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第三話

 タクシーの中で思いもよらず昔話に華が咲いた。弟とそんな話をするのはほとんど初めてのことだった。

 子供のころ、両親は僕に愛のほとんどを捧げてしまったから、弟の取り分は自然と少なくなった。それは「おねしょ事件」の例が常から代表に挙げられる。僕の両親は当時女の子を欲しがっていた。三人目を持つ余裕は今後発展する父の経済力を計算に入れても難しかったから、どうせならと娘を欲しがったのだ。

 けれど生まれてきたのは男児だった。二人は落胆し、うまく現実を飲み込めないままその子の成長を見届けた。両親はなにかにつけ想像力を欠いた人たちだったから、なにもかも前もって形式的に身の振り方を決めておかねばこれといった決断を自分たちでは行えなかったのだろう。両親に限ってではなく、この手の人たちは目に見えるものにしか価値を見出せないのである。

 そしてその結果、弟は自然と劣等感をおぼえ、弱気な幼少時代を送ることになった。いつでも母の手にしがみつき、午前のあいだ託児所に預けられると、必ずといっていいほど半時間あまりを泣きわめいて過ごした。手を焼いた保育士たちはなんとか気の合う友達を作らせようと幼児の群れに弟を放りこんだのだが、これがまたまずかった。自由奔放に育った他の子供たちに比べ、弟はあまりにも人間に慣れていなかったのだ。それが原因で弟は昼寝の時間おねしょやうんちを繰り返すことになるのだが──おねしょに限っては実に十三歳まで続いた。

「懐かしいな」と弟は言ったが、無理して言っているのは明白だった。彼は咳払いのようなものをして、「というか──」といいかげんに話題を転じようと試みた。

「というか、なに?」

「いや、やっぱりいい──ちがうよ、ちょっとそのころの心境を思い出しただけ。おれの目に兄貴がどう映ってたとか、その反対も」

 弟が僕に対して長いあいだ劣等感を抱いていたことはたしかだった。弟はずっと母親のそばにまとわりついていたし、そうでないときは僕の横にぴったりとくっついているのが常だったからだ。でも思春期を過ぎると、彼が自分自身を確立するのにそう時間はかからなかった。何年かするうち、弟は父親を含め大人と対等の口を利けるまでになった。彼も僕とはまた別の道を辿り、いっぱしの人間としての自尊心を手に入れたというようなわけである。

「さっき考えてたことを話すよ」突然弟はそう言うと、決意を込めた目で僕を見た。心なしか目に怯えのようなものが走る。「実を言うと、ちょっと金を貸して欲しかったんだ」それから言いわけするように付け加える。「すぐ返せるから」

「いくら?」

 弟はぼそぼそと金額を言った。

「いいよ。いつ返せる?」

「八月中までには、なんとか」

 しばらくのあいだ沈黙が続いた。弟はどうしたものかという風に咳払いを交え、その果てになんとか思い出話をひとつ引っぱり出した。

「昔にさ、よく三人でラジオのDJをしたのって覚えてる? おれと兄貴と今ちゃんで」と弟は言った。「わざわざ夜更かしして、カセット・テープに声を吹き込んだのを」

「覚えてる」

「あれ、どこにいっちゃったのかな」と弟は真剣な顔つきをこちらに向けた。それから唐突に指を鳴らした。「ちがう、あれはまだ田端にいたころだったから──」

「そうだね」と僕は同意した。「テープがあるとするなら……」

「西尾久の家だ」

「だろうね──間違いなく」

 弟は迷うように自身の唇に指を置き、タクシーが信号で停まると運転席まで身を乗り出して進路変更を伝えた。

「やっぱり田端まで行ってください」

「駅まででいいの?」とこちらに半分顔を向けて運転手が言った。

「ええ」

 本気なのかと僕が訊くと、いい機会だからと弟は答えた。たぶん今日を逃したらあのテープがふたたび日の目を見ることはないだろうから、と。僕はちょっと躊躇してから「ねえ、悪いけどおれは行けないよ」と言った。

「どうして」

「ちょっと予定が入ってるんだよ。それにまだ残ってるとも思えない」

「なんだよ、つれないな。これからすぐ?」

 僕は肯いた。「人と会わなくちゃいけない」

「でもさっき──」

「そういう連中じゃなくてさ」僕は腰を浮かせてヒップ・ポケットから財布を取り出し、先ほど弟の言った金額をひっぱりだした。「おまえも知ってる人だよ。ヒントは男じゃなくて誰とも一度も結婚してない。ほら」

 弟は金を受け取って、返済のめどを同じように繰り返した。

「助かるよ。恩に着る」弟は努力して、淡い微笑みのようなものを浮かべた。

「そこの建物の前で停めてください」と僕は運転手に言った。タクシーは減速して指示されたとおりの地点で停車した。「おれはここで降りるよ。じゃあまたあとで」


 約束までにはまだかなり時間があったから、僕はチケットを買って映画を観た。とある剣士が幕府の陰謀に巻き込まれて一族共々没落し、なんとか生き長らえた息子が復讐を完遂するというありがちな筋の映画だった。風評どおり後半に至ると興ざめの連続だったから、きりのいいところで席を立ち、無人の廊下を歩いて外に出た。けれどむっとする風を首元に感じて引き返し、ドアのそばに置かれたベンチに座って彼女に電話を掛けた。

「もしもし──ねえ悪いんだけどいまちょっと話せない──あとで掛けなおすから──」

 そこで電話は切れた。こちらになにか一言発する余裕を与えることなく。

僕はおもむろに立ち上がって中を見渡した。それからあきらめてまた腰を下ろした。引き返してもう一度映画を観ようかしらという気になったのだけれど、何十という頭がいっせいにこちらを振り向くことを想像して断念したのだ。結局そばの売店で月刊ファッション誌を買い、コーヒーショップで煙草を六本吸った。サンドウィッチを食べたあとでさらに四本吸った。それでもまだ約束の時間までにはきっかり一時間あった。

「ねえ、ちょっと時間を早めない?」と今度は相手になにかを言わせる前に、こちらが言い切った。「無理だったらいいんだけど」

「いいよ」と彼女は明るい声で言った。先ほどと比べ、あっけらかんとした体である。「どこで落ち合う?」

「いまどこにいるの?」

「ちょうど会社を抜け出してきたところ。自分は?」

「三越のそば」

「十分で行く。待ってて。ねえ、あとで電話するからそのあいだに──」


 太陽が駅の方角に遠のいていき、それを潮に通りは半袖のシャツにネクタイという人でごった返した。都市のぼやけた輪郭の端々に明かりが灯され、あくせくとした昼に代わる安堵と冒険気分が辺りに漂う。人や車やそれ以外のもののあいだを縫うように歩き、僕もまた周囲と似たような心持ちで通りを歩いた。長く延びたクラクションが辺りに鳴り響いて宵闇にさらなる昂りを付与し、誰かが誰かを呼ぶ声、大衆酒場の呼び込み、その他にもひっきりなしに見ず知らずの断片的な会話が耳に飛び込んでくる。時計の針が七時ちょうどを打つのとほとんど同時に、僕は人ごみの中で彼女の姿を目に認めた。そのしぐさ──歩き方から表情まで、なんともいえず懐かしみを帯びている。僕は彼女の方に向かって手を挙げかけたが、気を変えて後方に回り込んだ。

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