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「君の隣で、私も揺れている」番外編

満ちては欠ける、月の下で

掲載日:2025/10/19

 秋の夜――

 街の明かりは濡れた歩道に滲み、冷たい雨が小さく音を立てていた。

 私は駅前の軒下で空を見上げる。

 薄くかすんだ月が、雲の隙間から覗いていた。


「……今日も、ちゃんと見えてるのね」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 その声を拾うように、背後から落ち着いた声が返ってきた。


「夜更かしだな。風邪ひくぞ」


 振り返ると、彼――(げん)くんが立っていた。

 コートの肩には雨粒がいくつも光っている。

 いつもの穏やかな笑顔。それなのに、今夜はなぜか距離が遠く感じた。


「……こんな時間まで?」

「職員会議が長引いてね。凛々子(りりこ)さんは?」

「……ただ、帰りたくなくて」


 声が小さくなってしまい、雨に消えそうだった。

 沈黙のあと、彼が小さく頷く。

 それ以上、理由を聞こうとしないその優しさが、時々つらくなる。


「凛々子さん」

「はい」

「あなたは……誰かに、支えてもらってるか?」

「え?」


 突然の問い。

 けれど、その声の奥にあるものが――私にはわかる気がした。


 息をつく暇もなく、慌ただしく過ぎゆく日々。

 最近は季節を感じることすら、忘れていた。


 だけど夜に外出したとき、気づいたら月を探していた。

 落ち着いた光が街中だけでなく、自分のことも優しく見守ってくれるような気がしたから。


「……弦くんは、誰かに支えてもらってるの?」

 問い返すと、彼はわずかに目を伏せた。

 雨音が、二人の間を遮るように流れていく。


「俺は――不器用だからな。いつも“支える側”で終わってしまう」

「……私も。誰かを頼るのが下手で、強がってばかり」


 ふっと笑い合う。

 それだけで少し温かくなるのに、なぜか胸の奥が痛かった。


 少し風が強くなり、髪が頬にかかる。

 それを彼がそっと指で払った。

 あなたの手の温もりに、言葉が溶けていく。


「弦くん」

「ん?」

「……月が綺麗ですね」


 見上げた空――

 雲の切れ間から覗いた月は、淡く、優しかった。


「本当に綺麗だな」

 彼は何も気づかないまま、静かに頷いた。

 横顔が月明かりに照らされているのに、表情がわからない。


 その瞬間、気づかされる。

 ――この想いは、届かない。

 言葉にすれば壊れてしまうほどの繊細な距離に、私たちは立っている。


 本当の意味を言おうか。

 だけど、もし拒まれたらどうしよう。

 その思いが心を蝕んでいく――満ちたはずの月が欠けていくように。


 雨が弱まり、街が夜の静けさを取り戻していく。

 音が遠ざかるように、心のざわめきも静まっていった。

 別れ際、私は精一杯の微笑みを見せる。


「弦くん。風邪、ひかないでね」

「凛々子さんも……気をつけて」


 そう言って、彼は傘を差し出した。

 傘越しに見える彼の手。

 その手に触れたい――でも、触れるのが怖い。


「ありがとう。でも、大丈夫だから」

 傘には入らず軽く頭を下げて、私は背を向けた。


 歩き出してから、涙がひと粒こぼれた。

 きっと冷たい雨のせいなんだ。

 でも雨のせいにできるほど、私は強くいられない。


 背中越しに彼の声が小さく聞こえる。

「凛々子さん……」

 けれど、その続きを言う前に、夜風がすべてをさらっていった。


 月は静かに、雲の合間で光っている。

 “月が綺麗ですね”――その意味を、彼が知る日は、まだ遠いのかな。



 ※※※

 


 冬の夜。

 街路樹のイルミネーションが小さく瞬き、吐く息が白く溶けていく。

 あの雨の日から、どれほどの時間が経ったのだろう。

 私は仕事帰りの歩道橋で足を止め、凍えた手をポケットに入れる。


 見上げた夜空には、雲ひとつない月。

 それは、あの夜と同じ光を放っていた。


 彼と会わなくなって、数ヶ月。

 もうあの人の隣に立つ資格なんて、ないと思っていた。

 それでも――どうしても忘れられなかった。


 いつか、この月のように、身も心も満たされる日が――来るのだろうか。


 そのとき、背後から声がした。


「……やっぱり、見ていたんだな」


 振り向くと、そこに彼が立っていた。

 黒のコートにマフラー。

 白い息が月明かりに揺れ、優しい笑みが浮かんでいた。


「弦くん……どうしてここに?」

「偶然だよ。いや――もしかしたら、あなたを探してたのかもしれない」


 その言葉に、胸の奥が静かに震える。


「相変わらずなんだから、いつも真っ直ぐで」

「真っ直ぐすぎて、遠回りばかりしてきたけどな」


 二人の間に、小さな沈黙が落ちた。

 耳に、電車の音と冬風の唸りが交じる。


 この出会いは偶然なのだろうか。

 月に引き寄せられるような気がしたのは、私だけなのかな。

 

「前に凛々子さんが言った言葉……“月が綺麗ですね”。覚えてるよ」

 低くて穏やかな声が私を包み込む。

 あの夜が頭に浮かび、胸の奥が詰まる。


 彼はふっと目を細めた。

「知ってたんだ、その意味を」

「え?」

「漱石が『I love you』をそう訳したって話。教師だから、当然だよな」


 ――彼は、知っていた。

 そう考えると、急に恥ずかしくなってきた。

 

「じゃあ、どうして……何も言わなかったの?」


 その問いに、彼は少し間を置いて答えた。


「……あの時は、ただ綺麗だと思っただけなんだ。けれど今になって、その言葉の“重さ”がやっとわかった。“好き”なんて軽く言えないほど、凛々子さんが特別だったんだ」


 風が通り抜ける。

 彼の瞳が、まっすぐに私を映していた。


「だから今度は、ちゃんと伝えたい」


 彼は一歩近づき、私の頬に触れた。

 その手は冷たく、それでも確かな温もりを宿している。


「凛々子さん」

「はい」

 

「月が綺麗ですね」


 その一言が、夜空よりも静かに心へ降りてきた。

 声にならない想いが、胸の奥で音を立ててほどけていく。


「……ずるい人」

「ようやく気づいたか?」

「もう、とっくに……」


 私は笑いながら、涙を拭った。

 彼の腕にそっと寄り添う。


「ねぇ、あの時の私も……同じことを思ってたんだから」

「知ってる……言葉にしてもらえて嬉しかった」


 月が二人を照らす。

 白い光が髪に触れ、頬まで染めていく。

 遠くの車の音も、通り過ぎる風も、すべてがやわらかかった。


「……あなたのこと、ずっと想っていてもいいの?」

「もちろん。じゃないと困るから」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 彼の手に自分の手を委ねる。

 指と指が絡んだ瞬間、月光がふたりの影をひとつに溶かした。


 私は空を見上げ、静かに囁いた。

「ねぇ弦くん、今夜の月も……綺麗ですね」


 その言葉に彼は頷き、ふわりと抱き寄せられた。

 互いの鼓動が、冬の空気をあたためていく。


 月の光よりも煌めいていて、月よりも満ちたこの想い。

 やっとあなたに届いた――

 ぬくもりに抱かれて、いつまでもこのままでいたい。


 あの日の私が願った「いつか」は、今夜、この光の下で叶った。

 月のように、あなたが私を満たしてくれる。

 

 けれど――この物語は、まだ終わらない。

 満ちては欠ける月のように、これからも何度でも、永遠にあなたと想いを満たしていく。







 終わり

 

 

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