臨也
『……お願い、あなた』
点滴に繋がれた細い腕が力なく伸ばされた。
水を弾くほど瑞々しかった肌は艶を失い、乾いた皮膚には点滴や注射針の痕が散る。ひび割れた唇から吐き出される声もまた、その身体と同じように干涸らび掠れている。
『帰りたいの……お願い』
熱を帯び濁った目だけが潤んでいる。
震える指先が答えを求め、宙を引っ掻く。
『私を帰して……』
臨也は瞼を閉じ、軽く頭を振る。
鮮明に蘇った記憶の中の妻の姿を振り払うかのような仕草だ。
不治の病に倒れた妻を置いて、引っ切りなしに任務へと駆り出されていたあの頃、自分へと伸ばされた妻の萎びた手を、臨也は最後まで取ることができなかった。生まれ故郷へ帰りたいという妻の願いが、決して叶わないと知っていたからだ。
臨也の妻はイカルから遙か北の異国の地に生まれた。
彼女が住んでいた街へ任務で幾度か訪れるうちに知己となり、妻に迎えた。
国外の者が矢杜衆の伴侶となることは珍しい。
何故なら、矢杜衆の妻あるいは夫となった者は、もう二度と祖国に帰ることができないという決まりがあるからだ。
矢杜衆の情報が国外へ漏れることを防ぐために設けられた厳しい決まりだ。
逃げようとすれば、追っ手がかかり必ず連れ戻される。逃げた者の生死は問われず、たとえ死んでいたとしてもイカルから逃れることはできないのだった。
伴侶となる者は、矢杜衆長の前で祖国には戻らないという宣誓書に署名を行い、さらに神殿で巫女に対して、生まれ育った祖国を捨てイカルの民となることを誓わなければならない。
臨也の妻も、イトゥラルの前で誓った。
そして、その誓いに恥じぬ生き方をしてきた。
病に身体を蝕まれ、余命を宣告されたその時までは……。
彼女の病は、矢杜衆の医療を専門とする癒し手たちの技術や知識をもってしても治すことのできない難しいものだった。
離縁して欲しい。
妻が初めてそう告げたとき、臨也は戸惑いを隠せなかった。
臨也にとって妻は、矢杜衆としての彼が守るべきものの象徴だったからだ。自分を待っている妻の存在があるからこそ、どのような戦地からも帰還することができるのだと強く信じていた。
臨也は必死で妻を説き伏せた。
しかし彼女は、病室を訪れる臨也の顔を見るたびに離縁を願い、故郷へ帰りたいと繰り返した。その度に臨也は、叶えられぬ妻の願いから逃げるように病室を後にすることしかできなかった。
『もう少し奥様のそばについていてあげてください』
妻を看ていてくれる癒し手から幾度もそのように求められたが、臨也が医療院を訪れることができたのは、良くて十日に一度程度だった。
その頃、ちょうど西の大国・ニリとイカルの間で大きな戦になるかもしれないという緊迫した時期だったことが大きな理由の一つだ。いつ死を迎えるかもわからない妻を抱えていても、任務は容赦なく臨也を駆り出した。状況が許さなかった。
しかし、本当はその状況に甘んじていることを、臨也が一番理解していた。
次から次へと入ってくる任務を言い訳に、心さえも蝕まれていく妻の姿を見ることから逃げたのだ。
病により日々衰えていくばかりで、帰国への念を募らせる妻の姿は、臨也の精神をも掻き乱し苦痛を与えていた。
逃れたい。
解放されたい。
許して欲しい。
悔恨の思いばかりに苛まされ、任務以外の日々の生活は荒れていった。
そんな臨也をバディである八束華暖が、彼のそんな状況を見過ごすはずはなかった。
『家族も守れない者に国を守る資格はない!』
と、容赦のない一撃を喰らわせた。
臨也は受け身を取ることもせず、椅子や机とともに派手な音をたてて床に倒れた。何を言おうとも反撃も言い訳もせず黙したままの臨也を、華暖は幾度も殴りつけた。
形はどうあれ、そんな風に相手にしてもらえることで、バディである華暖に甘えていたのかもしれない。行き場のない想いを彼に預け、癒してもらっていたのだろう。
後になって臨也はそんな風に考えるようになったのだが、その時は、まずい事に現場が矢杜衆詰め所一階のラウンジであったことから、矢杜衆長まで出てくる騒ぎとなり、華暖は十日間の、臨也は一週間の独房入りを言い渡された。
実際にはニリの動向が急変し、二人とも五日目には独房を出て任務に赴くことになったのだが。
五日ぶりに顔を合わせた臨也の表情は、それまでとは少し違うものになっていた。
独房の中で、彼はすぐに思い出してたのだ。
華暖もまた異国の女性を娶り、早くに亡くしていたことを。
彼女も不治の病に倒れ、幼い子と華暖を遺していってしまったことを。
自分が逃げていたものは、自分だけに訪れた不幸ではなく、誰にでも分け隔て無く当たり前にやってくる現実だった。
かけがえのない伴侶を失った後の世界を怖れ、現実を直視しようとせず、ただ逃げていただけだったのだと臨也は気づいた。
矢杜衆戦闘班のトップクラスに属し、戦いを伴う任務では常に死は身近であったはずだが、安全なはずの国内で自分の身内にそれが訪れることが信じられなかった。
彼女のいない未来が、ただただ怖かった。
自分はこんなにも臆病で弱い人間だ、それでもまだバディでいてくれるだろうかと問うた臨也に、華暖は、先に奥方に謝ってこいとその背を押した。
『次の任務に成功すれば、戦を回避できる。そうしたら君のそばにいる。ずっとだ。約束する』
任務に赴く前、臨也は妻の病室でそう告げた。
彼女はそんな臨也の手を取り、これまでと同じ微笑みをくれた。
『ご武運を。お帰りをお待ちしております』
帰りたいと繰り返す正気を失った妻ではなかった。
病に倒れる前の妻の笑顔だった。痩せて弱ってはいたが、何故かそのときだけは本来の妻の姿に戻っていた。
しかしその約束を果たすことは適わなかった。
予想以上に悪化した戦況に任務が長引き、彼が戻る事ができたのは彼女が亡くなってから一週間も経ってからだった。
すでに彼女の身体はこの世にはなく、小さな箱に収められた一握りの灰と一房の髪の毛だけが、臨也を出迎えた。
『……お願い……帰してください』
どうして彼女の願いを叶えてやらなかったのだろう。
矢杜衆の掟に背いてもいい。
故郷に連れて行ってやればよかった。
たとえ残された時間は少なくても、だからこそ、戻してやるべきだった。
悔いても悔やみきれない想いだけが遺った。
深い悔恨が、やがて矢杜衆そのものへの怨嗟へと変化するのに時間は掛からなかった。
妻の死から数ヶ月後、臨也はイカルから姿を消した。
追っ手を振り切りながら、傭兵となって諸国を渡り歩く日々の中で、臨也は幾度も彼女の故郷を訪れようとした。
しかしその度に、細くしなびた手と濁って潤んだ瞳が彼を苛み、北へと向かう足を留めていた。
西の空が薄桃色に染まっている。
冷たく乾いた風が、臨也の薄汚れたマントをはたはたと翻す。
臨也は小さな集落を見下ろす小高い丘の上に立っている。
粗末な家が二十ほど連なるだけの小さな村だ。
家々からは静かに煙が立ち上っている。夕食の準備をしているのだろう。
彼らの主食は芋を粉にして水で溶いて薄く焼いたものだ。香辛料を使って煮込んだ野菜や肉などに浸して食べる。臨也の家の食卓にも、しばしばその献立が並んでいたことを思い出す。記憶とともに、匂いと味も蘇ってくる。
ここでいいか?
返事などあるはずもないのだが、胸の内で問う。
跪くと、足元の土を掘り起こし始めた。本格的な冬が来ると土さえも固く凍るのだと妻が話していた。貧しい土地なのだと。
今はまだ冬の初めで、凍てついてはいない。乾いた土はぽろぽろと容易く砕ける。
拳が入る程度の穴ができあがると、臨也は懐から小さな箱を取り出す。美しい彫り物を施した木製の箱だ。
蓋を開けるのは、何年ぶりだろう。
そんなことさえ忘れてしまうほどの日々が過ぎていた。
留め金を外しそっと蓋を開く。
中には、パラフィン紙に包まれた少量の灰と、一房の毛が入っている。
臨也の妻のものだ。
元は薄い金色だったのだが、病に倒れてからは見る見る白くなってしまった。時を経た今は、その白髪さえも色褪せて見える。
「遅くなってすまなかった」
小箱の中の妻に語りかける。
ここはイカルから遙か北にある国・ソムレラの辺境地帯だ。
あれから十年以上の時を経て、臨也はやっと妻が生まれ育った故郷を訪れることができた。
臨也を動かしたきっかけは、この夏の一つの出会いだといっていいだろう。
そのとき臨也は、イカルの東にある国・アカギの全権使に仕えていた。
会ってすぐに汚い男だとわかったが、恩ある人からの依頼だったので断ることもできず、ただ金のために働いていた。
その仕事の中で、華暖に良く似た青年と出会った。
華暖のことを問うと、死んだと答えが返ってきた。
かつてのバディがすでに亡くなっていたと聞いても、すでに渇ききった心は波立つこともなかったが、その青年のことはどうしても頭から離れなかった。
年の頃は二十代前半。
イカルでは珍しい銀の髪をしていた。
華暖の奥方も異国の出身で、見事な銀髪だった。華暖の面影と奥方と同じ髪の色から、二人の血を引いていることは明白だった。間違いなく華暖の息子だろうと確信していた。
バディの息子であるならば、当然、その存在を知っていても良いはずだが、なぜか華暖の息子のことは記憶になかった。どれほど年月が経とうとも、忘れるはずもない事柄なのにと、臨也の中で疑問が湧いたが、その答えは考えて出るものではなかった。
だからだろうか、その不思議な存在の青年に、もう一度会いたいと思ったのだ。
二度目にその者に会ったときは、完全に敵同士という場面だった。
対峙するだけでどれくらいの力量の持ち主かはわかった。
彼の父と同じくらいの、いやそれ以上の技量を持っていると思われた。
久しぶりにぞくりとする相手だった。
華暖に良く似た彼の存在が記憶を揺さぶり、北の地へと足を向けさせたといってもいいだろう。
なぜだか今回は、素直にここへ向かうことができた。
また会うことがあるだろうか。
そしてふと我に返る。
会って、何をしようというのか。
自分は矢杜衆を抜け、彼らから追われている身だ。最近はぴたりと追っ手の姿を見なくなっていたが、それは自分が死んだと思われていたからだろう。しかしまだ生きていることを、矢杜衆に知られてしまった。新たな追っ手が来るかもしれない。
いや、もうすぐそこまで来ているかもしれない。
追っ手があの青年だったら……。
臨也は自分でも説明不能な想いを断ち切るように、小箱の蓋をぱたんと閉じる。
穴の中にそっと置き、上から土をかけて埋める。土はすぐに周囲と同化し、どこに埋めたかもわからないほどになる。
もう来ることはないだろう。
最後にもう一度だけ妻の故郷を見下ろすと、臨也は無駄のない所作で立ち上がると同時にクナイを一本、後方の木へと投げつける。
鉄の塊が、幹を抉り深く突く音が響く。
「物騒なご挨拶ね」
臨也の予想通りの声で、返事が返ってきた。
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