第5章10話
朝の光がルーの街を包み込んでいる。
頭上で犬神の旗が風にひるがえる。
一颯は矢杜衆詰め所の屋根の上から、街を見下ろす。
あちらこちらを人や荷車が行き交っている。市場が開き、街が動き出す時間だ。
耳に装着したヘッドセットから、現場を確認しろとの指示が入る。
一颯は、唯一、家族が残してくれた長刀を背中に帯刀すると、太陽の方角を見据えた。アカギとの国境を為す山々を捉える。
「どうかご無事で。早まった真似はしないでくださいね、先輩」
小さく祈るように唱える。
一颯の黒い長衣が一線を描きながら、小さな祈りと共に東の空へと消えていく。
「やっぱりいいですねぇ〜、ここは落ち着きます」
「お茶どうぞ」
「ありがとう」
湯飲みから立ち上る湯気が鼻先をしっとりと濡らすと、祈織は目を細める。
『一緒に行方不明になってくれますか?』
祈織がそう告げてから、小一時間が経っている。
祈織の身体は大きな怪我こそなかったが、衣服は然の血を吸って紅く染まり、体力的にも限界だった。まずは身体を休められる場所と策を立てる時間を必要とした。
どこへ身を隠すのかと思えば、祈織が提案したのは真鳥の家だった。
街では目立ちすぎるし、山中では再び襲撃されたときの備えも十分にできない。北の杜の入口付近にある真鳥の家は、人気はないし備えもできる。最適だった。
身を隠すのに自宅とは大胆な策だが、昔から祈織を知る真鳥は彼が考えそうなことだと口元を緩める。
「父のですけど、サイズは大丈夫ですか?」
真鳥は家に着くや否や、祈織を風呂場に追いやった。着替えは父が使っていた矢杜衆の戦闘服を用意しておいた。
「ぴったりです。これ、華暖のですよね」
「はい。オレのは洗濯中で〜。すいません、古いので」
「いいえ、充分です」
祈織がその袖を撫でる。
華暖を懐かしんでいるのか、あるいは矢杜衆の戦闘服を懐かしんでいるのか、真鳥にはわからない。
庭で鳥が鳴く。
種類はわからないが、毎朝、騒々しいほどに騒ぐ鳥だ。朝のほんの一時、八束家の庭で何羽かが戯れ、昼前にはいなくなってしまう。
「あの鳥、変わってないですね」
祈織は縁側の方へ視線を向ける。
「あのうるさいやつですか?」
「昔、この家によく集まっていた頃のことです。夜通し騒いで、朝、寝入ったところをあれに叩き起こされました」
「起こされていたのは、長と臨也さんでしょう? あなたとうちの父は熟睡してましたよ」
「あの二人は繊細過ぎるんですよ。身体はクマみたいに大きなくせに、神経はウサギ並みです」
臨也と瑛至の二人がたびたびバディからやり込められていた場面を、真鳥は見かけている。口では絶対に敵わないと、いつか臨也がこぼしていたのを思い出す。
「実は、オレもそう思ってました」
真鳥が笑うと、祈織も楽しそうに笑う。
瑛至や臨也が本当にウサギ並みの神経の持ち主かといえば、それは違う。
彼らがそんな一面を見せるのは、重い任務から解放され、気を許した仲間と集うほんの短い時間だけだということを真鳥は知っている。
そんな短い時間を、真鳥もまた共有していたからだ。
「やっぱり、君はぜんぶ覚えているんですね」
祈織の言わんとしていることはすぐに理解できた。
真鳥を知る者が真鳥を忘れても、真鳥自身はすべてを覚えているのか、ということだ。
「あ、あ〜、はい」
真鳥は銀の髪に手を突っ込むとくしゃりと掻く。真鳥が返答に困ったときに良くやる仕草だ。
「本当はもっと前に会いたかったのですが、瑛至が中々、会わせてくれなくて」
「犬神憑きなんて珍しいですからね〜、新聞にまで騒がれちゃいましたし」
真鳥はいつもの調子でへらりと笑う。
「あいつ、クロウですけど、オレが困ってるとこ見るのが趣味だって言って纏わり付いてくるんですよ。でも何故かイトゥラルの前では犬のフリしたりして。ほんと、悪趣味なんですよ〜。あ、この会話もきっとその辺で聞いてますよ」
真鳥が軽くおどけて話す。
その様を見ていた祈織が湯呑みをことんと卓袱台に置く。
自分をじっと見つめる祈織の視線に、真鳥が不思議そうに首を傾げる。
「え〜と、喋りすぎました? オレ」
祈織は無言のまま、首を振って否定する。真鳥は困ったようにまた髪に手をやる。
相変わらず鳥たちは賑やかに騒ぎ立て、庭の木の枝を揺らしている。全体的に茶色っぽい羽だが、胸のところが白く、雀よりも少し大きめの鳥だ。手持ちぶさたにその数を数えてみると七匹もいた。細い枝が頼りなさそうに撓む。
「真鳥」
祈織が初めて真鳥の名を呼ぶ。
昔、まだ真鳥の父が生きていて、臨也が父のバディで、瑛至や祈織たちと集っていた頃と同じ声だ。
真鳥の修業に付き合ってくれていた時のように、どこか鋭さを含んでいた。自然と姿勢を正し、真鳥は次の言葉を待つ。
「この一年、君はそうやって笑っていたの?」
「あ〜」
すぐに言葉を返したかった。返すべきだった。
いつものようにへらりと笑って、なんでもない事のように流す。返答に詰まってしまったら、同情を誘ってしまう。それではだめなのだ。
これは、一颯の命と引き替えに、自分が選んだことなのだから。
哀れまれてはならない。
憂いてはならない。
そう心に刻んだ。
だから真鳥はたいてい笑っている。一年前のあの日以前よりも、もっと沢山、笑っている。
誰も自分を覚えていないことなんて、なんでもないことにして。
もう一度、「初めまして」から始めればいいのだと自分に言い聞かせて。
実際にこれまでの一年で出会った者からは、同情よりは奇異な目で見られることが多い。真鳥がへらりと笑えばいくつかの陰口を叩かれて終わる。
目前にいるのが祈織でなければあっさり話題を変えることもできたかもしれない。しかし、この人物の前でそれは通用しないことを、真鳥は身を以て知っている。
「真鳥」
その声は呪術のように真鳥に絡みつく。真鳥を責めているかのように重い。
祈織は真鳥に対して少なからず憤りを感じていた。
かつての仲間たちに存在を忘れ去られたというのに、そのように笑えるのはなぜか。
なぜ一人ですべての痛みを抱え続けるのか。
祈織が真鳥のことを知ったとき、華暖亡き後、自分たちが後見人となったことは間違いないと思っていた。
後から調べたが確かに書類上はそうなっていた。それなのになぜ、瑛至や自分に助けを求めてこないのか。
自分が必要とされていないことが悔しかった。さらには自分と華暖との仲がその程度のものだったと言われているようで、怖かった。
そして、その感情を突き詰めてみれば、親友の息子を守ることもできない自分への無力感に怒りが湧いた。
こうして本人を前に問うてみたとき、初めてその憤りの意味を理解する。
自分の怒りを、言ってくれなかった真鳥にぶつけて、真鳥のせいにした。
瑛至にはそれがわかっていた。だから瑛至は真鳥に会わせなかったのだろう。
祈織は膝の上で指を握りしめる。
「すみません……」
忘れて欲しいと祈織は続けるはずだった。真鳥はそれを柔らかく遮る。
「これは……対価なんです」
祈織に対して怒った様子はない。
真鳥は一つ一つ言葉を探しながら、静かに語る。
「大切なものを守るために、引き替えにした結果です。失うことに比べたら、誰も自分を知らない世界など痛みにもならないと思っていました。でも……現実はそんなに甘くなかったんですけどね」
あの岩山で犬神クロウと交わした契約が、まるで昨日のことのように真鳥の中に蘇る。
『生きていてくれるなら、それでいい』
あの時、自分はこう言った。
『その覚悟、確かに受け取った』
犬神クロウが真鳥の意志を受け取った。
一颯は生き残った。
そして……
「かつての仲間たちから、初めましてと言われる度に、とても痛くて……でもそれが、本当の対価だったのかもしれないと気づきました。だから自分で乗り越えなければ意味がないんです。これはオレの義務だから……」
最後はいつものようにへらりと笑って見せる。
「なぜ私にそれを話したんですか? 瑛至にも言っていないことでしょう?」
「ああ、それは、なんていうか……条件反射みたいなものです」
「はい?」
「養成所に入る前、オレはここで、父だけでなく臨也さんや長、あなたにも色々教えてもらっていたんです。そのとき、長の『オヤジの教え』第一条があなたには逆らうな、だったんですよ。重要なことだから良く覚えておけって。祈織さんに聞かれたらオレは口を閉じていられません」
ピシっと何かにヒビが入るような音が立つ。
祈織が握っていた湯飲みだったのか、祈織のこめかみだったのか、単にタイミングの良すぎる家鳴りだったのか。
真鳥には分からない。
「……お茶をもう一杯いただけますか?」
「はい。あの議長……オレ、何か」
「真鳥。お茶をください」
暗雲を背負った祈織の笑顔に逆らえる者はきっといない。ここは瑛至の教えを今こそフルに活用すべきときだろう。ちなみに第二条は、『祈織は熱しやすく冷めやすい、ほとぼりが冷めた頃を狙え』だ。
真鳥が新しいお茶を用意して戻ってくる頃には、祈織の暗雲は消えていた。さすが瑛至である。
「さて、そろそろ本題に入りましょう」
熱い緑茶をずずっと啜った後の祈織の一言で、懐かしい回想の時間は終わりを告げる。
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