奏羽
上弦へと向かう月が、西の山の端に消える。
遙か彼方から届いた星々の光が、瞬きを繰り返しながら、地上へと滑り落ちていく。
肌をさす初冬の夜気が重く降り注ぎ、真っ直ぐに立つ焚き火の煙を中空で押し留める。枯れた枝を焼く匂いが、途中から真横にたなびく煙とともに北の平原へゆるりと溶け出している。
一頭の馬が、小さく嘶く。
葉を散らし終えた冬木に繋がれた馬たちは今、思い思いに干し草をはんでいる。
ここまで馬たちが運んできた荷馬車は、今は夜の帳の中で、大切な荷をその内に抱きながら焚き火の周囲を囲うように佇んでいる。
焚き火を囲んだ男たちから、笑い声があがる。
大鍋で煮えるスープと、切り分けられたパンとチーズ、そして、身体を温めるための幾ばくかの酒が、小さな宴の席を彩る。
見たところ、まだ年の瀬、十歳くらいの少年が、身振り手振りを交えながら、高らかに楽しそうな声をあげている。見るもの、聞くもの、食べるもの、それらは少年にとって初めてのものばかりで、そこにある全てに興奮し、心を躍らせている様子だ。彼の無邪気な物言いが、男たちの笑いを誘う。焚き火の熱がまだあどけない少年の頬をピンクに染め、柔らかく美しい金の髪が萌える。
その隣で彼の父親が静かな笑みを浮かべながら、酒を口に含む。
どこの平原でも見かける、ありきたりのキャラバンの夜営だ。
そんな彼らの様子を、闇の中から見つめる者たちがいた。
ジッ
耳につけた無線のイヤホンが作動する。
『定時連絡』
若い男の声が、イヤホンからクリアに聞こえる。
『こちらポイントアルファ、異常なし』
『ポイントベータ、異常なし』
『ポイントガンマ、異常なし』
『こちらポイントゼロ、異常なしだ。ベータ、ガンマは交代で食事を摂れ。一人はポイントガンマに張り付け』
『『了解』』
『アルファはポイントゼロへ。キャラバンの就寝前に、もう一度、周辺チェックに出る』
『こちらアルファ、向かいます』
軽い雑音を発した後、四つのイヤホンは、また沈黙する。
嘶いた馬の鼻面を、無骨そうな大きな手がそっと撫でている。
馬は気持ちよさそうに首を振るう。
その手の持ち主は、荷を積んだ馬車を引き長距離を旅する屈強な馬の横に立っていても、まるで見劣りしないほどの大男だ。黒い衣服の上にベージュの長い外套を羽織り、剃髪した寒そうな頭部をフードの中に隠している。
人の近づく気配に、大男と馬が同時にぴくりと反応する。
「帆岳」
帆岳と呼ばれた大男の前に、小柄な影が現れる。
帆岳と同じデザインの黒い服に身を包み、腕にはこれも帆岳と同じ外套をかけている。さらりと真っ直ぐな髪が、わずかに項を被うくらいのショートカットの女性だ。
「食事、先にどうぞ」
帆岳の前で小首を傾げる仕草は、まるでリスのような小動物を思わせる。帆岳のような大男の前では、まるで子どものような小柄に見えるが、彼女の服の下には、帆岳とほぼ互角に戦えるだけの鍛えられた肉体が隠されている。
「奏羽は?」
帆岳が問う。
「私は帆岳の次にいただくから」
「じゃあ、遠慮無く。さっきからこっちに流れてくる旨そうな匂いで、腹の虫が鳴き止まないんだ」
「だと思ったわよ。相変わらず燃費悪いんだから」
奏羽がくすっと笑う。
「燃費の悪さも愛嬌ってことで。じゃあ、ここは任せたからな」
「了解」
焚き火の方へと向かいかけた帆岳が、ふと、足をとめる。
「どうしたの?」
「他の二人は、食事はどうしてんのかな?」
「帆岳が心配しなくたって、ちゃんと食べるでしょ。曲がりなりにも杜仙なんだから。何もしらない新米矢影じゃないのよ、あの二人は」
素っ気なく言い放つ奏羽の返答に、帆岳は僅かに眉根を寄せる。
「もしかして、おまえ、まだあんな噂、信じてるのか?」
「あんなの頭から信じるほどバカじゃないわ。でもあの人を信じることができないだけよ」
「リーダーだろうが」
「リーダーだからよ」
帆岳は、奏羽の言葉に、彼女に気づかれないくらいの小さな嘆息を漏らす。
「ほら、早く行ったら? キャラバンのみんな、帆岳の話が聞きたいって楽しみにしてたわよ。どこでも誰とでも打ち解けるの、上手いよね、あんたって。まだ会って二日目なのに。人は見かけによらないって、まさにこのことよね。つるっ剥げの大男がおしゃべり好きなんて」
「俺は元々、楽しいことが好きなんだよ。それを言えばおまえだって、あの金髪のちっさい少年と仲良くなってるじゃないか」
「私、あれくらいの弟がいるから、つい面倒みたくなっちゃうのよ。ほら、行った行った」
奏羽は帆岳の背を軽く押して、焚き火へと送り出す。
帆岳の足元で落ち葉の音がする。それもやがて聞こえなくなると、焚き火を囲む男たちから帆岳を迎える喚声が上がった。
賑やかな食事風景は、馬と荷馬車のあるこの場所からは見えない。焚き火の放つ光と、それが創り出す影がゆらゆらと届くばかりだ。
奏羽は、一人、木に背をもたせかけると、十二月の冬空を仰ぐ。
この任務の自分たちのリーダーはちょっとした有名人だ。
今年の春頃から奇妙な噂が絶えない。ちょうど、西の大国ニリとの攻防戦が、一時的に激しくなっていたころからだ。
奏羽は、自分の左手首に、戦闘服の上からそっと触れる。そこには、矢杜衆のシンボルである犬神の入れ墨がある。矢杜衆なら誰でもその身体のどこかに、この印を戴く。巫女と国と民を護る、矢杜衆の誇りだ。
が、リーダーは違った。
入れ墨ではなく本物の犬神を従えて、突如、イカルに現れた。
彼は、宗主である巫女・イトゥラルの命をニリから護った勇士として、その名をあげた。
異国の銀の髪を持ち、容姿端麗なその矢杜衆は、イトゥラルと彼女を護る神殿の女官たちに絶大な人気を誇り、イトゥラルとの結婚話まで浮上している。
噂はそれだけに留まらず、尾ひれをつけてイカル中に広まっている。
彼を慕ってストーカー行為に出るシンパと、犬神の力を借りて矢杜衆を乗っ取ろうとしているのだというアンチの闘いがあちこちで繰り広げられた。明らかに行きすぎた者立ちには、矢杜衆長からの罰まで下るという異例の事態にまで発展した。
彼の名を八束真鳥という。
奏羽の耳に入るそんな風聞は、八束真鳥という人間に不信を抱かせるには十分だった。
そして、そんな相手と同じチームで、これから約一ヶ月の長い任務をこなさなければならない。
真鳥をリーダーとして認めることに、抵抗を抱かずにはいられない。
そして、奏羽が抱くこの不信感を、真鳥も感じ取っているようだった。事前の打ち合わせのときから、真鳥と自分の間には、目に見えない壁のようなものが存在している。
奏羽は、癒し手としての訓練中に培った心理分析の手段を用いて、出来うる限り真鳥の人となりを調べてみた。
真鳥は、帆岳のように誰とでもすぐ打ち解けるタイプではない。どちらかといえば、人と距離を置くタイプだ。冷静で、冷酷な面がみえる。任務が第一で、休日を共にするような親しい友人は殆どいないだろう。
そんな彼が、渡会一颯と接するときだけは気を許している。
最初の打ち合わせのときから、真鳥と一颯の二人の会話の節々から、十を言わなくても互いに伝えたいことを理解できるという関係が見受けられた。
それでも「親友」という匂いはしなかった。
一颯は、真鳥の側で、まるで従者のごとく自然に控えていた。
真鳥は、一颯がそこにいることを当然のことと認識していた。
自分や帆岳とは明らかに違う距離感が、二人の間にあった。
それを仲間はずれだと感じるほど、自分は幼くはないと奏羽は思う。これは、八束真鳥という人間を冷静に分析した結果なのだ。
それでも奏羽は、神経がささくれ立つような感情をぬぐい取ることができない。
任務が始まってなお、リーダーである真鳥の指示に心から従えない。
こんなことでは、任務に差し障りが出てしまう。
矢杜衆として、失格だ。
ピリピリと気が立つ。
「なんでこんな任務になっちゃったんだろう。せめて渡会さんがリーダーだったら良かったのに……」
奏羽のくちびるから零れた言葉は、白い水蒸気の塊となって、葉のない枝の間を昇っていく。
奏羽の目がそれを追う。
敷き詰められた宝石のように輝く星々がそこにある。
また一つ、溜息が出る。
矢杜衆支給の外套を纏う。
向かうは、雪に閉ざされる北の国。
旅はまだ始まったばかりだ。
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