第4章5話、真昼の月(2)
「どうかな」
しばらくの間の後、矢杜衆かと問われた男男の返事はこうだった。
自分で口にしてから、的を得ていると感じた。
男は矢杜衆であって矢杜衆ではない。市井に紛れて任務に就く隠の者でもない。陰の影と呼ばれる存在だ。
裏の世界で、浪費されるだけの存在。
矢杜衆という巨大な組織の末端で、アリのように働く名も無き兵隊。
失敗すればそれまで。
誰も助けには来ない。
来るのは補充だけ。
最初からこの世にいない者として扱われる。
それが陰の影だ。
先の任務で、一緒に参加した者たちのほとんどを失った。自分だけが生き延びて、やっとの思いでイカルに戻ってきたが、この北の杜で力が尽き、枯葉に埋もれるようにして瞼を閉じた。
そのまま、二度と冷めない淵へと、静かに沈んでいくはずだった。
誰にも気づかれることのない、誰も知る必要のない最期の眠りだ。
その眠りを妨げたのが、澄んだ冬の夜の目を持つ少女だった。
「でもおじさんは、この国を守ってる人だよね」
「何故そう思うんだ? 盗賊かもしれんぞ」
「おじさんは盗賊なんかじゃない。だって、すごく優しい目をしているもの。悪い人じゃないよ。大切な人を守るために戦う戦士なんだよね」
きっぱりと言い切るその自信はどこから出てくるのか。
「戦士か……」

男の吐き出した言葉には小さな溜息が混じっている。
この世に、大切な者など一人もいない。
矢杜衆を夢みる少女の言葉は、今の自分とは余りにも違いすぎる。
「そうだ! ちょっと待ってて」
少女はふいに辺りを見回してから、右手の方へと駆けだした。数メートル先でしゃがみこむが、すぐに戻ってくる。
傷薬になる薬草でも採っているのだろうか。
そんなものは気休めにしかならないと、男自身がよく理解している。
「あげる」
差し出された小さな手にあるのは、薬草ではなかった。
白い小さな花が風に揺れている。
「なんだ、これは?」
「あなたに祝福を」
「は?」
「花言葉だよ」
「花言葉?」
「知らない?」
「そういうのには縁がない。花を貰ったこともないからな」
「じゃあ初めての花束だね。あっ! 一本だけだから花束じゃないか」
少女は子供っぽく笑う。
そしてもう一度、その言葉を繰り返す。
「あなたに、祝福を」
なぜ花など差し出されているだろうか。
男は理解できない。
けれど、少女の言葉と、差し出されたその小さな白い花に、なぜか心が揺れる。
男は傷の少ない右腕をゆっくりとあげる。
少女の差し出した一輪の花は、男の硬く傷だらけの手へとそっと渡る。
「ありがとう」
自分のつぶやいた言葉に、男がはっと息を飲む。
そんな言葉、もう何年も使っていなかった。自分でも忘れていた言葉を、小さな少女がいとも簡単に引き出したことに驚く。
「どういたしまして!」
花は、血や泥で汚れた男の手の中にあっても、白さを失わない。可憐な花びらは少女の笑みのように、陽に輝いている。
花びらを揺らした風が、男の髪を揺らす。
誰かに、そっと撫でられたような気がして、顔を上げる。
少女が笑っている。
その顔は、幼い頃、ほんのひとときの間、神殿の孤児院で過ごしていた時に見た巫女イトゥウラルと同じ笑顔だった。
「お前は……」
目の前にいた少女がくるりと背中を向けて駆け出す。
「じゃあね! おじさん!」
「おい!」
結った髪が揺れて、男を振り向く。
「もう帰らないと怒られちゃう!」
陽はすでに傾きつつある。
北の杜から街までは、子供の足でも相当かかるだろう。家に着く頃には真っ暗だ。けれど今の男には少女を送ってやる体力は残っていない。
何故、引き留めたのか。
男は逡巡したあげく、見つけられない言葉の代わりに少女に問うた。
「この花の名前を教えてくれ」
「この国の巫女様と同じ名前。この杜にしか咲かないの。もらった人に幸運が訪れるんだよ!」
少女は花のような笑顔を残して駆けていった。
暖かな宴の喧噪が、男の意識を現実に引き戻す。
「頭? どうしましたか?」
隣に座るハギが、男の顔を伺っている。
男は、緩んでいた表情を引き締めると、コップの酒を煽る。
「いや、なんでもない。で、お前はこの花の名前を知っているか?」
「いえ知りません。そういうのに疎くて。何ていうんですか?」
ハギが男を見上げる。
男は、酒の注がれたカップを口元に運びながら答える。
「イトゥラル」
「え? イカルの巫女の名が付いた花なんですか? そんなのあるんですね」
「珍しい花なんだそうだ。花言葉は、祝福を、だ」
「へ〜。今夜の俺たちにぴったりな言葉ですね。でも、頭がそんなこと知ってるなんて、俺はそっちの方が驚きましたよ」
男は何も答えずに、カップの中身をゆっくりと口に含む。
あれから五年の月日が流れた。
少女は知らないだろう。
あのとき祝福を与えた相手が、国と巫女と民を護るという誓いを捨て、イトゥラ神の加護さえ届かぬところまで来てしまったことを。
『大切な人を守るために戦う戦士だよ』
ここに集う者たちが少女のいった大切な人かどうかは、正直、男にはわからない。
彼らのために戦おうとしているのではないからだ。
自分を影として縛り付けたこの国と、古くからの流儀に縛られた矢杜衆そのものに一矢報いたかった。
人口の半分が矢杜衆であるこの国は、矢杜衆という重い仕組みに耐えきれず、いずれ内部から崩壊する。それが実感できているのは末端にいる者たちだけだ。
警告してやる気なんてさらさらない。
どうせ壊れるのなら、自分の手で土台から崩してやりたかった。
それほどに、憎んでいた。
男は、残りの酒をぐいっと飲み干した。
冬の朝が、鋭利な刃物のように肌を刺す。
昨夜の宴の喧噪はもうどこにもない。
静寂の底に沈んだ山々を、冷え切った空気だけが包み込む。
男たちの口元から吐き出される熱を帯びた気が、白い狼煙のように幾つも立ち上る。
男は、岩の上から一同を見渡す。
矢杜衆を抜け三年。
ここにいるのは、その間に自分を慕って集まってきた仲間たちだ。男と同じように、影として生きてきた者もいる。それ以外の者たちも、どれも似たような境遇ばかりだ。どこにも行き場はなく、誰からも必要とされない。そんな場所から逃げ出し、でも、どこに行けば良いのか分からなくなった者たちだ。
今日、自分たちは、自分自身の為、そのためだけに戦う。
何かを守るのではない。自分を勝ち取るために戦うのだ。
相手は矢杜衆。
大きな戦いになるだろう。
伐瑛至、あの男ならば凄腕を何人も投入してくるだろう。そのための訓練も準備も済ませた。
その時を待つばかり。
男は突き刺すような空気を肺いっぱいに吸い込む。
「敵は、俺たちから名も国も奪った奴らだ。思う存分、暴れてこい。その準備はできている。俺たちの生きる場所を得るために戦え」
男の低い声が冷気と絡まりながら男たちの上に降り注ぐ。
彼の言葉は戦いの前の鯨波ではなかった。静かに訴えかける人の肉声だった。
誰一人声を発する者はなく、男の姿を見ている。
男は一度、瞼を閉じると、「死ぬな」と言った。
それはまるで祈るような声だった。
「生きて、この家に戻ってこい。犬死には許さない」
再び開いた瞳は、強い力を含んでいる。
男の右手が刀を抜く。
刀身が早朝の光を集めて煌めく。
男の脳裏に、少女から渡された白い花が蘇る。
祝福などもらえる人間ではないことを、十分に自覚している。
それでもあの時、再び立ち上がったのは、少女に差し出された小さな花のせいだった。
これから巫女になるだろうあの少女の治める国を、見てみたいと思ったからだ。
それはもう、敵わないかもしれないが。
想いを振り切るように男は部下たちに命を下す。
「行けっ!」
「おおーっ!!」
男たちの鬨の声が山に響く。
声と共に駆け出した男を、柔らかな朝陽が降り注ぐ。
見知らぬあの少女の祝福に、包み込まれているような気がした。
『あなたに、祝福を』
今日もお読みいただきありがとうございます。
終わった感がありますが、まだ続きます。
今週中にまた更新しようと思います。
よろしくお願いします。




