満ちては欠ける、月の下で
秋の夜――
街の明かりは濡れた歩道に滲み、冷たい雨が小さく音を立てていた。
私は駅前の軒下で空を見上げる。
薄くかすんだ月が、雲の隙間から覗いていた。
「……今日も、ちゃんと見えてるのね」
自分に言い聞かせるように呟く。
その声を拾うように、背後から落ち着いた声が返ってきた。
「夜更かしだな。風邪ひくぞ」
振り返ると、彼――弦くんが立っていた。
コートの肩には雨粒がいくつも光っている。
いつもの穏やかな笑顔。それなのに、今夜はなぜか距離が遠く感じた。
「……こんな時間まで?」
「職員会議が長引いてね。凛々子さんは?」
「……ただ、帰りたくなくて」
声が小さくなってしまい、雨に消えそうだった。
沈黙のあと、彼が小さく頷く。
それ以上、理由を聞こうとしないその優しさが、時々つらくなる。
「凛々子さん」
「はい」
「あなたは……誰かに、支えてもらってるか?」
「え?」
突然の問い。
けれど、その声の奥にあるものが――私にはわかる気がした。
息をつく暇もなく、慌ただしく過ぎゆく日々。
最近は季節を感じることすら、忘れていた。
だけど夜に外出したとき、気づいたら月を探していた。
落ち着いた光が街中だけでなく、自分のことも優しく見守ってくれるような気がしたから。
「……弦くんは、誰かに支えてもらってるの?」
問い返すと、彼はわずかに目を伏せた。
雨音が、二人の間を遮るように流れていく。
「俺は――不器用だからな。いつも“支える側”で終わってしまう」
「……私も。誰かを頼るのが下手で、強がってばかり」
ふっと笑い合う。
それだけで少し温かくなるのに、なぜか胸の奥が痛かった。
少し風が強くなり、髪が頬にかかる。
それを彼がそっと指で払った。
あなたの手の温もりに、言葉が溶けていく。
「弦くん」
「ん?」
「……月が綺麗ですね」
見上げた空――
雲の切れ間から覗いた月は、淡く、優しかった。
「本当に綺麗だな」
彼は何も気づかないまま、静かに頷いた。
横顔が月明かりに照らされているのに、表情がわからない。
その瞬間、気づかされる。
――この想いは、届かない。
言葉にすれば壊れてしまうほどの繊細な距離に、私たちは立っている。
本当の意味を言おうか。
だけど、もし拒まれたらどうしよう。
その思いが心を蝕んでいく――満ちたはずの月が欠けていくように。
雨が弱まり、街が夜の静けさを取り戻していく。
音が遠ざかるように、心のざわめきも静まっていった。
別れ際、私は精一杯の微笑みを見せる。
「弦くん。風邪、ひかないでね」
「凛々子さんも……気をつけて」
そう言って、彼は傘を差し出した。
傘越しに見える彼の手。
その手に触れたい――でも、触れるのが怖い。
「ありがとう。でも、大丈夫だから」
傘には入らず軽く頭を下げて、私は背を向けた。
歩き出してから、涙がひと粒こぼれた。
きっと冷たい雨のせいなんだ。
でも雨のせいにできるほど、私は強くいられない。
背中越しに彼の声が小さく聞こえる。
「凛々子さん……」
けれど、その続きを言う前に、夜風がすべてをさらっていった。
月は静かに、雲の合間で光っている。
“月が綺麗ですね”――その意味を、彼が知る日は、まだ遠いのかな。
※※※
冬の夜。
街路樹のイルミネーションが小さく瞬き、吐く息が白く溶けていく。
あの雨の日から、どれほどの時間が経ったのだろう。
私は仕事帰りの歩道橋で足を止め、凍えた手をポケットに入れる。
見上げた夜空には、雲ひとつない月。
それは、あの夜と同じ光を放っていた。
彼と会わなくなって、数ヶ月。
もうあの人の隣に立つ資格なんて、ないと思っていた。
それでも――どうしても忘れられなかった。
いつか、この月のように、身も心も満たされる日が――来るのだろうか。
そのとき、背後から声がした。
「……やっぱり、見ていたんだな」
振り向くと、そこに彼が立っていた。
黒のコートにマフラー。
白い息が月明かりに揺れ、優しい笑みが浮かんでいた。
「弦くん……どうしてここに?」
「偶然だよ。いや――もしかしたら、あなたを探してたのかもしれない」
その言葉に、胸の奥が静かに震える。
「相変わらずなんだから、いつも真っ直ぐで」
「真っ直ぐすぎて、遠回りばかりしてきたけどな」
二人の間に、小さな沈黙が落ちた。
耳に、電車の音と冬風の唸りが交じる。
この出会いは偶然なのだろうか。
月に引き寄せられるような気がしたのは、私だけなのかな。
「前に凛々子さんが言った言葉……“月が綺麗ですね”。覚えてるよ」
低くて穏やかな声が私を包み込む。
あの夜が頭に浮かび、胸の奥が詰まる。
彼はふっと目を細めた。
「知ってたんだ、その意味を」
「え?」
「漱石が『I love you』をそう訳したって話。教師だから、当然だよな」
――彼は、知っていた。
そう考えると、急に恥ずかしくなってきた。
「じゃあ、どうして……何も言わなかったの?」
その問いに、彼は少し間を置いて答えた。
「……あの時は、ただ綺麗だと思っただけなんだ。けれど今になって、その言葉の“重さ”がやっとわかった。“好き”なんて軽く言えないほど、凛々子さんが特別だったんだ」
風が通り抜ける。
彼の瞳が、まっすぐに私を映していた。
「だから今度は、ちゃんと伝えたい」
彼は一歩近づき、私の頬に触れた。
その手は冷たく、それでも確かな温もりを宿している。
「凛々子さん」
「はい」
「月が綺麗ですね」
その一言が、夜空よりも静かに心へ降りてきた。
声にならない想いが、胸の奥で音を立ててほどけていく。
「……ずるい人」
「ようやく気づいたか?」
「もう、とっくに……」
私は笑いながら、涙を拭った。
彼の腕にそっと寄り添う。
「ねぇ、あの時の私も……同じことを思ってたんだから」
「知ってる……言葉にしてもらえて嬉しかった」
月が二人を照らす。
白い光が髪に触れ、頬まで染めていく。
遠くの車の音も、通り過ぎる風も、すべてがやわらかかった。
「……あなたのこと、ずっと想っていてもいいの?」
「もちろん。じゃないと困るから」
その言葉に、胸が熱くなった。
彼の手に自分の手を委ねる。
指と指が絡んだ瞬間、月光がふたりの影をひとつに溶かした。
私は空を見上げ、静かに囁いた。
「ねぇ弦くん、今夜の月も……綺麗ですね」
その言葉に彼は頷き、ふわりと抱き寄せられた。
互いの鼓動が、冬の空気をあたためていく。
月の光よりも煌めいていて、月よりも満ちたこの想い。
やっとあなたに届いた――
ぬくもりに抱かれて、いつまでもこのままでいたい。
あの日の私が願った「いつか」は、今夜、この光の下で叶った。
月のように、あなたが私を満たしてくれる。
けれど――この物語は、まだ終わらない。
満ちては欠ける月のように、これからも何度でも、永遠にあなたと想いを満たしていく。
終わり




