をとった。
「お先にお飲み物をおうかがいいたします」
「なに飲む?」とひとみがこちらに顔を向けた。「わたしはビール」
「生ビールをジョッキでふたつ」と僕は店員に告げた。「あれ、前にビールは飲めないって言ってなかったっけ」
彼女は首を振った。「最近飲めるようになったの──えーと、あとこれもらえます?」
ぼそぼそと注文を繰り返して、店員が部屋の戸を閉めた。
「いつから?」
「なにが」
「ビールを飲めるようになったのって」
「わからない。でもね、おかげで今やうちの中は空き缶でいっぱい」
彼女が笑うと、目の端にあどけないしわが浮かんだ。昔に友人たちとのあいだで、ひとみの肩を小刻みに震わす笑い方が嘲笑のネタになったものだけれど、今ではかえってそれが相手に秘めたる少女性を匂わせる一種の媒体の働きを示している。
四方八方で宴会みたいなものが開かれていたせいで、僕らの様子はひそひそ話をしているように見えたはずだ。まるで招かれざる客が、もうひとりの似たような存在を見かけて思わず声をかけてしまった、というみたいに。でもあれやこれやとお互いで話題を持ち出した末に、どうにか話を軌道に乗せることができた。そのうち彼女の頬が赤みを帯びて、話す声にも昂りが見て取れた。席を替えて隣り合わせに座ると、ひとみの手が僕の手に覆うように重ねられた。
「ねえ」と彼女は甘い声でささやき、僕の肩にそっと頭を載せた。「うまくいくと思う?」
「なんのこと」
「全部のこと。わたしたちが昔以上にうまくいくかどうかってこと」
僕は相手の肩に腕を回して、首から下がった彼女のネックレスをつまみ上げた。
「これってやっぱり──」
彼女は僕の目を見てうなずいた。「そう、ちゃんと覚えててくれた? 君が自分でくれたんだからね」
「覚えてるよ。すごく昔の話みたいに思えるけど」
「わたし、まだあのころのお金返してもらってなかった気がするな」と彼女はからかうように言った。「いったいいくら取られたの?」
「さあ。でもその話はあんまりしたくないね」
「仕返ししたい?」
「いや」と言って、僕は間を置いた。「どっちかっていうと、もう関わり合いになりたくない」
「だから地元にも帰りたくない?」
「この話、もうやめよう」僕は彼女の体から離れ、手を伸ばして勘定書をとった。「暗くて見えないや。そっちの明かりに照らしてみて」
ひとみはバッグから携帯電話を取り出し、画面の明かりを近づけた。
「今日はわたしが持つ」と抑揚のない声で彼女は言った。
「いや、いいよ」
僕は店員を呼び、勘定を払って立ち上がった。
「君のうちまで送っていくよ」
「このあとはなし?」
僕は答えなかった。通りに出てタクシーを捕まえ、行き先を告げると、あとは目をつむって静かにしていた。外には湿っぽい、勢いのある風が出始めていた。
「ねえ、怒ってるの?」彼女の声がこのとき初めて切迫さを帯びた。「さっきのことなら謝るから許してよ」
「違う。怒ってるんじゃないんだ、本当に。ただなんというか、考えてるだけで──」
「なにを」
「それについて話したくないんだ」
タクシーが停まり、彼女が降りた。
「ごめんね」とひとみは言い、とりなすような淡い笑みを浮かべた。「あとでメールするから」
彼女は軽く手を振り、こつこつと足音を立てて小路を歩んでいった。タクシーがふたたび発進し、僕は行き先を告げた。