死んだ弟
「秋範、此処に置いておくから食べてね。おかずは冷蔵庫の中」
木崎萌香は、白飯の乗った器をテーブルの上に置いてから言った。
自分はおかずを中に包んで丸めたおにぎりを急いで咀嚼し、慌ただしく身支度を整える。
秋範の為に用意した朝食は、今日も帰宅後に萌香自身が食べることになるが、仕事終わりに献立を考える必要もなく、ある意味楽だった。
「じゃ、私は仕事行ってくるから」
行ってきます、と部屋の中に声を掛け、急ぎ足で外へ出る。昨夜見た映画があまりに面白かった興奮でなかなか寝付けず、今朝は少しだけ寝坊してしまった。
頬を撫でる風が、随分と冷たさを増したのを感じながら、萌香は駅までの道を急いだ。
一人暮らしの萌香の住まいに居座っている秋範は、一昨年死んだ弟だ。
死んだ筈だった。
あまりに早い弟の死に、当然萌香は苦しみ、悲しんだ。それでも時を経るにつれ、日常の中に悲しみは溶け込んでいった。元々家を出てから顔を合わせることも少なくなっていたのだ。とはいえ、兄弟の死というものは、あまりにも耐えがたいものだった。
ある時、ふとしたことをきっかけに弟と過ごした日々を思い出し泣いていた所、涙を拭い視線を上げた先に秋範は立っていた。
「誰⁉」
部屋の中に突然現れた男の姿に、萌香は最初そう叫んでいた。
当然だろう。何の音もなく、インターホンを鳴らすでもなく、部屋の隅の暗がりに知らぬ間に気配だけがあったのだから。
そして、男の顔は潰れていたのだから。
秋範はバイク事故で亡くなった。
遺体は酷い状態だった。泣き崩れる母が止めるのを振りほどき、萌香は弟の潰れた顔──だったものを見た。
見たくなかった。でも、信じられなかった。一目見て「これは秋範じゃない」と言うつもりだった。
しかし、それを見た瞬間、嗚咽が漏れた。
認めてしまった。
それが、秋範だと。
潰れた顔……あまりに酷い状態だと、最早それはただの肉と骨でしかない。
そう認識してしまう自分に嫌悪感を抱いた。
弟──だったモノ。
暫くはその思いに囚われた。
しかし、それも薄れ、弟と過ごした日々に思いを馳せることが出来るようになった頃、突然男は現れた。
男はただ部屋の隅に立っているだけだった。
潰れた顔と薄汚れたシャツとジーンズ。
「秋範」
そう呼んだ瞬間、男の手がピクリと動いた気がした。
「秋範なのね? アンタ、何でそんな……何で、死ん……」
それが秋範だと判ってから、一度は治まっていた筈の悲しみや痛みが再び溢れ、萌香は泣いた。そうしている間にも、秋範は部屋の隅で立ち尽くしていた。その姿が、憎らしかった。でも、悲しくて、嬉しかった。死んだ癖に。
その日から、死んだ弟との奇妙な生活が始まった。
共に暮らすといっても、秋範はもう人間的な生活は送らない。食べないし、寝ないし、趣味の時間を過ごすこともない。時折姿が見えない時はあるが、それが出掛けているということなのかは判らない。喋らないから、幽霊的な価値観を知ることはなかった。
それでも、何処かでホッとしているような自分が居るのを萌香は意識していた。
もう死んでしまった弟。形は変わってしまったけれど、その先が存在していた。
幽霊なんて信じていなかった。だが、実際に目の前に現れると、こうもあっさり信じてしまうものなのだと、自分を可笑しく思う。
そうして、秋範に対して生者のような死者のような曖昧な扱いをしながら暮らしている。
萌香は、特に反論してこないことをいいことに、部屋に佇む弟に、死んでしまったことへの恨みや、日々の愚痴や楽しかったことを、生前よりも色々と話していった。
線香を焚き、食事を用意し、テレビ番組や映画などを見る時は、近くに来るように呼んだ。
秋範は、喋らないが聞こえているようで、意思表示はあまりしないものの呼べばある程度の場所までは移動する。ソファの隣に座ることはないし、顔が潰れているから実際の所テレビ番組などを〝見て〟いるのかは判らない。
それでも、良かった。
呼べば多少の反応はするのだから、秋範も思う所はあるのだろう。
死んでしまった弟との日々。歪な日々。
どうして現れたのか。
それはきっと無念からだろう。当たり前だ。死ぬには早すぎる。まだまだやりたいことがあっただろう。死の原因を作ったバイクだって、とても大切にしていたし、楽しそうだった。
流石に、母に秋範のことは言えなかった。
秋範が現れてすぐの頃は、随分と悩んだ。
秋範が死んでからは、今までよりもよく母と顔を合わせるようになっていた。実家に顔を出したり、出掛けたり、様々なことを話した。
皮肉なものだった。
弟の死が、家族の結びつきを深めてしまった。
母は「アンタも死ぬかもしれないと思うと不安で」と繰り返した。子が親より先に亡くなるのは、そう起き得ない、筈だ。誰でも頭の隅でそう思い込んでいる。それでも、それが起きる時は起きてしまう。自分の人生では起きないと思い込んでいる者の前に、それは突然現れる。
酷く動揺し、悲しみを深めていく母に、口が裂けても「顔の潰れた秋範が部屋に居る」とは言えなかった。父も、以前よりもずっと気が細くなった母の扱いに手を焼いているようだった。これ以上、負担はかけられなかった。
だから、秋範のことは誰にも話さなかった。
友人に話した所で、心配を掛けるだけだろう。
奇妙な生活を続ける内、すっかりそれにも慣れてしまっていた。職場でも、思わず秋範に話し掛けるつもりで独り言が増えてしまい、やはり秋範は死んでいるのだと実感する。
それでも、死んだのに存在している弟というものに、何処か支えられていた。
やはり、薄らごうが弟の死は耐え難い。それを誤魔化すことが出来る。
そんな生活が続いたある時から、秋範は指差しをして以前より意志表示をするようになった。
非常に緩慢な動きで萌香を指差し、次いで自分を指差す。
最初こそ何かを伝えたいのかと色々考えたが、指差し以外に何をするでもなく、考えても判らないので萌香は早々に考えるのを止めた。
自分の側に居てくれるのは嬉しい。支えにもなっている。しかし、弟なのだ。慣れてくると、生前のような扱いになる。
「もう、だから怖いから止めてって!」
時折、秋範が枕元にぼんやりと立っていることがあった。指を差すでもなく、ただぼんやりと。
弟とはいえ、顔の潰れた弟だ。
夜中に目を覚まして、暗い部屋の中に佇んでいられると、肝が冷える。
加えて、広くない家とはいえ、姉の寝顔を眺めるなんて悪趣味としか言いようがない。
他にも、秋範には奇妙な行動が増えていた。
萌香がソファに座っている時、その少し横を見つめることがある。キッチンに居る時、その少し後ろを見つめていることがある。目はないから、頭の向きでそう感じるのだが、そういう時に限って背筋に寒気を感じることがあって、不気味に感じていた。
「ねぇ、何か居るの? アンタ幽霊なんだから、追い払ったり出来ないの?」
そう訊ねても、秋範はぼんやりと佇むだけだ。
「まぁ、何も起きないならいいけどさ。そうやって無言で何も居ない所を見つめられると、私もちょっと不気味なんだけど」
秋範は、それでも佇むだけだった。
──アイツ、いつまで私の側に居るんだろう。
萌香はふとそう考えた。
姉弟とは、いつまでも一緒に居るものではない、筈だ。
秋範は死んでいる。人間としての生活は送っていけない。成長や老いは有り得ない。
だが、萌香の人生は続いていく。きっと近いうちに良い相手と出会い、結婚をし、子供を生むのだ。
今の所の萌香の人生設計はそうなっている。
ただ、そこに常に死んだ秋範が憑いて回るというのは、どうだろう。
喜ぶべきなのだろうか。
そもそも秋範は何に憑いているのだろう。職場など、外出中に秋範に会うことはない。実家に居てもそれは同じだった。では、萌香自身に憑いている訳ではないのか。それならば、この部屋を引っ越してしまったら、秋範は此の部屋に残るのか。
うぅん、と唸って首を捻ると、部屋の隅に佇んでいた秋範が、見透かしたようにゆっくりと萌香と自身を指差した。
「ハイハイ、アンタとは一緒に居てあげるよ。それにしても、死んでからもおねーちゃんと居たいなんて、変わった奴だよね。彼女とかさぁ、居なかったんだっけ?」
葬式には大勢の友人が訪れたが、そこに〝彼女〟は居たのだろうか。もしまだ付き合いが浅い彼女だったとしたら、萌香達遺族に「お付き合いしていました」と声を掛けるのは憚られただろう。
どちらにせよ、過ぎたことだった。
秋範が死んで、もう二年。
つい湿っぽくなりそうになったのを誤魔化し、萌香はソファから立ち上がった。
「じゃ、寝るから。おやすみ」
返事はない。秋範はもう寝ない。それでも、居る。
──まだ、いいか。
萌香は考えるのを止めにして、瞼を閉じた。
その夜、萌香の夢の中に、顔のある秋範が現れた。
「うわ、久し振りに顔見た」
思わず萌香はそう言っていた。
秋範は口をパクパクとさせて、指を差した。
「だから、その指差しって何なの? 今のアンタはちゃんと口もあるんだから、言葉で言いなさいよ」
そう言うと、秋範は困ったように眉を寄せ、必死に叫び始めた。
ぐわんぐわんと音が響く。
それは、まるでラジオの周波数を合わせるかのように途切れて聞こえ、それを繰り返すうちに突然クリアに秋範の声が届いた。
「違う!」
あまりの声の大きさに、ハッと意識が覚醒する。
薄ぼんやりとカーテン越しに明るく照らされる部屋の中で、秋範が立っている。
顔のない秋範。
顔のある秋範が叫んだ「違う」。
──違うって、何が? ちゃんとそれまで言わないと判らないじゃない。
「もう、だから、枕元に立たないでよ──って……」
目の前の秋範は、萌香の少し横を見ている。ゾッと寒気がする。それと同時に違う種類の寒気、いや、恐怖が身の内を駆け抜けた。
〝違う〟
何が? 何が違うの、秋範。
アンタは、何を伝えようとしているの。
顔のない男は、今日も佇んでいる。




