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はじまりの日(2)

 揺れ動く蒼い焔のようなそれは、四肢を地に着けた獣の形を成し、やがて犬と分かる輪郭を生み出す。馬の鬣のように長い毛が蒼白く燃え上がるオーラとなって天へと靡く。

 真鳥の左胸に刻まれた印とまるで同じ姿が宙に現れる。



「犬神……」



 犬神は新緑の森と同じ色の瞳で、まっすぐに真鳥を見下ろす。

 その翡翠の色に、どこかで出会った気がした。真鳥が記憶を探ろうと瞼を眇める。



『我を覚えているか』



 犬神は静かに問う。

 その言葉に導かれるように、真鳥の脳裏に、映像が浮かび上がる。

 あれは、矢杜衆の修業を始めたばかりのまだ幼い頃だ。

 イカルの北の杜で、普段は足を踏み入れない場所に迷い込み、そこで不思議な白い犬を見た、ような気がする。



「以前、イカルの北の杜で会った?」



 矢杜衆のシンボルともいうべきその形を見間違えたりはしない。けれど覚えているのは犬っぽい輪郭だけだった。

 なぜ犬神を見たのか。

 そこで何があったのか。

 その後、どうしたのか。

 子細はまるで思い出せない。

 考え込む真鳥に、犬神が近づいてくる。



『覚えていなくても当然だ。我が封印したのだ。けれどおまえの願いを一つだけ叶える契約が、その時に為された。お前の魂が今、それを望んでいる』



 犬神に貸しを作った記憶は無い。

 けれど縋るものは他に何もない。

 絶対に訪れない助けが、届いたのだ。

 それも、神に。



『我が名はクロウ。その者を助けたいか』



 犬神の言葉が真鳥の頭に響く。

 真鳥の全身に震えが走る。

 神の言葉を直接受けて、畏怖に震える。

 


 真鳥は、一度、きつく瞼を閉じてから、まっすぐに犬神を見据えた。



「助けられるのか」

『その者の命は消えかけている。命一つを繋ぐには、それ以上の対価が必要だ。おまえへの借りで補っても、まだ足りない』

「オレはどうすればいい」

『記憶をもらおう』

「記憶を?」

『おまえのではない。おまえを取り巻くすべての人間から、おまえの記憶をもらう。そのとき生じる力を利用すれば、この命、繋ぎ止めることができよう。ただしイカルへ戻っても、誰もおまえのことを知らない。おまえの存在は、記録には残っていても、人々の記憶にはなくなる。忘れ去られた存在となる。待っているのは孤独な世界だ。それでも良いか』



 一颯が生きる。

 そして自分も生きる。

 それ以上に望むものなどない。



『その男も同様だ。おまえのことを忘れる。おまえと過ごした日々も、おまえと繋いだ絆も、互いに築き上げた信頼もだ。それを覚えているのはおまえだけ。そんな世界に堪えられるか』



 真鳥は、そこに横たわる一颯の顔を見る。

 陽に灼けた肌は汚れ、色を失い、琥珀の瞳は自分を映さない。もはや苦痛からも解放されてしまったかのようにその表情は安らかで、流れ出た血の分だけ鍛え上げられた重いはずのその身体も軽くなってしまった。

 渡会一颯のいない世界が、すぐそこまで来ている。

 それは今の真鳥にとって、闇でしかない。



 矢杜衆の子として生まれ、幼い頃から戦い方を叩き込まれた。最年少で杜仙まで登り詰め、戦いの中でしか生きる道のなかった。そんな真鳥に、戦い以外の世界を教えてくれたのは一颯だ。



 戦うために食事を摂る真鳥に、誰かと共に食す食べ物や酒の美味しさを教えてくれた。家は身体と心を休める場所だといい、布団を干したり、家の掃除をしたり、そういうことを真鳥に叩き込み、人間らしい生活を取り戻してくれた。人との馴れ合いが煩わしく、とりあえずヘラヘラと笑っていればいいだろうと思っていた真鳥に、人と繋がることの豊かさを教えてくれた。



 一颯と過ごした様々な時間が甦る。



『さっきの何? オレの頭をグリグリって。なんで触ってくんの?』

『先輩、あれは隊長からのご褒美みたいなものですよ』

『褒美を貰うようなこと何もしてないけど』

『この任務が成功したのは先輩の機転があったからです。だからよくやった、ってことですね』

『任務なんだからそんなの当たり前でしょ』

『それでもあなたは隊長を満足させた。あの隊長が誰かを褒めるなんて珍しいんですよ。ここは素直に受け取っておけばいいんです』

『よくわかんない』

『つまり、あの隊長は先輩のことを気に入ったってことです』

『オレがオマエを気に入っているみたいに?』



 そう言った真鳥に、一颯は顔を綻ばせた。

 その時の一颯の顔を思い出せば、いつも胸の内側が暖かくなる。

 知らず、真鳥の顔に笑みが浮かぶ。



「この世界に、いま以上の孤独などないよ」



 真鳥と一颯を見つめるその眼差しを更に深い翠に染め、犬神は低い声で唸る。



『その覚悟、確かに受け取った』



 森の匂いが一層強まる。

 犬神を包む蒼い光が、白銀へとその明るさを増していく。

 目が眩んだ。

 一颯の身体に顔を埋め、真鳥は祈るかの様にその名を呟いた。



 イカルの西に連なる山の一点から光が拡散し、世界を駆け抜ける。

 瞬きよりも短い一瞬に、すべてが終わっていた。



 その日、世界が白い光に包まれたことを覚えているのは、ただ一人だけだった。



読んでくださりありがとうございます。

次の更新は明日(9/5)となります。

よろしくお願いします。

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