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第二話

 葬儀のあいだ中、ずっと車の中で聴いていた音楽が耳を離れなかった。見たことのある顔ぶれが部屋を満たし、誰かが早晩涙を流さなければいけないだろうとばかりに、ときどきはお互いにちらちらと目を配った。中には僕と歳の近い従兄弟やなんかもいたけれど、親戚付き合いの悪いせいで、ほとんど顔すらもまともに覚えていない。覚えているのはなにかの席で親戚一同が荒川区の祖父の家につどい、そのあいだ中ずっとひとりの、それも十歳にもなる少年が母親にしがみついていたということだけだ。

 形式ばったあれこれのあと、我々は焼き場に移った。釜の周りを取り囲み、それぞれが死者に別れの言葉を投げかけた。このときになって初めて何人かが涙し、それ以外がほっと胸を撫で下ろした。その何人かの中には僕の父親も含まれていた。父の顔はなにか、避けようのない悲劇に押し迫られてでもいるかのような切迫さを帯びていた。まるで祖父の体が焼かれるその瞬間に立ち会うことで、祖父の死をようやく理解したとでもいうような。

父は順番が来ると我々兄弟を凄まじい力で抱き寄せ、血走った目できれぎれにうめき声のようなものを上げた。

「……これが最後なんだからな……最後なんだぞ……」

 でも腕の力が緩んだときには、父親の体は小さくしぼんでいた。涙をぬぐう気力すらなくしてしまったように見えた。僕と弟はごつごつとした腕から逃れ、いささか当惑しながら死者に別れを告げた。

「お父さんの気持ちもわかってあげなさい──それであなたのお休みはいつまでなの?」と母が小声で言った。先ほどの議論をこんなところでまでしつこく繰り返そうというのだ。

「八月の二日まで」と僕は答えた。

「なによ。全然ゆっくりできないじゃない」

 そのとき「おい」と父親のきつい声がして、僕と母は口をつぐんだ。目は真っ赤になっていた。でもその一言を絞り出してしまうと、父はまたもとのようにうつろに焼き釜に視線を向けた。

「なにをむきになってるんだか」

「そっとしておいてやれよ」と僕は弟に言った。「今はそういうことを言うべきじゃない」


 それが四時だった。一同はそのあとで天井の低い宴会場みたいな場所に押し込められ、あらかじめ用意されたビールと寿司を完食する作業に取り掛かった。先ほどまでの悲壮感はどこへやら、父はビールを口にするなり多弁になった。とは言え、それは我が父だけではなく、周りの人間もまったく同じことだったのだが。

 幼いころに見たことがあるきり顔を合わせなかった従兄弟のひとりは、廊下で「いま何時かわかりますかね?」と僕に訊いた。

「四時十二分です」

「よかった」と彼はほっと息をついた。「まだ間に合うよ。ありがとう」

 僕は思うのだけれど、葬式とはやはり生ある者たちのもので、決して死者だけのためのものではない。それどころか、ときには誰のためにもならないことすらあるのだ。

 やがて歳をくった兄弟たちのどっという笑い声。狭苦しい部屋では全体がひとまとまりの熱となり、天井が割れんばかりの騒ぎとなる。誰かの笑い声に声が重なり、腹がびりびりと震える。空になったビール瓶が次々とどこかに下げられ、また同じだけの酒が提供される。僕と弟はちょうど人々に迫られるように端っこに席をとり、隣にたまたま居合わせた、遠い昔に原っぱで球蹴りをしたことのある従兄弟たちと会話した。そのうちのひとりが例の親離れしないかつての男の子で、その話を僕が持ち出すなり、みんなはどっと笑った。

「しょうがない。まだ子供だったんだよ」と彼は言ったが、周りの指摘を受けて口ごもった。「──というか、昔から上がり症だったから」

「甘えん坊だったって、はっきり言えばいいのに」そのとき別の席にいた彼の姉が大声を上げ、みんなは笑った。

 姪っ子に当たるひとりの少女は、祖父の亡骸を見てわけもわからず泣き出してしまった。ところが骨だけになったあとになると、今度は見せて触らせてと母親にせがんだ。今や男たちは腹を満たすことに夢中になり、女たちはお喋りに夢中になっていた。誰も死者のことについては触れようともしない。あるいは思いつきさえしなかった、というべきか。

 とおりいっぺんの義務を果たし次第、僕は席を外そうと思っていた。というのは後に用件を残していたせいもあるし、酒が入るにしたがって、周りの状況に我慢ならなくなるだろうとも考えていたからだ。別に祖父の死を重く受け止めていたとかそういう風ではなく、とんでもなく酔っ払ってしまうかでもしないと、ひどく退屈してしまうだろうと感じたからだ。そしてそのうちに、思っていたとおりの心境になった。最後までこの場に居残る羽目になることだけはなんとしても避けたかったので、早いうちから弟にそれとなく声をかけた。

「何時に帰る予定?」

 弟は顔を上げた。それからなにかを思い出すように視線をうつろわせ、その途中に大きくあくびした。

「もう帰りたい」と彼は頭を掻いた。「ずっときちっとしてたし疲れた」

「なら途中までいっしょに帰ろう。おれも帰りたいと思ってたから」僕は立ち上がった。「でも最後にいちおう何人かに挨拶しとかないと」

「いいよ。誰とも話したくない」

 弟はむすっとした顔で立ち上がり、侮蔑するような視線で周囲を見渡した。僕はちょっと迷ってから、それが特に問題になることもなかろうと考えて、そのまま出口へ足を向けた。少しして振り向くと、弟は姪っ子に呼び止められ、その小さな手を掴んで上にあげたり下げたりをやっていた。もっと遊んで欲しいとせがむ姪に、今日はもう帰らなくちゃと弟は説明した。

「じゃあまた遊んでくれる?」

「いいよ。もちろん」と弟は微笑みを浮かべながら優しく言った。

「じゃあいつ?」

「いつでもいいよ」

「じゃあうちに遊びに来るんだよ?」

「じゃあ」と弟は反復した。「それまでおうちでいい子にしてたら、今度は好きな玩具を買ってきてあげる」

「じゃあ熊がいい」

「わかった。覚えておくよ。本物?」

 弟がそう言うと、子供は無邪気に笑った。


 外に出てから僕らはそろって煙草に火を点け、通りでタクシーを待った。

「母さんにはあとで電話しておく」とネクタイを緩めながら僕は言った。

 弟は肯いて灰を地面に落とした。

「さっきからなにか考えてるの?」と僕は気に掛かったので訊いてみた。

「いや、別に」と弟は言いかけたが、首を振って続けた。「──そりゃあ今日のことだよ。というか、昔のことか」

「じいちゃんのこと?」

 弟は肯いた。「うん、まあね。やっぱりおれと兄貴がいちばん可愛がられてたしさ」

 そのような感傷性がこの場で弟の心に生まれようとは思ってもみなかった。というのは、弟がなにかにつけ「安っぽい」とかそういう言葉を口癖にしていたからだ。僕は通りへ一歩身を乗り出し、タクシーが来るのを今かと待った。台風五号の到来で、早くも空が濁り始めていた。

 僕は後ろを振り向いて弟の顔色をうかがった。

「そういえば親父が心配してたよ」と僕は打ち明けた。

「心配ってなにを?」

「おれたちの仲が悪いんじゃないかって」

「まったくあほらしいな!」と弟はふきだした。「いつもそうやって──」

 弟はそこで言葉を切り、素早くタクシーに向かって手を挙げた。それから考え深げに僕を見た。

「親父も寂しいんだろうな。要するにどっちかを自分の味方につけたがってるんだよ」

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