第4章8話、春の欠片(3)
陽が傾いてくると、暖かかった日中が嘘のように急激に寒さが強まる。
「外套、着てきて正解だったね〜」
真鳥は足を止めた木の枝の上で、冷たい風から逃れるように首を縮めて鼻先まで外套の中に埋める。
そんな真鳥をちらりと見る。いつもより子供っぽさが外に出ている。
「今日は夕方から冷えるって予報が出ていましたからね」
一颯も同じ枝に着地する。
ここから先は高い木は途切れ、家並みが続く。ルーの中心部まで、普通に歩いて二十分くらいの距離だ。
「で、先輩は何が食べたいですか?」
「オレは別に家でも良かったんだよ〜?」
「無理ですよ、ガス切れちゃって、湯も沸かせないんですから」
「お湯くらい携帯コンロがあるでしょ〜が」
「お湯だけじゃ料理はできませんよ」
「カップ麺でいいのに」
「栄養不足になります。健康管理は矢杜衆としての義務です」
「固いね〜一颯は」
「僕は普通です。先輩が気にしなさ過ぎなんです」
「はいはい、わかりましたっと」
真鳥は木の枝から飛び降りる。一颯も後に続く。
「じゃあ雷屋のおでんがいいな。寒くなってきたし」
「いいですね。この時間ならまだ早いからすぐに入れますよ」
二人の若い矢杜衆は、連れだって道を歩き始める。
雷屋は、寡黙な親父とその一人娘が切り盛りする小さな料理屋だ。矢杜衆の詰め所から少し北に行った繁華街の外れにある。店は昔からあるらしく、外装も内装もボロいが、料理は逸品だ。年配の矢杜衆に人気で、伐がよく一人で飲んでいる姿が見かけられる。
冬季の定番メニューである出汁のよく染みた大根や玉子、ガンモの味がじわりと真鳥の口の中で広がり、自然と店に向かう足取りも速くなる。
二人が角を曲がった時だ。
二ブロックほど先を、男が歩いている。
カーキ色のジャケットに黒のズボン、黒のショートブーツは、どこから見ても矢杜衆の装束だ。
真鳥の足がふいに止まる。
その後ろ姿と僅かに感じられる気に覚えがある気がする。
けれど、すぐに打ち消す。
彼がこんなところを歩いているわけがないのだ。
数ヶ月前の初冬のあの日、自分がこの手で捕らえその身柄を引き渡したのだから、間違いはない。
矢杜衆に捕らえられたその男は、矢杜衆からの脱走および仲間を手に掛けた罪をその命で償っているはずだ。彼が生きている可能性は、ほぼ無い。
陰の影。
真鳥は、去年の任務で初めてその存在を知った。
それは、最初から存在していないことになっている者たちに与えられた総称だ。彼らに固有名詞はない。
あの男はそこから抜け出したかった。この世に自分が確かに存在しているという確固たる証拠が欲しかった。誰かに自分を見つけて欲しかった。
そのためだけに戦い、そして死んだ。
それは真鳥が、矢杜衆という巨大なシステムに初めて疑いを持った瞬間でもあった。
任務であるという理由だけで、何も考えず人を殺めてきた自分は、本当に正しかったのだろうか。
男の運命を憂う自分に、しばらくの間、戸惑い続けた。
今もまだ答えは見つかっていない。
男の後ろ姿に、あり得ないと分かっていても、生きていてくれたらいいと願わずにいられない。
真鳥は、男が次の角を曲がって見えなくなるまでその背を見つめ続ける。
一颯は真鳥の顔に現れた一驚がすぐに煩悶へと変わっていくのに気づく。
言葉を掛けることも憚られる深い憂慮に、ただ隣に立っていることしかできずにいた。
気遣うような一颯の視線に気づいた真鳥は、
「行こっか」
と笑顔を見せる。
歩き出そうとする真鳥の身体を、一颯の長い腕がそっと制する。
「菜の花が」
「ん? どこ?」
「左脚のとこです」
「あ〜ほんとだ。気がつかなかった。踏んじゃってないよね」
真鳥の足元で一本の菜の花が寒風に揺れている。
「もう春なんですね」
穏やかで優しい一颯の眼差しに、沈みかけていた真鳥の心がふわりと持ち上げられる。
春という季節は、人の心を優しく浮き立たせる効力があるのかもしれない。
影に生きたあの男にも、この春を届けたかった。
あの男ともっとゆっくり話がしたかった。
酒も飲んでみたかった。
本気の手合わせをしてみたかった。
共に、任務についてみたかった。
できることならば。
叶わないと知りつつも、願わずにいられなかった。
「菜の花のおひたしあるかな〜」
「まだ少し時期が早いのでは?」
「え〜じゃあ、この花、つんでいこうよ。オヤジさんにおひたしか天ぷらにしてもらう」
「あ! ダメですよ! せっかく咲いているのに可哀想です!」
一颯が真鳥の外套を強く引く。
「ケチ。一颯のケ〜チ。もういいもんね。オレ、一人で先にオヤジんとこ行っちゃうから」
真鳥が子供っぽさどころか、駄々っ子全開で一颯に背を向けて歩き始める。
一颯は、真鳥が本気で菜の花のことで駄々を捏ねているのではないことに気付いている。
先程の矢杜衆の男。
彼を見かけてから、真鳥の様子はおかしかった。
いや、もっと前からか。
一颯は思い出す。
まだ冬の初めの頃、矢杜衆詰め所の前の木に、真鳥を見つけた時と、今の真鳥は同じ顔をしていると気づく。
今にも泣きそうな顔。
それを誤魔化すために、わざとおちゃらけている。
あの時と同じだ。
彼は今も泣きたいのだろうか。
先を行く真鳥の背を見やる。
真鳥が何かに悩んでいることはわかっている。けれどその理由はわからない。聞いても話してくれるかどうか、わからない。逆にそれを理由に避けられることの方が、今の一颯には怖い。
八束真鳥という、自分にとってはまだ新しいバディとの関係は、一年にも満たないからだ。
いくつかの任務を通じて、彼のことを少しわかってきたところだ。
彼の方からは、信頼を寄せられていることはわかる。
一颯自身は、まだそれをすべて受け入れられていない。まだまだ危ういと感じる関係性だ。
だから、聞けない。
まだ深く入り込むことはできない。
でも、やれることはあるはずだ。
あの日、一颯は真鳥の涙を初めて見た。
どうすればいいか戸惑ったが、彼は笑ってこう言った。
『なんでもないよ。大丈夫。オレも嬉しかったんだ。気づいてくれて、ここまできてくれて、アリガトね、一颯』
その笑顔と言葉に、少しだけ安堵した。
やるべきことは、わかっている。
一颯は、息を吐く。
「先輩、またそうやって僕に報告書を押し付けようとしていますね。そうはいきませんよ。雷屋は報告書を提出してからです。引きずってでも詰め所に連れて行きますからね」
真鳥はぴたりと足を止めてから、振り返る。
舌を出してから、笑う。
「バレた〜?」
そこにいるのは、いつもの真鳥だ。
憂いを隠して、子供っぽく笑う真鳥だ。
一颯はそう感じる自分の心に蓋をして、真鳥に合わせる。
「バレバレですよ。何度目だと思っているのですか?」
「えっとね。三回目くらい?」
そこでしっかりと正確な数字を出してくるところが、真鳥らしい。
基本的に嘘をつけない性格なのだろう。
その代わりに、隠していることはある。
きっとまだまだ、一颯の知らないことがあるのだろう。
いつか話してくれるだろうか。
話して欲しい、そう願わずにいられない。
これからも、この人と一緒に歩いて行きたいと思うから。
一颯がそれを口にすることはないが、真鳥は、まるで一颯の心を読んでいるかのような顔で、にやりと笑う。
「じゃあさ、詰め所まで競争ね。負けた方が報告書書く!」
その瞬間、真鳥の姿が消える。
「ちょっ! 僕はまだ了承していませんよ。無効ですからね」
叫んでみてももう届かない。
一颯が真鳥に勝てるはずもなく、それでも一颯は真鳥の後を追うしかないのだった。
そんな二人を、菜の花は静かに見送った。
いつもお読みいただきありがとうございます。
あと一話、続きます。
今週中にアップしたいと思います。
よろしくお願いします。




