優しい冬の匂い
第3章、スタートです!
そこは、このイカル国で最も静謐で清浄な気に満ちている。
ここを訪れる者たちは、重厚で冷涼な気にイトゥラ神の大いなる加護を感じ、静かに頭を垂れる、イカルの信仰の中心。
……の、はずだった。
「きゃ〜っ!! 巫女様〜っ!」
「あはははっ」
「いけません! お降りください! 危のうございますっ!」
「だーいじょうぶだってばっ!」
「イトゥラルっ!」
「おやめください〜。お願いしますから〜」
若い女性たちの甲高い叫び声は、神聖な空気さえ冬の突き抜ける青空へと軽やかに吹き飛ばす。
ここは、一般の者は決して立ち入ることのできない神殿奥のエリアだ。
本来、静寂に満ちあふれているはずの聖域に、幼い少女の笑い声や巫女に仕える女官たちの騒ぎで満ちあふれていることを、普通の参拝者たちは知るよしもない。
そして今、この場に似つかわしくない者がもう一人、このエリアに足を踏み入れる。
若い男だ。
カーキ色のジャンパーと黒いズボン、黒く丈夫な革靴は、矢杜衆の平時の制服だ。身長は180センチ弱で、体格は細身に見える。しかし、服の下には、矢杜衆の厳しい任務に耐えうる鍛え抜かれた筋肉が隠されている。
男は、少し解れていた銀の髪を、後ろで一つに束ね直す。
この国には珍しい色だ。その銀が、色白の彼の美麗な容姿をより際立たせている。
男は、木々の間を跳ね返る騒々しさに、いつものように、大きな溜息を一つついた。
神殿の奥庭は色づいた木々に取り囲まれ、初冬の昼前の力ない陽射しの中で、朱や黄の葉を散らしている。落ち葉の朽ちるこの時期特有の匂いが、冷えた空気に混じって彼の鼻腔を撫でる。
かさかさと枯れ葉を踏む音が近づいてくる。
白い外套を羽織り、手に大きな籠を持った女官が一人、神殿内の小道を男の方へと歩いている。
一見して矢杜衆だとわかる服装の男を見ると、女官は何事かと眉をひそめたが、その男の銀の髪を視認するや否や、軽く腰を折り、にこやかに会釈する。
男が小さく目を伏せるだけの挨拶を返す。
女官の枯れ葉を踏んで歩く軽い音が、静かに遠ざかる。
ゆっくりとした時間の流れる神殿の空気に、男はしばしほっと息をつく。
が、それも束の間、辺りは再び、喧噪に包まれる。
「巫女様! おやめください〜」
「平気だってば〜、もう、うるさいな。みんな、あたしを誰だと思ってるの?」
涙目で懇願する女官たちを、高い木の枝の上から、まだ年の頃十歳程度の少女が見下ろしている。
枝から枝へと、軽快に飛び移るたびに、空色の長衣が流星のように流れる。髪に挿した銀の飾りが、しゃらしゃらと音楽を奏でる。
「この国を御守りになっていらっしゃるイトゥラ神に選ばれた君主・イトゥラル様です〜っ」
「違うってばっ! あたしはルーの木登り大会の優勝候補だったのよっ!」
「それは巫女様が神殿にあがる前、五歳のときのお話です〜」
「あっ! そんな場所に! その先はっ!」
「誰か〜っ!」
ボキっ
巫女が一歩を踏み下ろした足の下で、軽く乾いた不吉な音が響く。
「あ……」
咄嗟に枝へと伸ばした巫女の白い指先が、冷たい空を掴む。
「きゃーっ!!!!!」
「いやーっ!」
考えられる最悪の事態を想像し、悲鳴を上げた女官達の頭上に、涼やかな声が届く。
「優勝候補が聞いて呆れますね」
イトゥラルはぎゅっと瞑っていた瞼を開く。覚悟していた地面への激突の痛みはまるでなく、代わりに強く温かい腕に包まれている。
「真鳥!」
イトゥラルは、男の首に飛びつくようにしがみついた。
真鳥と呼ばれた男は、落下中の巫女を風が枯れ葉を掠うかのように軽やかに受け止め、そのまま枝から枝へと飛び移り、神殿前の庭に静かに着地する。
巫女が落下するはずだったその場所では、女官たちがぽかんと上を見上げている。何が起こったのか気づいた数人の女官が巫女の方へ走っていく。
巫女の元気な姿を確認すると、一礼し静かにその場を辞す。
まだ十歳のお転婆な可愛らしい巫女と、その前に跪く若く秀麗な矢杜衆の創り出す空間には、誰も入ってはいけないことを、彼女たちは知っている。
巫女は幼い頃から家族と引き離されて神殿で育つ。滅多に外に出ることもない。そんな巫女の唯一の楽しみが、矢杜衆きっての凄腕・八束真鳥との一時の逢瀬なのだ。
かつて、巫女を、西の大国・ニリの手から救った真鳥は、冷たい美しさのある容姿を含めて、神殿に勤める女官たちの憧れの対象だ。イトゥラルが彼を気に入っており、意中の相手と噂されるお二人の時間を邪魔してはならないと、今では密かな協定が結ばれている。
イトゥラルの本当の意中の相手が真鳥ではないと知っているのは、もちろん当の本人たちだけだ。
「イトゥラル」
真鳥は、巫女に対する最敬礼の姿勢のまま、語気を鋭く冷たいものへと変える。
これは真鳥が説教を始めるときのものだと、巫女にはよくわかっているので、思わず肩がびくりと揺れる。もちろん、今回起こした騒動についての小言だろう。
「そんな風にあたしを呼ぶのは、真鳥の他には、女官長か加内永穂か、母さんだけよ」
巫女は口を尖らせて、跪いたままの真鳥を見下ろす。
イカル国のトップに立つ十歳の少女を叱り跳ばすことができるのは、今、巫女が口にした三人と真鳥だけだ。真鳥は矢杜衆長・伐瑛至の片腕である加内永穂の眉間にいつも刻まれている皺を思い出し、ふっと笑う。
「お母上はお元気でいらっしゃいますか?」
「うん、元気! 一昨日、会いに来てくれたよ。一緒にお昼ご飯を作って食べたの」
巫女は少女らしい笑顔で、神殿の台所で母と一緒に食事の用意をした様子を真鳥に語る。聞き手の真鳥も柔らかな微笑を浮かべ、周囲からこっそり二人を覗き見る女官たちの嘆息を誘う。
「あれ? そういえば、クロウは?」
巫女がキョロキョロと辺りを見回す。
「さあ」
「もう! いつも一緒に来てってあれほどお願いしてるのに! みんなは誤解してるけど、あたしが会いたいのはクロウなの! あなたの可愛い白い犬はどこ!?」
「クロウは私の飼い犬じゃないとあれほど申し上げているのに。それに、アレのどこが可愛いのか、さっぱりわかりませんね」
「我もお前にカワイイなどと言われたくはない」
「クロウ!」
ぱっと顔を輝かせた巫女が飛びついた先には、白い犬がいた。
中型犬くらいの大きさの、どこから見てもただの犬だ。
が、普通の犬はしゃべったりはしない。
クロウは、このイカルの土地を民に与えた犬神である。
白い犬は仮の姿で、通常はアストラル体で存在する。蒼白く輝き揺らめく姿を見れば、その神々しさに誰もが跪くだろう。
巫女と国と民を護る矢杜衆のシンボルでもある。矢杜衆ならば、その身体のどこかに、シンボルを戴く。真鳥の左手首にも、犬神クロウが咆吼する姿が彫り込まれている。
イカルの建国時からこの地に住まう神の一族で、現在では伝説と化している。
そんな古い神であるクロウが人前に現れるのは、真鳥がいるときだけだ。
犬神を従える矢杜衆。
今春からイカルを駆け巡った八束真鳥に関する噂のうち、特にクロウ関連のものが、真鳥をさらに奇異な存在へと際立たせている。
昔の借りがあると言い、突然、真鳥の窮地に現れたクロウは、人々の真鳥に関する記憶と引き替えに、真鳥の唯一の相棒である渡会一颯の命をこの世に繋ぎ留めた。
それ以来、真鳥の前に時折姿を現すのだが、神殿ではその力が増すのか白い犬の実体となり、退屈な巫女を慰める存在となっている。
落ち葉の中を転げ回る巫女とクロウを、真鳥は問いかけるような眼差しで見つめている。
犬神は何故、自分の前に現れたのか。
昔の借りとは何だったのか。
それは、未だ、クロウから語られていない。
クロウとの出会いの結果、真鳥を知るすべての人間が真鳥を忘れた。
一颯を助けるためのその代償を後悔してはいない。
外国の血が混じっているために、銀色の髪をしている自分。黒髪の集団の中で、一人だけ異彩を放つ髪のため、好奇の目で見られることも慣れている。
それでも、不意に現れる孤独感に戸惑うことがある。
元々、友人は多くない方だ。しかし、矢杜衆として十数年、生死をかけて共に戦ったことがある仲間たちとの間には、絆と呼ぶに相応しい繋がりがあった。
それらすべてがリセットされたのだ。
ゼロからのスタートならばまだよかった。
けれど、矢杜衆に流れる、犬神と共に矢杜衆に扮した外国人が矢杜衆を乗っ取ろうとしているという噂によって、マイナスの状態から始めなければならないことが、時に、ひどく重く、真鳥にのし掛かった。
今日、神殿に来る前に終えたばかりの次の任務の打ち合わせで、真鳥は自分に向けられた不信感を確かに感じていた。
チームのメンバーはたったの四人。
うち一人がバディの渡会一颯であるという幸運はあるが、自分に対する不信感を隠そうともしない部下二人を抱えて、一ヶ月に渡る長い任務をこなせるだろうか。
矢杜衆の任務ならば、どんな条件であれ、何の感情も抱かず全うしてきた。
それが、今回は上手くできない。
いつになく、過敏な自分に戸惑っている。
長い任務だから?
真冬へと向かう厳しい環境だから?
あからさまな不信感をぶつけられたから?
自分はそんなに気の弱い人間ではないはずだと、真鳥は首を振る。
その原因となる要素がわかれば解決のしようもあるのだが、いくら考えてみてもわからない。
抱えた片膝の上で、真鳥は小さく息を吐く。
それは誰にも届かないはずの小さな嘆きだったが。
「真鳥、どうしたの?」
たった今までクロウと戯れていたはずのイトゥラルの顔が、真鳥のすぐそばにある。
真鳥は顔をあげて、彼女を見る。
衣服や結い上げた髪のあちこちに、色とりどりの枯れ葉をくっつけている。その隣で、前足を揃えてお座りの姿勢をとっている、同じく枯れ葉まみれのクロウが、静かな視線を真鳥に向けている。
矢杜衆なら、誰かが側に寄れば気配でわかる。そう訓練されている。この身に染みついているはずの能力さえ働かないとは……。
真鳥は自分の不甲斐なさに苦笑を作る。
「悩み事なら、話してみてよ。これでも巫女なのよ。イカルの人を救うのあたしの役目なんだからね!」
少しでも真鳥の心を軽くしてあげたい。
イトゥラルはそんな想いから、わざと胸を張り、巫女らしさを強調してみせる。
「イトゥラル直々とは、恐れ入りますね〜」
真鳥は気落ちしていた自分を隠すように、柔和なそうな笑みを浮かべてイトゥラルに向き直る。
「もう! 茶化さないでよ。次の任務の心配事? 真鳥、北の国へ行くんでしょう?」
なぜ知っているのかと問い返そうとして、すぐに思いつく。
矢杜衆長の伐瑛至とイトゥラルは密かに仲が良い。二人して神殿逃亡計画を実行したこともある。それはもちろん加内永穂によって阻止されたが……。イトゥラルが会いたがっているから神殿に顔を出せと真鳥に命ずるのは、いつも伐だ。
それに相手は少女といってもイトゥラル。イカルのことならば何でも知ることができる、という能力があるという。
「さすがイトゥラルですね」
真鳥は笑みを作ってみせる。
「真鳥」
イトゥラルは、その手を真鳥の手に重ねる。
すっと背筋を伸ばすと、瞼を閉じる。
ふいに二人を取り囲む空気が、静謐なものへと変わる。
今までの少女然とした言葉遣いとは全く違う言辞が、その桜色のくちびるから紡がれる。
「北の国ソムレラは、冬に向かっている。とても厳しい冬が来る。新しい春が来るまでに、古い枯れ葉はみな、落ちる」
それは、イトゥラ神に仕える巫女の言葉だった。
イトゥラルの言葉一つ一つを噛みしめながら、真鳥は、北の国・ソムレラへと想いを馳せる。
もうすぐ、雪に閉じこめられる北の国。
長い冬が来る。
けれど、それはただ冬という季節が来ることだけを示しているのではないと、真鳥は理解している。
ソムレラ皇国という国のゆく先を、イトゥラルは真鳥に語ったのだと。
真鳥はそれを心に刻む。
真鳥は、巫女の前に跪き、最敬礼のまま深く頭を下げる。
そんな真鳥に対し、まだ若く幼いイトゥラルにできることは、たった一つだけだ。
「ソムレラまでの旅に、イトゥラ神の加護がありますように」
巫女は真鳥の頭にそっと手を添え、イトゥラ神に代わり祝福を与えた。
「ありがとうございます、イトゥラル」
真鳥が顔をあげて笑顔を見せる。
それから立ち上がり、イトゥラルの頭や肩についた枯れ葉を取ってやる。その間、イトゥラルは静かにされるがまま立っている。
枯れ葉が重なり落ちる音だけが、静謐な神殿の庭に降り積もる。
柔らかな陽射しが木漏れ日となって、二人と一匹を包み込む。
静かなこの空間の意味を、真鳥はまだ気づいていない。
誰よりも優秀な矢杜衆が、我を忘れてぼんやりとできる場所。
溜息さえこぼせるところ……。
きっとクロウも知っているのだろう。クロウは、そんな真鳥にそっと寄り添うように伏せの姿勢をしている。
知らないのは、この人だけ……。
でも、たとえ言葉で伝えたとしても、自分で実感できなければ何の意味もない。
なんでも話して欲しい。
その寂しさも、ぜんぶ。
ここなら他に誰もいないから。
けれどそれを言ったら、真鳥はここへ来なくなってしまいそうな気がする。
だから彼が自分で気付くまで、巫女は祝福を授けることしかできない。
それがもどかしい。
「ね、真鳥」
イトゥラルの髪飾りがしゃらりと美しい音色を奏でる。
「はい」
「あたしはいつだって、真鳥の味方だからね」
「嬉しいお言葉ですね」
イトゥラルは、真鳥の袖をぎゅっと掴む。
「だから無事に帰ってきて」
あなたがゆっくりと休めるこの場所に、クロウとあたしが待っているこのイカルに、帰ってきて。
あなたを待っている人が居ることを忘れないで。
「はい、必ず」
クロウがイトゥラルの足元で、白い身体を伸ばして、ころんと寝転ぶ。
優しい冬の匂いが、二人と一匹を包んでいた。
だいぶ間が開いてしまいました。
お待たせしました。
新しい章がスタートします。
またお読み頂けると嬉しいです。
次の更新は明日(10/28)の予定です。
よろしくお願いいたします。




