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第三章 僕と先生のこと(5)

***


 時生と春日井は共に夜の浜辺を歩く。明かりはただのひとつもない。潮騒が聞こえる。もうすぐ夏も終わり、これから秋がやってくる。この潮騒も、夏の音として聞くことができるのはあと数週間もないだろう。

 二人は今まで履いていた草履を脱いでいる。素足に感じる荒い砂の感触が、妙に心地良い。やや湿っぽいのは、先程まで降り続いていた雨のせいだ。今はすっかり止んでしまい、湿った空気がそこに残るだけとなっている。

 海から押し寄せてくる飛沫は白く、こんなにも離れた場所を歩いている彼らのところまでもやってくる。塩気を帯びた風が肌にまとわりつき、爽やかなべたつきを残して去ってゆく。

「先生」

 突然時生が春日井を呼んだ。「――先生は、戦争に行ってしまうのですか」

 うん? と当の春日井は首を(もた)げ、それからあからさまに眉間に皺を寄せた。

「どういう意味だね? もし召集が来たとしても、君の方が先に行ってしまうだろうに。何せ君は若い」

「いえ、そういうことではなく。『夜光魚』のことです」

 そう、時生はそれが気がかりだったのである。荻野が言っていた夜光魚の軍事利用の恐れ。あれがもし本当ならば、研究がある程度進んだ時点で春日井は東京へ向かわなければならないだろう。彼と離れるのも厭だが、彼の研究がそういうものに使われるのはもっと厭だと時生は思うのだ。

 春日井はなるほどね、と曖昧に頷いて、

「大丈夫。あの魚はそういう用途には使えない」

 と態度とは裏腹にはっきりと明言したのだった。

「本当ですか!」

「というか、その話は荻野から聞いたのか? まったく、あいつは口が軽いから困ったものだ……」

 そして、春日井はふぅっと長い息を吐き出したのだった。「あの魚の光は、常に綺麗な淡水の中でしか生まれない。前線で使用するなど言語道断だ。それだけは分かった。そもそも、あれは不可解なところが多すぎる。どんなに実用化しようとしても、こちらの科学力の限界というものがあるだろうね」

「そうか……よかった」

 ようやく安心して、時生は笑った。とにかく、春日井もあの夜光魚も、そう言った意味での危険に晒されることは免れたのである。それだけでいいと、彼は思った。

 彼が生きてくれるなら。皐月のように、突然いなくなったりしないのなら。

 時生、と春日井が笑う。

「ちょっとした昔話をしよう。――皐月さんはね、海を見たことがないのだそうだ。こんなにも近くに住んでいたのにね。どうして? と尋ねたら、あの方はなんて言ったと思う?」

 絶妙に奇妙な謎かけだった。時生は「え」と声を洩らしたのち、生前の彼女ならどう考えるだろうかと必死に考えを巡らせている。その間、春日井はぴたりと足を止め、首をひねっている時生を眺めていた。そして、微笑ましいとでも思ったのだろう。ふっと口の端を緩ませた。生憎、時生は気が付いていなかったが。

「ええと……毎日、遠くから見えるから?」

「否。初めに海を見るときは、絶対に弟と一緒じゃなきゃ厭だと言い張った。あの方は、わたしより弟を優先していたよ。何をするにも、常に」

 時生は思いもよらぬ解答に目を瞠ったまま、その言葉を胸の奥でじっと噛みしめる。どんなに離れて暮らしていようとも、やはり皐月は皐月だったのだ。時生が知る、やや大げさすぎるきらいはあったけれど弟思いの姉。脳裏に彼女が笑う姿がぼんやりと浮かんだ。蜃気楼のようだ、と時生は思う。それはきっと今だから回想できる姿で、きっとこの先はどんどん薄れていってしまう。掴もうとしても決して届かない、あのひとは。

 あのひとの姿は、

 胸の奥で密やかに揺らいで見えた。

「僕は、覚えていられるでしょうか」

 春日井は首を振り、とん、と時生の胸を軽く叩いた。

「あの方はいつでもここにいるだろう。今も、これから先も。覚える云々の話じゃない」

 時生が仰いだ春日井の表情は、夜闇に混ざり合いよく見えない。しかし、きっといつも以上に穏やかな顔なのだろうと思う。その暗い色の瞳には、時生ともうひとり、彼ととてもよく似た女性が映っている。

 少し前の時生ならば、その微笑みは己に向けられたものではないのだとひどく絶望していたことだろう。しかし、今はきちんと全てを消化し切ってしまった。それでいいと思えるようになった。

 そしてこれが改めて気付いたことでもある。

 僕は、いつまでも姉を好きでいる先生が好きなのだ、と。

 だから確かめておきたかった。核心に触れる、たったひとつの問いかけを、彼に。

「――先生はまだ、姉様のことを好きですか」

 時生がそう言うと、春日井は一度目を見開いたが、ややあって首を縦に動かした。

「時生。わたしは皐月さんを、まだ好きでいていいのだろうか」

「好きでいてください」

 春日井の言葉を遮るように、時生の声が紡がれてゆく。

「頼むから……好きでいてください。ずっと、一生離さないでいてあげてほしい。そして、一番でなくてもいいから、たまには僕のことも見てください」

 それが僕の願いです、と言葉を締めくくり、時生は再び歩き出す。春日井に背を向けたまま、砂浜の感触を足の裏でしっかりと確かめるように。柔らかな砂は、点々と足跡を残してゆく。白い波がこちらまで打ち寄せて来た。冷たい水が、足跡も、何もかも流してゆく。そこに残るのは、時生と、春日井だ。

 先を行く時生のあとに春日井が続く。……かと思ったら、突然時生の身体が動かなくなった。背後から抱きしめられたのだ。ぎゅっと強く、必死に繋ぎとめるように。

「せん……」

「一生、離さないから。君もあの方も」

 耳元で吐き出した彼の言葉を、一生、忘れることはないだろう。時生は心からそう思ったのだった。

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