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第一話

この小説は企画小説です。「眠小説」と検索すると他の先生の作品も読むことができます。


 八月まで梅雨が長引くと言われていたのだが、弔問の日は運よく晴れ渡った。僕はうちの家族とちゃちな菜園の柵をまたぎ、くさいきれのする裏庭を抜け、通りで父親が車を回してくるのを待った。向かいの林では、鳥たちがばたばたと羽を踊らせて枝から枝へと飛び移るのが見て取れ、枝がしなるたびに路上に水滴が垂れた。外は紛うことなき真夏日だった。弟は額に浮かんだ汗の玉を手の平でぬぐい、顔をしかめて濡れた草むらに唾を吐いた。

「なにか飲みたいんなら今のうちだよ」と母は弟に言った。

 弟はいらないという風に首を振り、喪服のネクタイを手でおさえてもういちど唾を喉に溜め、草むらにぺっと吐いた。ちょうどそのとき、アスファルトを立ち昇る陽炎の向こうに、普段は母親の運転する白のトヨタ・イストが見えた。母親が車に向かい手を挙げ、そのあとで僕と弟に荷物を手に持つよう指示した。母が助手席に座り、我々兄弟は後ろに席をとった。車に乗ってすぐ、父親がこちらに振り向いた。

「いいのか、なにか飲み物を買っておかなくて」

「いらないよ」と弟がぶっきらぼうに答えた。「だってすぐだろう?」

「いいんならいいけど──すぐじゃない。一時間はかかる」

 バックミラーに調整を加えたあと、父親は車を発進させた。母が飴を食べないかとバッグの口を開けたが、全員が首を振った。しばらく沈黙が続いたあと、ふたたび弟が口を開いた。

「ねえ、なにか音楽をかけてよ」

 父親が気乗りしない感じでカー・オーディオのスイッチに手を伸ばしたのだが、母親がそれを制止し、ダッシュボードからCDを二三枚取り出した。

「こっちがいいんでしょう? どれ?」

「ストロークス、ない?」と弟は訊いた。

「どれ?」

「S──T──O──」

「これかな?」

 母親がジャケットをのぞかせたが、間髪入れずに弟が違うと指摘した。

「白いやつだよ。たしか、ほら、イズ・ディズ──」

「その左手に持ってるやつ」と僕が母親に指差して教えてやった。「でもちょっと貸してみて。中身が違ってるかもしれない」

 やがて曲が流れ出した──「Hard To Explain」。車が薄暗いトンネルに差し掛かり、僕は少し眠ろうと目を閉じた。けれど会話がないことに耐えかねたのか、母親がもっともらしくせわしげに弟の名前を呼んだ。

「なに?」と苛立たしげに体を起こす。

「あの子とはまだ付き合ってるの、ほら、なんていったっけ──」

「誰のことを言ってるのか全然わからないよ」

「よくあんたたち二人と遊んでくれたじゃない。うちに夕ご飯を食べに来たこともあった」

 僕と弟は顔を見合わせた。それからほとんど同時に「ああ」という低い声を出した。

「今村くん」と僕は言った。「たしかふたつ年上だった」

「あの人なら福岡に転校したよ。大昔の話だ」と弟がうんざりしたように言った。

「じゃあ先月うちに来たのは誰なの? 祐二くんはいませんですかって。あの子の名前がたしか今村くんじゃなかった?」

「あれは──」と弟が言いかけ、もどかしげに舌打ちした。「ていうか、そんな話はもういいよ。あれはちょっと金のことで話があっただけで──」

「だってちょくちょく電話が来るんだもの。しょうがないじゃない」

「人に金を借りるんじゃない」と父は口を挟んだが、弟は答えなかった。

「あんたにもそろそろ同窓会の連絡が来るんじゃないの? やっぱりお兄ちゃんのときも──」

「うるさいな。同窓会なんて行くもんかよ」と弟が突っぱねた。

「葬式の日くらい仲良くしなさい」その声は父らしい威厳を求めようとしたが、うまくいかなかった。「それで結局、飲み物はいいのか? どうなんだよ」

「葬式の日くらい説教されずにいたいね」と負けずに弟が言い張った。

「やっぱりちょっと寄って行こう」埒が明かなかったので僕が提案した。「その先に酒屋があるから、なにかそこで」

 家からまだ五キロも離れていないというのに、みんな段々と不機嫌になっていた。酒屋に着くと弟と母親だけが車を降り、僕は父といっしょに車の中に残った。別の車が我々の車のすぐ横につけ、中に乗っている人間たちの服を見て誰かが死んだのだと悟った。父親はそれまでハンドルを指の先でとんとんと打ち鳴らし、思いつめたように前だけを向いていたのだが、突然くるりとこちらに振り向くと、シートに腕を置いて僕の顔を見た。

「あいつとはやっぱり仲が悪いのか?」といくぶん切り出しづらそうに父は言った。

「あいつって?」

 父親は顎の先を酒屋の方にちょっと動かした。弟のことを差しているのだ。

「別に」と僕は答えた。「そんなことはないけど、全然」

 でも僕の答えなんて、父はどうでもいいみたいだった。父親としての尊厳を、せめて僕の前だけででも示しておきたいらしい。

「一体いつから親にあんな態度をとるようになったんだかな」父は首をひねり、それらしい理屈を持ち出してきた。「やっぱり高校を辞めてからか」

 ずいぶんと古い話を原因にこじつけるものだなと思いながら、父の自負心を納得させるために相槌を打った。弟が買い物袋を持って戻ってくると、父親はなにごともなかったようにまた前を向いた。母が袋の中から好きなものを選べと言うので、僕は冷えたレモン・ティーを手にとった。そのうちのひとつ、いかにも甘ったるいコーヒー牛乳は全員が車を降りたあとも後部座席の端に置き去りにされ、誰にも見向きもされぬままぐっしょりと葡萄のような水滴を身につけることになった。

「どうせならうちに住めばいいのに」母はひとりごとのように言ったあと、くるりとこちらに振り向いた。それから同意を求めるように父親を見る。またぞろ例の実のない議論を繰り返そうというのだ。「ねえ、そうじゃない? 月々七万円も家賃を払うなんて馬鹿らしいったらありゃしない」

 父はどちらともとれる、首を少しうつむけた程度の相槌を打って、バックミラー越しに僕と目を合わせた。「帰るときに今度こそちゃんと住所を書いておきなさい」

「それでまた冷蔵庫のドアに貼るんだ。ペンギンの磁石をくっつけてさ」と弟が冷やかしを送ったが、それについては誰もなにも言わなかった。

「うちに帰ってくればいいのに」としつこく母が言った。「それで家賃の分をうちに入れてくれれば──なにも七万円も入れて欲しいって言うんじゃなくてよ。それでも──」

「こっちに住む気はないよ。もうあきらめて」

「どうして」

「仕事を変えたくない」と僕は言った。

「うちからだって十分通える距離じゃない」

「そんなどうしてわざわざ仕事場から遠ざからなくちゃいけないんだよ」と僕はほとんど吹き出しながらそう言った。

「だから家賃が浮くでしょうが」

 どう返そうと切りがない。僕は苛立ち始めていた。

「ねえ、とにかくうちには住みたくないんだよ」と僕は荒っぽく声を上げた。そのときはとても話のだしに使われる気分ではなかったから。「誰にも干渉されたくないし、ひとりが好きなの。こっちにいたらまたつまらない連中につきまとわれる羽目になるかもしれないだろう? 昔は仲が良かったけど、いまは本当に軽蔑してるんだから」僕は額に手を置いて、ゆっくりと深いため息をついた。「ああ、まったく。お願いだからこんなこと言わせないでくれないかな」

「お母さんもいい加減にしときなさい」と父が割って入った。「相手はもう子供じゃないんだから」

「だって」と言いかけるが、そこで口をつぐむ。「その方がこれから先色々と──」

「ねえ、そこ左だろう」と弟が出し抜けに声を発した。「葬儀場の看板が出てる」

 車は急いでハンドルを切って交差点を左に折れた。そのときちょうど薬局の駐車場から出る車と鉢合わせて、クラクションが辺りにやかましく鳴り響いた。一瞬ひやっとした空気が車内に下りた。みんながみんな平常心を欠いていた。

「もう、びっくりした!」と悲鳴に似た声で母が叫び、驚きのあまり胸に手を置いた。「お父さんもなんでそんな運転するの」

「もう誰もなにも話すな」と父親は冷ややかに言ったが、声は震えていた。「次に誰か口を開いたら、車から放り出してやる」

「やれやれ」

 父はきっとした目で弟を見たが、元のように運転に意識を集中した。

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