第5章6話
「もう一度、頼む。良く聞き取れなくてな」
ここはイカル国の首都ルー。
その中心部にある一際大きな石造りの建物だ。その屋上には、金糸で織り込まれた犬神の旗が早春の清々しい朝の光を弾いている。
犬神をシンボルに掲げた矢杜衆詰め所の一階には、矢杜衆の長の執務室がある。
いまその部屋に三人の男たちがいる。
まだ夜が明けて間もないため、南向きの窓から差し込む光はない。代わりにどっしりとした黒檀の机の上に置かれたランプが、床や壁に濃い影を落としている。開け放たれたままのドアからは、中庭に咲いた遅咲きの梅花の上品な芳香がしんみりと漂ってきている。しかし、その部屋にいる三人に気づいている様子はない。
全矢杜衆三万人を束ねる男、伐瑛至は、珍しく椅子に納まり、その巨躯を椅子の背に預けたまま、目の前に立つ男に説明を求めたる。
男は、今日未明に八束真鳥をリーダーに出発させた議長一行襲撃の救援メンバーの一人だ。年齢は瑛至よりも上のベテランだが、リーダーシップの面で能力が欠けるため、未だ矢影止りの男だ。
大蛇が地を這うが如くおどろおどろしい声に、全身をねっとりと絡みつかれた男の背筋に冷たい汗が流れる。
長年、矢杜衆として関わった任務の中には、長とともに戦闘に出た経験もあるが、これほど感情を露わにした瑛至を見るのは初めてだった。
「は……はい」
思わず声が裏返りそうになるのをごくりと鍔を飲み込んで誤魔化し、状況の説明を続ける。
「ご、ご報告いたします。副議長の芳司様および事務官六名を国境付近で保護。まもなくこちらに到着します。議長付の矢影一名の死亡を確認。他、敵襲と思われる四十一の死体を発見しましたが、ぎ、議長および八束隊長の二名が、現在、ゆ、行方不明となっており……」
矢影の男が言い終わる前に、地面が割れるような音が詰め所中に響く。
そのときラウンジにいた者たちが、後に地面が揺れたと証言したほどの音だ。
瑛至は机に叩きつけた拳を固めたまま、目の前の男を睨みつけている。怒鳴ろうが、殴ろうが、この男からはこれ以上の状況は聞けないだろう。そんなことがわからない瑛至ではないが、何かをせずにいられない、そこまでの緊急事態に追い込まれている。
男は真っ白な顔で固まったまま、一瞬止まった心臓が次は暴走を始めるのにただ身を任せている。すぐにでも失神してしまいそうな顔色だ。
瑛至の糸が切れて部屋を飛び出すのとどちらが先か。
矢杜衆長執務室の窓際に佇んでいた三人目の男が、そこで初めて口を開く。
「長」
静かな一言を瑛至に投げかける。
長に劣らぬ長身だが瑛至よりも細身のその体躯と長い艶やかな黒髪のためか、その立ち姿や振る舞いはいつでも涼やかに見える。
矢杜衆ナンバーツーであり瑛至の右腕である加内永穂の涼やかさは、主に熱した長を沈めるのに有効だ。滅多に激する姿を見せない瑛至だが、長年の付き合いからいくつかツボがあることを永穂は承知している。
いつもならば永穂の冷ややかな一言で、無駄に怯えさせた部下に謝るくらいのことはできる男だが、拳を開いただけだ。
行方不明の一人は瑛至の数十年来のバディである。プライベートでも二人を良く知る永穂には瑛至の心情はよく理解できたる。狭總祈織は瑛至にとって最重要人物だ。
しかし、祈織がただの矢杜衆であった頃とは状況が異なる。
行方不明となっているのはイカルの政治と経済を支える頂点そのものだ。
このことが近隣国へ漏れればその影響は計り知れない。国内に広まっただけでもその波紋がどのような状況を引き起こすか、考え出したらきりがない。少なくとも議会衆は大荒れになる。祈織が議員となってから築いてきたものすべてを失う結果になりかねない。
ただでさえ北が騒がしいという時期だ。
さて、ここをどう収めるか。
机の上の書類の山は崩れ、いくつかは床に散っている。ランプは倒れたまま、在らぬ方向へ光を投げかけ、矢影は硬直したままの瑛至の前に立ち尽くす。瑛至は自分が出ると、今にも飛び出しかねない。
そんな状況を目の前に、永穂が何通りもの筋書きを検討しつつ、瑛至を諫める言葉を慎重に選んでいたときだ。
ふっと空気が動き梅の香が強くなる。
このタイミングですか……
永穂が溜息をつきたくなるような状況を、さらに悪化させる原因が訪れたようだ。すでに瑛至の眉間には深い皺が寄っている。
元々、ここに来ることになっているのだから予期せぬ訪問ではないのだが、良いタイミングとは言えない。
「取り込み中だろうか?」
ノックもせずに部屋に入ってきたのは、議会の副議長を務める芳司守土だった。
もっともノックするドアは開け放たれていたのだが、閉まっていたとしても彼がノックをするような人物かは疑問である。
守土は入り口近くに立ち止まり、一陣の突風が去ったような部屋の様子に視線を走らせる。
長身痩躯に眼鏡をかけ、銀の混じり始めた髪を七三に分けた姿は、神経質そうな雰囲気を見る者に与える。齢はすでに五十は超えているが、議会を束ねる者の中ではまだまだ若い部類に入る。親のコネと巧な交渉術を駆使し、早くから出世を重ねてこの地位までのし上がってきた男である。
しかし彼の華々しいキャリアは、祈織の登場で影が差した。
議会に対してなんのコネクションもない祈織は、持ち前の根気と努力で協力者を増やし、前回の議長選では大差をつけて祈織が当選した。
次は自分だと思っていた議長の座を、二十近くも年下のしかも矢杜衆上がりに奪われたことで、守土の自尊心は踏みにじられた。
元々、守土は徹底した保守派であり、必要であれば新しいものを取り込むことを厭わない祈織とは、意見を違えることも多かった。そして選挙を機に完全に対立する関係が表面化した。最年少で議長に就任した祈織という存在は、守土の矢杜衆に対する態度さえも硬化させることとなる。
「今回の襲撃の件についてだが」
挨拶もなしにいきなり要件を切り出す。見下した相手へのこの男の態度は有名だ。
『国を動かすには金と力だけでは足りないことを彼は知らないんです。私たち矢杜衆なら誰でもすぐに気づくことなんですけどね。代々、上位の議員を輩出している家柄の影響もあるのでしょう。彼には人を敬う気持ちがない。それは大きな欠点ですが、彼もまた議会には必要な人物です。……もっとも、そんな彼と親交を深めることが出来るかと言われると、遠慮させていただきたいですが』
議長就任を祝う私的な酒の席で、悪名高い副議長を祈織はそう評した。瑛至から見れば、この襲撃も裏で手を引いているのではないかと、真っ先に疑う相手だ。
守土は室内に漂う唯ならぬ雰囲気さえも綺麗に黙殺し、勝手に話を始める。
「そちらでの調査は必要ないということを伝えておく。これ以上、事を大きくして議長行方不明の事実を漏らしたくないのでね。何か起こったとしても、彼も矢杜衆の端くれなら、自分の身くらい自分で守るだろう」
瑛至の拳が再び固く握りしめられるのを、永穂と矢影が見ている。二人には、手のひらに指が食い込むぎちっという音まで聞こえた。矢影の男が次に来るだろう怒号に身をすくませる。
「議長不在の間は私が取り仕切る。これから議会に戻って、幹部と調整する予定だ。まったく困ったことをしてくれたものだ。矢杜衆あがりには議員という仕事はやはり無理が……」
ふいに、部屋の中が一層、暗さを増す。
ランプが消えたわけではない。
守土の背後で開けっ放しになっていたドアが閉じられている。
なにが起こったかまだ気づかず、様子を伺う守土のすぐ後ろに、退路を断つように男がいる。
「まずは礼の一言でも欲しいところだが」
氷点下の声が、矢杜衆長執務室に響いた。
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微妙なところで終わっていてすみません。
続きは水曜あたりに更新予定です。
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