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第三章 僕と先生のこと(3)

 耐えかねて先に沈黙を破ったのは荻野だった。先程とは比べ物にならないくらいに優しい声色で時生に語りかけてやる。

「行きなさい。直接確かめてくるといい」

 時生はただじっと黙りこんだまま、唇を噛みしめていた。そして、否、と首を横に振る。彼の視界の片隅で、全く減っていない珈琲が白い容器の中で微かに揺れていた。

「行けない……」

「君が気にしているのは、皐月さんのことかな」

 時生ははっとして、荻野を見た。彼は口調の温かさとは真逆の、冷ややかな目をこちらに向けていた。この目の色は知っている。かつて春日井が一瞬だけ見せた獰猛な眸。それと紛うような目を、彼は容赦なく時生に突きつけていた。

「死んだ恋人を思って何が悪い。むしろすっぱりと忘れる人間の方が信じられないな。そりゃあ、私も君に初めて会った時、こんなに似ているものかと思ったけれど。それでも、やっぱり違うよ。春日井は君と皐月さんを一緒にしてはいない。証拠がある、私は知っている」

「……しょう、こ?」

「ああ。春日井は、皐月さんに自分の仕事についての一切を見せなかった。勿論、君と状況が違うからかもしれないが。それについて聞いてみたら、あの人ははっきりと言ったよ。『時生には、全て分かっていてもらいたい。わたしが考えていることも、全部。あれにはそれを受け入れる力がある。単なる甘えかもしれないが』ってさ」

 この時、二人が見せた眸の獰猛さの正体が何となく分かった気がした。

 時生は呆気に取られたまま、荻野の濃茶色の瞳を見つめていた。目が離せなかった。思考がどこか吹っ飛んでしまったようで、それでも時生の頭の中では警鐘を鳴らすかのように強く哮るものがある。先生、と。

「――僕、ちょっと用事を思い出しました。あっ、こーひー、ごちそうさまでした」

「いえいえ」

 春日井によろしくね、と荻野は手を振り、そして時生の背を押してくれた。

 彼らの瞳の獰猛さの正体は――本心を曝け出すことへの不安、それから覚悟だったのだ。

 店に入る前から雲行きが怪しいと思っていたが、時生が店を出た途端に雨が降り始めた。それも小雨などではなく、まるで盥を勢いよくひっくり返してしまったかのような大雨である。生憎、時生は傘を持っていなかった。雨宿りをしようにも、この雨がいつ止むか分からない以上そう悠長に構えてもいられない。それよりも早く行かなくてはという焦りにも似た気持ちが彼を急きたてていた。だからすぐに結論は出た。時生はそのまま濡れることを選択したのだった。

 暗い空の下に飛び込むと、すぐに淡い色の(かすり)が湿って重くなる。下に襯衣を纏っているとはいえ、肌にひたりと張り付く感覚はかなり気持ちが悪い。しかしそんなことは、今はどうでもよかった。今更どういう顔で春日井に会えばいいのか正直よく分からない、しかしどうしても向かわずにはいられないのである。

 あともう少しで春日井の家に辿り着く。そこでぷつんと足に妙な違和感を覚え、右足が唐突に軽くなった。素足がぬかるみに突っ込んでゆく。一旦立ち止まり、時生は足元を見た。その嫌な予感の正体はすぐに分かった。下駄の鼻緒が切れたのである。

 こんな時に、と時生は悪態をつきながら遠くにすっ飛んだ下駄を拾い上げた。右足に何だか違和感があった。雨粒がやたら痛いのである。ふと見遣ると、右足に血がにじんでいることに気がつく。どうやら先程ぬかるみに足を突っ込んでしまったときに、石か何かですりむいてしまったらしい。

 こういうものは不思議なことに、気付いた途端に痛みが増す。ずきりと熱を孕んだ痛みが脈打つ。濡れてしまうが、少しだけ休んだ方がよさそうだ。

 時生はとりあえず邪魔にならぬよう道の端に寄ろうとしたが、その時、あることに気が付いた。

 ――頭上から水が、降ってこないのだ。

 はっとして見上げると、そこにはいつもの墨色の着流しを纏った春日井が傘を片手に見下ろしていた。一週間前に会った時よりも多少痩せているし髭も剃った形跡がまるでなかったが、特段怒ってもいないようだった。どきりとして、時生は思わず身を固くする。

「君。まるで捨て猫みたいじゃないか」

 無表情のまま春日井は言う。「ああ……、足を怪我しているのか」

「先生。どうして……」

 その問いには答えなかった。代わりに首を横に振ったので、おそらくただの散歩だと言いたいらしい。嘘だ、と時生は思う。その証拠に、彼が持っている傘は全部で二本。そもそも、基本的に出歩かない春日井がこんな土砂降りの中散歩をしようという方がおかしいのである。

「風邪をひく。来なさい」

 時生が躊躇っていると、さすがの春日井も焦れたのか、時生の腕を強く引いた。そして無理やり立たせると、その広い背中にひょいと担ぎあげてしまった。その状態ではさすがに傘は差せないので、時生の右手に握らせながら。時生がいくら小柄といえどさすがに重いのか、春日井は時折ふらつきながら元来た道を戻り始めた。

 時生はそのまま春日井の背に耳を付け、じっと耳を澄ました。雨音に混ざる体液の音。ゆるゆるとした心地良い音だ。ふっと目を閉じると、重い身体が突然軽くなったような気がした。

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