はじまりの日(1)
初めはぼんやりと、やがて少しずつ焦点を取り戻した視界は、黒く細長い物体の像を捉える。
真鳥の左手のその先に、それは落ちていた。
艶のある漆黒は砂埃に汚され反射する陽光を鈍らせている。何かの紋様が描かれている。植物らしきものが金で細工されている。
あの紋様は……
一颯の。
刹那、朦朧としていた意識が一気に覚醒した。
跳ね起きようとした身体のあちこちが悲鳴を上げ、真鳥は再び地面に倒れ込む。
「っんっ! げほっ!」
身体中から発する痛みに、息を詰めて耐える。指が地面を引っ掻くが、掴めるものは何も無く、固く乾いた土が爪を汚してゆくばかりだ。
全身を駆け抜けるその痛みが、真鳥に確かな証を与えてくれる。
「い……きてる……」
地面に預けた身体を探るようにそろりと動かしてみる。
幸いなことに骨は折れていないようだが、身体中に打撲と挫傷を負っている。
肉体の痛みに加えて、ひどい耳鳴りと頭痛が真鳥を襲う。じんじんと音を発して痛む頭の中で、散らばった記憶の欠片を必死にかき集めようと試みる。
風を切る音、降り注ぐ火の粉、肉の焦げる匂い、狂ったような心音……
記憶は、五感から生々しく甦っていく。
肺が焼けつくほどの呼気。
生き残った相棒と共に、容赦なく襲いかかる敵の襲撃の中を走り続けていた。
生き延びて、一刻も早く、自国へ知らせなければならない。作戦の失敗と、そして敵国に通じている仲間がいる、と伝えなければならない。
そして、一瞬の隙を突かれ、崖の上から投げ出されたのだったと、思い至る。
落ちていく自分を追うように崖から身を躍らせた一颯の顔を思い出す。最後に見えたものは、一颯の愛用する長刀だった。
「一颯……は?」
あれから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
陽が未だ天空にあることから、意識を失っていた時間は一時間にも満たないだろうと判断する。
真鳥はその左腕を伸ばし、刀に手を伸ばそうとする。
髪を結っていた紐はいつのまにか切れており、伸びすぎた銀色の髪がバサリと顔の半分を覆い、視界を遮る。思わず舌を打つが、口の中はひどく渇いていて音は出ない。
伸ばした指先が鞘に取り付けられた紐の一端に触れる。
土ごと握りしめ、引き寄せる。
長刀を地面に突き立て、縋るように身体を持ち上げる。
視界で揺れる銀の髪、その向こうを探る瞳が何かを捉える。
黒い塊。
墨色の長い上着がその大半を隠しているが、よく見れば人の形をしている。投げ出された長い手足は操り糸がふつりと切れた人形の様に、動く意志を感じさせない。
心臓がどくんと波打つ。
縋るように手にしていた刀をかなぐり捨て走り出す。感情だけが先走る。制御しきれない足は当然の如く絡まりそのまま倒れ込む。けれど真鳥は前進を止めようとはしなかった。
もはや痛みさえも忘れていた。
地面を這いずりながら、腕を伸ばす。
黒い衣に指を絡ませ、重い身体を一颯へと引き寄せる。その頭部を腕の中に掻き抱く。
「一颯」
閉じたままの瞼は真鳥の呼びかけに応じない。
顔の裂傷には凝固しかけた血が痛々しくこびり付いている。
一颯の身体を抱える自分の手が濡れる。ぬるりとした感触と、思い出したように急に襲い来る血の匂いに、呼気さえも忘れている自分に気づく。
彼が倒れていた場所には、赤黒いシミが流れ出したその量を見せつける様に広がっている。
止血しなければ……
頭では分かっているのに、自分の身体が思うように動かない。
一颯を強く抱きしめたまま、岩にでもなってしまったようだ。
一颯の首筋に脈を感じる。
ひどく弱い。
生から死へ、一つ打つ毎に真鳥の手の中からゆっくりと零れ落ちていく。
それを留める術を、今の真鳥は何一つ持っていない。
「オレなんか庇って……」
あの時、近くに仕掛けられていた爆薬に気づかず崖から落ちていくのは、真鳥一人のはずだった。痛みはあるものの一颯が負ったほどの酷い傷や骨折がないのは、一颯が風の術だけでなく、その全身で真鳥を庇ったからだろう。
傷だらけの一颯を抱く真鳥の手に力が籠もる。
以前の真鳥ならば、迷うことなく一颯を置いて矢杜衆長に知らせるべく首都ルーへと走っていただろう。
どんな状況でも任務を遂行し、イカルへ帰還する。
たとえ友の亡骸を戦場に置き去りにすることになっても、全うする任務があるなら感情に流されない。遺された家族に冷酷だと罵られようと、感情が揺らいだことはなかった。置いて行かれるのが自分であっても、その状況を受け入れただろう。
それはすべて、イカルを護るために必要なことだからだ。
任務には非情に徹する。
矢杜衆であった父から叩き込まれたことだった。
内部に裏切り者がいるならば、今このときも情報は漏洩し続けているといってもいい。今宵にも敵の手が巫女へと伸びるかも知れない。イカルは今、そういう危うい状況に置かれている。
もし、今の一颯に意識があれば、彼は迷いなく、自分を置いていけと言うだろう。
わかってる。
それでも……
「できるわけ、ないじゃない」
真鳥の渇いた唇から苦痛を噛み締めるような声が零れる。
真鳥は気づいていた。
自分が以前とは違うことを。
まだ息のある仲間を置いていくことなどできないことを。
「だって、オマエが教えてくれたんだよ。何にも興味を持てなかったオレを、同じ矢杜衆の仲間からも冷たい人間だって言われていたオレを、オマエがこんな風に変えたんだよ」
『どんな状況でも、一緒に生き抜くことを考える、それがバディだと思います。僕は、あなたと共に生きることを誓います』
一颯が真鳥にバディを申し込んだとき、真鳥は「バディとは何か」と問うた。
それが一颯の答えだった。
この命に替えても相手を護る。
もし一颯がそう答えていたら、バディは組まなかった。命を投げ出して護られて、その後、独りこの世に遺された自分はどうしたらいいのか。そんなものは一方的な自己満足に過ぎない。ならば最初から独りがいい。大切なものが何も無ければ、無くす必要もない。
だからバディも必要ないと考えていた。
それが八束真鳥の生き方だった。
けれど……
一緒に生きよう。
すべてを投げ捨てたような自分に、一颯はそう告げた。
そして一颯はその言葉を実行した。どんな逆境でも諦めなかった。二人が共に生き残る道を迷わず選択した。
だとすれば、最後の爆風に飛ばされたときも、一颯は自分を犠牲にするつもりなどなかったはずだ。二人が助かるために彼は飛んだのだ。
一颯は、その身体の中で近づく死に対して抗っている。
弱いけれど、必死に脈打とうとしている。
それが一颯の誓いの証でなくてなんだというのか。
一颯を連れて帰る。
医療院まで連れて行く。
「まだ逝っちゃだめだよ。一緒に生きるって約束したよね。オレがちゃんと連れて帰るからね。一颯」
友の名を呼ぶ。
返事はない。
大量の血液を失った顔は青白く、とても静かだ。
「このまま逝かないよね……? 約束、忘れてないよね?」
真鳥の問いかけに呼応するかのように、一颯の身体が小さく痙攣を起こす。
「一颯」
死は、両親を奪い、仲間を奪い、それだけでは飽き足らず、今まさに最後に残った大切な者までも奪おうとしている。
無慈悲な神を憎いと思った。
同じ心で慈悲を乞う。
助けてくれ。
これ以上、奪わないでくれ。
真鳥は、ゆっくりと冷えていく一颯の身体に覆い被さる。
そんなことをしても逃げていく体温を止められるわけもない。流れる血は制御不能だ。
「いくな」
逝かないでくれ。
一颯を助けるためならば、どんなことでもする。
イカルの神がだめならば、異国の神にでも跪こう。
神の地に行けば助けてくれるというのならば、あの崖にさえ飛び込もう。
祈りに反して、一颯の脈がゆっくりと遠のいていく。
「誰か、助けて」
真鳥の小さな叫びが、岩と樹木の中に吸い込まれ、消える。
小鳥のさえずりはおろか、小さな虫の蠢きすら感じられない息苦しいほどの静寂の中に、真鳥はたった一人、取り残されようとしていた。
その時だ。
一陣の風が真鳥の銀の髪を揺らし、一颯の服をハタハタと翻す。
真鳥と一颯に触れたその風は次々と枝を揺らし葉を落としながら、周囲へと広がっていく。
左胸が熱を帯び始め、一颯の上に伏していた顔をあげる。まるで火傷でもしているかのようにビリビリと痛みが走るその場所を、汚れた服の上から血に染まった手で押さえる。
その場所には、天に向かって咆吼する犬神の姿が刻まれている。
矢杜衆ならば、誰でもその身体の何処かに刻む矢杜衆のシンボル、犬神の印だ。
それが灼けるように痛む。
「なんで……」
周囲の空気が異様なまでに温度を下げていることに気づく。
ただ冷たいだけではない。イカルの山より流れ出る清流で身を清めている様な清涼感に包まれている。
顔を上げた真鳥の正面で、渦を巻いた風が一点に集中していく。
目をこらし、その中心を見据える。
蒼白い焔のようなものがゆらりと現れる。
『我を呼んだか』
低く唸るような声が、真鳥の脳内に直接、響いた。
矢杜衆は、基本、ツーマンセル2人行動が基本になります。
そこから、2,4,6と作戦の規模によって人数を変えて行きます。
基本のツーマンセルは、バディ(相棒)と呼ばれ、基本的には1度決めると変更は出来ません。
お互いに背中(命)を預ける相手となり、本当に自分の命を賭けるので、バディ選びは慎重かつシビアなものになります。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
本日の更新が遅くなってしまいました。お待たせしました。
次回の更新は、明日9/4(月)です。
よろしくお願いします。




