第5章1話、プロローグ
まだ深い雪を頂いたままの山々から、春らしからぬ寒風が吹き下りた早朝。
イカル国の宗主である巫女・イトゥラルは、高い塔の天辺から首都・ルーを見下ろしていた。
そろそろ春を迎えようかというこの季節、いつもであれば、イカルは晴れた日が続く。
どこまでも深く青い中空に、純白の雪を被った峰がくっきりと姿を現し、その荘厳さを見せつける。森を渡る空気はどこまでも澄んでいるが、真冬のように凍てついてはいない。そこかしこに雪解けの水が小さなせせらぎを作り、固く閉じていた枝先に小さな突起が現れ、気の早いものは、もう花弁を開き始める。
冬から春へ、ゆっくりと移り変わろうとする。
しかし、今、巫女の眼前に広がる光景に春の息吹は僅かも含まれていない。
山々は雲の中に閉ざされ、首都・ルーの空をなお一層暗い灰色の雲が覆っている。その下に広がる街並は、陰鬱な色に深く塗りつぶされ、重く沈み込んでいる。
これは、夢だ。
巫女はすぐに気づく。
小さな頃から、度々、こういう夢を見ることがあった。
自分では絶対に上れないような高所から、国を見下ろす夢。
色がついているときは楽しい気持ちになり、色の無いときは暗い気持ちになった。あまりの怖さに飛び起きて、一緒に寝ていた母親に縋り付いて泣いたこともあった。
未来を垣間見ているのだと知ったのは、神殿に上がり、巫女としての勉強を始めてからだ。
巫女だけが持つ特殊な力が見せる夢。
国の未来を卜する予知夢。
それは今、鈍色一色に包まれており、明らかに凶兆を示している。
これは何?
何が起こるの?
いまの巫女には、それしかわからない。
嫌な予感だけでは何もできない。
もっと力があれば、何が起こるかわかるのに。
みんなを助けられるのに。
巫女は指を組み合わせ、祈る。
教えて。
イトゥラの神様。
ふいに強い風が、巫女の細い身体を攫う。
長い黒髪が乱れ、視界が奪われた瞬間、その身体は塔の外へ放り出される。
ルーの街へ吸い込まれるように、巫女の小さな身体は落ちていく。
重く澱んだ空気の中で、巫女は見る。
あれは……縄?
鈍色の縄のような何かが、あらゆるものに巻き付いている街の姿を。
建物にも、人にも。
幾重にも絡みつき、まるで自由を奪っているかのようだ。
高所から見た陰鬱な色は、この鈍色のせい?
何かがこの国で起きようとしている。
もうすでに起きているのかもしれない。
ゆっくり考える時間はなかった。
あと少しで地面に激突するというとき、鈍色の世界は一瞬のうちにかき消える。
代わりに深い紅が巫女の視界を奪う。
一面の曼珠沙華の中に、立っている。
巫女の視線の先に、長めの黒髪を後ろで一つに束ね、黒い着物に身を包んだ男が佇んでいる。巫女の良く知る者の一人だ。その横顔には、かつて見たことのないほどの深い悲しみが刻まれている。
男がゆっくりと屈み込む。
その先に、人影がある。
見慣れた矢杜衆の戦闘服を身につけている。手も足も力なく投げ出されており、生きているという感じがまったくしない。
誰?
そっと触れた男の指先に、銀の髪が絡みつく。
あれは……
巫女の胸がドクンと震える。
紅い花の褥に横たわる人は。
イカルの国では珍しい異国の色を纏う、その人は。
「真鳥っ!」
思い切り手を伸ばして駆け出す。
つもりだった。
「あっ!」
巫女は自分の部屋の寝台から、派手な音をたてて落ちた。
「いったたたたた」
石の床に思い切り打ち付けた膝頭を抱えて撫でる。
視界に入るものは、見慣れた天井や調度品だ。歴代の巫女が使ってきたため古い。しかしどれもしっかりとしていて豪華すぎず、かといって無機質でもない、落ち着いた色調だ。
禍々しいほどの紅は消えていた。
黒い着物の男も、銀の髪の真鳥の姿もなかった。
「あれはなんだったの? 真鳥に何かあるっていうの? 真鳥、死んじゃうの?」
言葉にすると震えが走る。怖くなってすぐさま口を閉じる。
まだ四肢に重く絡みついたままの夢を振り払うように立ち上がると、勢いよく窓を開ける。
「はぁ〜」
吐き出した息は白く凍る。
体内に残る悪夢の残滓をすべて吐き出すかのように、イトゥラルは幾度も深呼吸を繰り返す。
「大丈夫。あれは予知夢なんだから。まだ何も起こってない。だから真鳥は死なない。あの人が悲しむこともない。なんとかなる。」
自分に言い聞かせるように、冷たい空に向かって言葉を投げる。
「失礼します。巫女様、お目覚めのお時間で……巫女様っ!」
「あ、女官長、おはよう」
「おはようじゃありません! 今朝は冷え込みが強いというのに、そんな薄着で窓を開け放して! 風邪でも引いたらどうするつもりですかっ!」
まなじりを釣り上げて鬼の形相の女官長を見て、巫女はふっと笑う。いつもの女官長の様子に、あれは夢だったと実感する。
女官長は、一瞬で部屋を横切り窓を閉めると、窓際の一人掛けのソファからブランケットを取り上げる。その所作は余りにも早く、気づけば巫女は肌触りのよいブランケットにすっぽりと包まれている。
この女官長は実は凄腕の矢杜衆なのではないかと思うときがある。
勉強の時間が嫌で隠れていても必ず見つかるし、まったく足音をたてずに歩ける。いつのまにか背後に立っていてびっくりして声をあげたこともあった。
矢杜衆長の伐瑛至とも仲がいいようで、時折、楽しそうにおしゃべりしている様子は古い友人といった様子だ。
うん、やっぱり矢杜衆なんだわ。
隠の者に違いない。
隠の者とは、表向きは商人であったり教師であったりと、普通の市民を装っているが、実は情報集めなどの諜報活動を受け持つ矢杜衆たちのことだ。
女官長は巫女の両手をその手に包み込む。
「こんなに冷たくなって! 誰か! お湯の用意を!」
「え、いいよ。寒くないよ。それより……」
「はい、すぐに!」
ドアの外に控えていた女官がドア越しに答え、パタパタと廊下をかけていく音が聞こえる。
女官長は巫女をソファに座らせると、その正面で巫女と視線の高さを合わせるように跪く。静かな眼差しが巫女の言葉を待っている。
いつもと違う巫女の様子に、神託が下ったのだと気づいたのだ。
イトゥラルは自分の身体をブランケットごと、その細い腕で抱きしめる。
大丈夫と、自分を落ち着かせるように深呼吸してから、告げる。
「真鳥が今どんな任務についているか調べてくれる? それから議長の狭總祈織を呼んで。伐もよ。できるだけ早く。お願い」
緊張した様子の巫女に、女官長は落ち着いた様子で問う。
「悪い夢ですね?」
イトゥラルはぎゅっと身体を抱きしめたまま頷く。
「承知しました。すぐに手配いたします」
絡みついた鈍色の縄。
曼珠沙華の中の二人。
「あの二人に危険が迫っているの」
巫女の顔はひどく青ざめている。
それが寒さのせいではないことを女官長はよく心得ている。
湯を運んできた女官たちに巫女の世話をいいつけると、女官長はすぐに部屋を出て行く。
どうか、間に合って。
イトゥラの神さま、お願い。
両手を胸の前で結び、イトゥラルは祈る。
窓の向こうでは、そんな彼女の焦燥など知らぬとばかりに、どこまでも深く青い空が広がっている。
お待たせしました。
第5章、スタートしました。
またしばらくお付き合いいただければと思います。




