宿題
「先輩」
ポイントゼロは、夜営のささやかな談笑さえ届かない、寒空の下、静かな闇の中に沈んでいる。
キャラバンの野営地をすべて見渡せる小高い丘の木の上から、一羽の梟が優雅に舞い降りるかのように、白っぽい塊が、ふわりと一颯の目の前に着地する。
「一颯、行ける?」
「はい。いつでも」
真鳥は纏っていた外套を脱ぐと、木の根元に向けて投げる。星明かりの中で、黒衣に身を包んだ真鳥の、イカルでは珍しい銀の髪だけがぼんやりと浮かび上がる。
「ポイントゼロを中心に、半径二キロでいく。おそらくまだ盗賊はいないけど、念のためってことで」
真鳥の言葉に、一颯は頷いて応える。
「イカルを出てまだ二日ですからね。奴らが出てくるとすれば、明日の夜のポイント辺りからでしょうね」
「そ〜だね。まあ、今夜は予行演習ってことで。いこっか」
「先輩」
すぐにでも闇にまぎれ込みそうな真鳥を、一颯は引き留めた。
「な〜に?」
「あの、ちゃんとメシ食ってます?」
「食べてるよ? なんで?」
「いつ食べてるのかわからないからです。イカルを出てから、みんなの前で食事したことありませんよね」
「よく見てるよね、オマエ。そんなに心配しなくても、ちゃんと食べてるって」
「でも先輩、少し元気がないから」
真鳥の内側が揺り動かされる。
狼狽を瞬時に隠し、自分よりも少しだけ上背のある一颯を見上げる。
一見すると黒だが、光が差し込むと琥珀色に染まる不思議な色の瞳は真っ直ぐ真鳥に向けられている。
自分を案じる誠実な瞳は、昔のままだ。
真鳥の胸に、ふわりとした温もりが宿る。
自分が唯一心を預けることができる人物、それがかつての渡会一颯だ。
その一颯からも、真鳥の記憶は消えた。
巫女誘拐の最後の戦いの後、治療院で一颯と再会したときの感情を今もはっきりと思い出すことができる。
バディであることについて、真鳥が問うたときだ。
一颯はこう言った。
『正直にいえば実感はまだありません。けれど、僕があなたをバディに選び、あなたが僕を選んだという事実を犬神様は消さなかった。それで十分です。しばらくは戸惑うかもしれませんが、これからもよろしくお願いします。八束さん」』
手を差し出されたとき、目の前にいるのは一颯なのに、もう二度と、自分の友だった一颯には会えないのだと感じた。
それでも、初めましてと言われなかった。
それだけで、心の底からの安堵似包まれた。
初めての一颯との任務は、アカギ国へ矢杜衆特製の薬を届けることだった。実際には薬を届けたあとに取った休暇で向かった一颯のなじみの村が、その土地を治める全権使の命により焼き払われるという大事件に巻き込まれたわけだが。その時の騒動を通して、一颯は真鳥に新しい信頼をみせてくれた。一颯本人が変わってしまったわけではないのだと、気づかされた。
ならば、もう一度、やり直せばいい。
もう一度、最初から……。
真鳥のその願いに呼応するように、一颯との距離は少しずつ縮まりつつあった。
昔も、今も、同じように、一颯はその実直な性格のまま、そばにいる。
元気がないのでは? と心配をしてくれる。
今回の長期任務の出発前から抱え込んでいた灰色の感情がふと和らぐ。
「なんでわかるのよ? オレ、フツーよ?」
「だって、今回は任務に生きたうなぎ持ってきてないし」
「持ってきて欲しかったんだ?」
真鳥はニヤっと笑って見せる。
「断じて違いますけど! でも前回と感じが違うっていうか」
一颯の鋭さに、真鳥はふっと息を吐き出す。それは白い水蒸気となって、すぐに冬空に溶けていく。
「そりゃあね〜、今回の任務は長いし、ほとんどが野営になる。それに真冬だからね〜」
「冬だから、ですか?」
「うん」
「冬、嫌いなんですか?」
「嫌いではないんだけどね〜」
そう答える真鳥の目は、遠い日を思い出していた。
雪が積もっていた。
寒い日だった。
幼い自分を我が子のように可愛がってくれた父の親友は、その日、イカルから姿を消した。
たった独りの肉親である父まで失うのではないかと、恐かった。
父と二人、いつまでも男が消えていった森を見つめていた。置き去りにされたような気がして、ひどく悲しかった。
ああ、だからか……と真鳥はふいに納得する。
今回チームを組む奏羽たちと上手くいっていないことだけで、これほどまで心が塞いだりはしない。
あの日が冬だったからだ。
悲しさと恐れに震えた、あまりにも寒い冬だったからだ。
彼の強く広い背中を思い出す。
父の親友であり、現矢杜衆長である伐瑛至ばつえいしとともに国を護るために命をかけた男であり、幼い自分が憧れた矢杜衆でもあった。
ほんの数ヶ月前に、真鳥はその男と東の国アカギで再会した。
あのとき雪の積もる森へと消えた男は、矢杜衆である真鳥と一颯の前に、敵として立ちはだかった。対峙しただけで、敵う相手ではないことがわかった。十数年もの放浪の月日は、彼の能力を奪うのではなく、鋭利な刃物のようにさらに研ぎ澄ましていた。
矢杜衆を抜けた者は、矢杜衆に追われる身となる。けれど真鳥は、彼との接触を長に報告することができなかった。共にいた一颯にも、その正体を告げなかった。
彼は、アカギ国で起きた騒動に紛れ、再び姿を消した。
彼の名は、土師臨也。
彼が捕らえられたという話は聞かない。
今もまだ、どこかで傭兵崩れのようなことをして生きているのだろうか。
余計なことを思い出させるのは、紛れもなくこの冬という季節だ。
あの冬の日は今も真鳥の中に深く絡みつき、そして彼との再会が彼を忘れることを許さない。
「やっぱり嫌いかも。ん〜、でも冬自体は嫌いじゃないし」
「どっちですか」
「じゃあ、嫌いってことにしといて」
やはり以前とは違う真鳥を、一颯はそれ以上、問い詰めることはしなかった。
この人は、何か大きなものを抱えている。
初めて同じ任務になったときから、一颯にはそんな気がしてならない。
けれど、それを引きずり出す権利は自分にはまだないことも理解している。
会う前から、興味はあった。
会ってみたら、噂以上に奇妙な人だったとわかった。
アカギ国での任務が終わってみれば、彼とともに在りたいと、もっと彼を知りたいと、強く望んでいた。
あれから数ヶ月。
やっと同じ任務に就くことが出来た。
奏羽や帆岳たちよりは八束真鳥という人を理解しているが、知っていることはそう多くはないのだと、思い知らされる。
一颯は小さく息を吐き出す。
「わかりました……。でも、ちゃんとメシ食わないと、身体、持ちませんよ。さっき帆岳も心配してましたし」
「帆岳が?」
「はい。あいつはあの通り人懐こいんで、すぐ輪の中に入っていくタイプですけど、だからなのか、環の外もよく見えるそうです。ちゃんと見てましたよ。先輩が食事してないみたいだって、僕に確かめるよう言ってきました」
「ふーん、面倒見がいいんだ」
「優しい男ですよ。黙って立ってるとそうは見えませんけどね」
「で?」
「でって、何ですか?」
「それだけじゃないでしょ? お節介の帆岳が言いたいことは」
「お節介って……」
「違った?」
真鳥の鋭い指摘に、一颯は口をつぐむ。つぐんでから、その行動が肯定だったことに気づき、一颯は落ち着かなく身じろぐ。足元の枯れ葉が砕ける音が響く。
この人を相手に、誤魔化したり、隠したりはできない。
一颯はそう悟る。
隠すことではないからと、口を開く。
「先輩と奏羽の関係についても心配していました。任務に差し障りがあるんじゃないかって」
「だからって、どうすることもできないよ。信頼なんて、一晩で得られるもんじゃないでしょ〜よ」
真鳥の思いがけない冷たい言葉に、一颯の中で小さな火花が弾ける。
「でも、お互いに歩み寄ることは必要だと思います」
「何、道徳の本みたいなつまんないこと言っちゃってんのよ」
「どういう意味ですか、先輩」
「そんな見せかけだけのもん、いらないって言ってんの。オレは仲良しチームなんて求めてないよ」
まただ。
この人は、近くなったと思えば、すぐに遠くなる。
任務に生きたうなぎを持ってきてにこやかに捌けと命令し、温かいスープを強請ったのとは、まったく違う人間だ。
今の真鳥は、アカギ国オルトゥスの元全権使ラケルタを追い詰め、彼に剣を向けたときと同じ目をしている。
任務には冷酷だ、という噂が一颯の脳裏を掠める。
どちらが本当の八束真鳥なのだろうか。
知りたい。
その願望が一颯の心を支配する。
「先輩が求めるものってなんですか?」
「わからない?」
一颯の前で、真鳥は僅かに首を傾げていた。まるで、わからないことが理解できないとでも言うように。
「!」
身体中の血が白熱した気がした。
羞恥なのか、何なのか説明のつかない感情が、一瞬のうちに一颯の中で渦を巻く。
真鳥はそんな一颯を見て、ふっと笑った。
「宿題だ〜ね」
「は?」
「この任務が終わるまでに、見つけること」
「なんですか、それ!」
真鳥は一颯の抗議に構わずに歩き出す。
「偵察、行くよ」
「ちょっと、待って下さい! 先輩!」
真鳥は一颯の声を背に受けながら、笑っていた。
さっきまで、自分は何を憂いていたのだろう。
奏羽から信頼されていないことなど、取るに足らないことではないか。
自分たちに与えられた任務は、このキャラバンを無事に北の国ソムレラの首都ウルマスまで送り届けること。任務遂行にチームワークは必須ではない。計画と準備と連携だけだ。チームワークなど結果論だ。
矢杜衆の任務を全うするために必要なのは……
「オマエはちゃんとわかってるはずだけどな」
そして、同じものを奏羽も、帆岳も持っているはずだ。
真鳥の言葉は一颯には届かずに、踏みしめる枯れ葉の中に落ちて消える。
「先輩!」
「ありがと」
「は?」
一颯の顔に疑問符が浮かんでいる。
真鳥はそれを見て、笑う。
いつの間にか、冬の痛みが消えている。
ちらつく臨也の顔も消えている。
ぎこちないチームへの不安も、もう感じない。
一颯がここにいる。
その存在に救われている。
それを真鳥はうまく言葉で説明することはできない。
そのままを伝えても、すべてを忘れた一颯には通じない。
だから、「ありがとう」という短い言葉だけに、すべての想いを込める。
「偵察が終わったら、一緒にご飯食べよっか」
「どうしたんですか? 急に」
「一緒に食べたくないの?」
「いえ、嬉しいですけど……」
「じゃあ、いいじゃない」
「なんか色々すっきりしないんですが」
「オレはすっきりしたよ。まだ旅は始まったばかりなんだから、一颯はゆっくりすっきりすればいいよ」
「はあ」
納得できない一颯を置いて、真鳥は冷たい空気を裂くように、まっすぐに駆け出す。
一颯も、納得できない気持ちのまま、走り出す。
彼らの背後で、穏やかなキャラバンの火が楽しげに揺れている。
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