第5章9話
遺体安置所は、矢杜衆詰め所の地下二階にある。
一颯も何度か、その場所へ足を運んだことがある。
神殿に咲く白い花の香りと、血の匂いを消すために焚かれた香が混じり合う小さな部屋だ。
任務で殉職したものはまずそこに納められる。傷ついた身体は癒し手たちによって綺麗に整えられ、仲間たちが別れを告げた後、家族の元に戻される。家族のいない者は、仲間たちによって、弔われる。
そこに戻って来られた者はまだ幸いだ。身体の一部さえ還ることのできなかった者たちも多い。
事務室を飛び出した一颯は、まっすぐにその部屋に向かうはずだった。いや、向かっていると思い込んでいた。だが、実際には全く進んでおらず、一階と二階の間の踊り場で立ち尽くしている。
今、遺体安置所に眠るのが真鳥だったら。
それを確かめることが怖い。
事実を拒む想いが一颯の心を押し留める。心の半分だけが遺体安置所に向かおうと焦り、あとの半分がそれに抗っている。
一颯から短い息が漏れる。
こんなところで立ち止まって、自分は何をしているのだ。
確かめればいい。
あの人はそんな簡単に死んだりしない。
自分を叱咤する。
ふらりと一歩を踏み出す。
しかしその足元にはあるべき床はない。
ゆらりと傾く身体をわかっていながらどうすることもできず、視界は流れていく。
「渡会!」
太く長い腕が一颯の身体を抱き留める。
「どうした! しっかりしろ」
「あ……」
耳元で怒鳴られて意識が戻る。
「長……」
「体調でも悪いのか? 顔色がひどいぞ」
一颯は自分の足で立つと、すみませんと謝ってから、はっと顔をあげる。
「長! 八束隊長は無事なんですか! 今、遺体が戻ったと」
今にも掴みかからんとする勢いの一颯を、瑛至は静かな声で制する。
「自分の目で確かめろ。一緒に来い。お前に話がある」
瑛至が先に立ち、階段を降りていく。長の命令という理由を自分に与え、こわばる身体を誤魔化す。指を握り込んで拳を閉じ、どうしても止まらない指先の震えを抑える。
階段を降りた先、地下二階は固い空気に沈んでいる。冷たい水底を歩いているようだ。
二つ目の角を曲がると、扉がある。壁に吊るされた花瓶に、白い花が一輪、刺してある。お別れをするために入室しても良いという合図だ。
その白い可憐な花を見た瞬間、一颯の心臓に痛みが走る。限界まで縮んだ気がする。
瑛至が扉に手を掛ける。
嫌だ!
開けないでくれ。
準備なんかできていない。
心の内で激しく叫びながら、一颯はさらに強く指を握り込む。身体の底の方からブクブクと溢れて来る震えが止まらない。
矢杜衆の過酷な任務の中で、それが命のやり取りに関わる戦場であっても、これまで一颯は恐れなど感じたことはなかった。任務で親しい者を失うことがあっても、その哀しみは恐怖ではなく、もっと強くならなければならないという新たな決意となって現れた。
怖いという感情に身体ごと支配されるという初めての経験に戸惑い、一颯は思わず瑛至を呼び止める。
「長……」
瑛至が扉を開く手を止めて、一颯を振り返る。
一颯にそれ以上の言葉はなく、瑛至も何も答えない。
小さく開いた扉の隙間から、ゆるゆると部屋を抜け出してきた香の匂いと微かな煙が二人を包む。
花々ほど甘やかでなく、薬草ほどえぐくはない。落ち着いた香りが一颯の中の染みこんでいく。肩から力が抜け固く握りしめた指が少し解けるる
一颯の中の情緒が本来の居場所を取り戻す。
恐怖は消えないが、今やるべきことが恐れを抑えて込んでいくのを感じる。
それが香の薬効だ。
親しい者との死を静かな気持ちで受け入れられるように、ここを訪れる者たちのために癒し手たちにより特別に調合されているのだ。
「すみません。大丈夫です」
瑛至が扉を開く。
中へ入る瑛至の後に一颯も続く。
がらんとした広い部屋は、廊下よりも僅かに暗い程度に調光されている。その真ん中に置かれた寝台に、若い男が横たわっている。
一颯の視線がまっさきに捉えたのは、男の茶色い髪の色だ。
銀色ではない。
そのとき思わず漏れそうになった嘆息を意識して飲み込むる
男は犬神の印が縫い込まれた白い布でその身体を覆われていたが、顔は見ることができた。ところどころに新しい傷痕があるが綺麗な顔だ。
まだ若い。
「月埜然。議長専任の護衛だった」
瑛至のこれだけの説明で、一颯は状況を察した。
議長と副議長は今、会合のためアカギ国へ出向いていることは知っている。今日、帰国することになっているはずだ。その朝、真鳥は緊急な任務に出向き、議長の護衛が物言わぬ身体となって戻ってきた。
そして長とその片腕である永穂が直接動いている。
その意味は、議長一行の襲撃、それしかない。
「議長と副議長はご無事ですか?」
「八束をリーダーに救援を出した。芳司殿はさっき無事に戻った。議長……祈織は……行方不明だ」
瑛至の声は、祈織のところでほんの少し途切れる。バディの身を案じる瑛至の想いに気づく。瑛至も一颯と同じ心情なのだ。
「八束隊長も行方不明なのですね。二人は敵に捕らわれたのでしょうか」
「その可能性がまったくない訳ではないが、俺たちは違うと考えている」
俺たちとは、瑛至と永穂に他ならない。瑛至が考えを語る。
祈織と真鳥は自分たちの意志で姿を隠した。それはまだ祈織が狙われている状態であることを示している。自ら姿を消すことで、これ以上、余計な犠牲を出すことを避け、自分たちだけで片を付けようとしている。議長不在という状況が及ぼす影響を考え、早急に始末を付けようとしているのだろう。真鳥はそれに協力する形で行動を共にしている、と。
「二人はどこへ?」
「それを探すのがおまえの任務だ。指揮は俺が執る」
瑛至の命を受けた一颯の返事に、迷いはない。
「諾」と答えたときには、一颯の中にあった恐れは綺麗に払拭されていた。
「必ず生きて戻れ」
「犬神の印に懸けて、三人で必ず」
一颯は左胸に手を当て、その任務を受けた。
いつもお読みいただいきありがとうございます。
今、前話の第5章8話を修正中です。完了しましたら、お知らせします。また読みにきていただけると嬉しいです。
次は水曜に更新予定です。よろしくお願いします。




