黒い影(1)
ウェルテクス村を含む、アカギの南東地域を治める全権使ラケルタ・カウダは、特別に設えさせた椅子に、その肥えた身体を埋めていた。
開いた窓から、夕刻の涼やかな風が執務室へと流れ込む。
微睡みに引きずられるように瞼を閉じていたラケルタに、柔らかな声がそっと覚醒を促す。
「全権使」
「……う……ん」
「ラケルタ様……主様」
白く美しい手が、ラケルタの腕をそっと揺する。
「あ? あー、マイカか。どうした? もう晩飯の時間か?」
「主様ったら、夕食にはまだ早うございます。臨也が参っております。奥に通しますか?」
マイカが艶然と答える。
「臨也か。執務室ではまずいな。奥へ行こう。先に通しておけ。儂は後から行く」
「かしこまりました」
淡い水色の長衣の裾をさらさらと流しながら、マイカは執務室を後にする。
その後ろ姿が消えるまで舐めるように眺めてから、全権使は室の隅に控えていた小間使いを下がらせる。周囲に誰もいないことを用心深く確かめる。
椅子と同じく、やはり特注させた執務机に仕掛けた隠し棚を開き、慎重な手つきで一冊の古書を取り出す。
表紙の上を、肉の付いた太い指でゆっくりと撫でる。
それは、古い文字で記された黄ばんだ本だ。古語の知識のある者ならば、アカギ国のある村の歴史を綴った歴史書であることがわかる。けれど、それが全てではなかった。
そこに巧妙に隠し込まれた暗号は、あるものを示している。
神々の門。
人が立ち入ることのできない光溢れる場所。
黄金の眠る地。
それが、この本の真価だった。
父よりこの領地を引き継ぐ際、この古書と迷信じみた話を受け継いだ。ラケルタは父の話を信じ、以来、ずっと黄金の眠る地を探し続けている。
自分は今、もう少しで光に手の届くところにいると思うと、湧き出てくる笑みを抑えることができない。
どこか遠くへ泳いだラケルタの目には、宮殿の謁見の間へと続く豪奢な回廊を、大勢の共を引き連れて優雅に歩む自身の姿がはっきりと映っている。国王の右隣、今はあのルーベース・グラウェが座る席が、もうじき手に入る。自分がその席に座る英姿に、暫しの間、酔いしれる。
「長年の夢がもうじき叶う……」
ラケルタは薄笑いを浮かべたまま、古書を布で包み大切に腕の中に抱えると、奥の私室へと移動した。
「臨也、こんなに早く戻るとは思わなかったぞ。上手いこといったのか?」
部屋に入るなり、ぞんざいな口調で問うた。
ラケルタが精細に作り込まれた長椅子に落ち着くまで、顔を伏せたままの姿勢で待っていた臨也は、すっと視線を上げる。
「御前」
臨也は、テーブルに酒肴の用意を調えているマイカをちらり見やる。
「よい、気にするな。この者は今や儂の秘書じゃ。表も裏も、どちらの仕事も取り仕切っておる。ここまで役に立つとは思わなんだがな」
マイカの滑らかな腕をするりと撫で、くくくと下品な笑い声で笑う。俗悪な行為に、臨也はそっと眉を顰める。
ラケルタはマイカを下がらせることなく、「して、首尾は?」と、話を続ける。
臨也が観察するような鋭い視線を、ほんの一瞬、マイカへと向ける。その気配を察知したのか、彼女は臨也にだけわかるように微笑を見せる。
年は三十前半だろうか。金の髪は明らかに北の国の出身であることを示している。
北の国・ソムレラでは、身分の高い者ほど金髪碧眼が多い。女の双眸は灰青色であるが、階級制度の中で高位に属するだろうことは容易に想像できる。貴族、あるいは皇族を名乗ってもおかしくはない。
そんな高位の女がなぜ、他国の一地方を預かるだけの全権使に、身を捧げるような真似をしているのか。
臨也の直感がマイカに対する警告を発する。
マイカは、ただの夜伽のための女ではない。
いつの間にか、さり気なく、重要な位置に付いている。
明らかに以前とは違う、ラケルタのマイカへの対応。この短期間に、ずる賢く用心深い男から、そこまでの信頼を得るとは、尋常ではない。
幻術や特殊な薬を用いればそれも可能だが、ラケルタにその兆候は見られない。
だとすれば、何か別の方法を用いたということか。
この者は何者なのだ?
浮かび上がる疑惑を、ラケルタやマイカに悟らせることなく、臨也は報告を続ける。
「御前がお持ちのその古文書は、その後の調べで二分冊であることがわかりました」
「なんじゃと?」
ラケルタの指が、膝に載せた古文書の上でぴくりと反応する。
「そちらの地図には、金鉱のある大まかな場所が示されておりました。ウェルテクス村の禁足地です。しかし、実際に金が埋まっている場所は、地下。恐らくは洞窟あるいは古い坑道を辿った先にあると推測できます。御前がお持ちの古文書にはその入り口や道順は示されておらず、対になる本がもう一冊あることが、暗号として記されていました」
「その本を見つけたのじゃろうなっ?! 誰が持っておる! どこにあるのじゃ?」
「あの村にあることは突き止めたのですが、残念ながら、入手できませんでした」
興奮気味のラケルタの問いに動じることもなく、臨也は淡々と答える。
「お前ともあろう者が何をぐずぐずしておる。村人全員を締め上げてでも、吐かせればよかろう」
「その通りに致しました。村人と家族を人質に、村長に尋ねましたが、家族を殺されても口を割りませんでした。村人たちを一掃してから捜索しようとしたところ、邪魔が入りました」
臨也は、自分の左手の甲に視線を走らせる。
一筋の紅い傷。
とうに血は止まっているが、熱を持ち疼いている。
あの時、炎の向こうから自分を見据えた鋭い眼光。
あれは。
「邪魔?」
ラケルタの声が、臨也の回想を遮る。
ラケルタの前で深く頭を垂れながら、臨也が報告を再開する。
「矢杜衆が二人、現れました」
その言葉に、主人に酒を注ぐマイカの手が、ほんの一瞬、反応したのを臨也は見逃さなかった。ラケルタはそんなマイカにも臨也にも気づかない。
「何? 矢杜衆だと? あのイカルのか?」
「はい」
「何故だ? 何故、矢杜衆が……まさか、気づかれたのか?!」
「わかりません。ただ、あの村は二年前の大災害の時に、矢杜衆が復興作業に参加しています。恐らくその関係者かと思われます。一方の男は村の地理に詳しい様子でした。偶然立ち寄ったか、復興後の様子を視察に来たか、でございましょう」
ラケルタは腕を組み、低い声で、ううむ、と唸る。
ふいに何か思いついたように伏せていた目をあげ、臨也を睨め付ける。
「お前の知っている奴らだったか?」
「……いいえ」
臨也が答えるまでのそのわずかな間に気づいたのは、マイカだけだ。
「お前を追ってきたのではあるまいな? 元・矢杜衆であるお前を……」
臨也は無表情のまま、しばし考える。
矢杜衆は特殊な能力を持つ。それ故に、その知識も技術も、そしてそれらを身につけた人間自体も、門外不出でなければならない。
一度、矢杜衆となった者は、イカルを出て他国の国民になることはできない。例えどのような理由があろうとも、国を抜ければ矢杜衆に追われる身となる。
イカルを出た当時のことを思い起こす。
イカルという国も、矢杜衆も、矢杜衆である自分も、すべてが嫌になって国を捨てた。
昨日まで仲間として共に戦った者が、次の日には刃を向けてきた。
理由など問われなかった。
殺さなければ、殺される。
そうした日々が、数年、続いた。
かつての同胞を手にかけることに、なんら躊躇いはなかった。倒れ伏した者たちをただ哀れだと思った。
執拗なまでに自分を追っていた影はやがて消えた。
もう二度と、関わることはないだろうと思っていた。
臨也は、小さな溜息で過去を押し流し、ラケルタの問いに答える。
「……それはないと思います。私が抜けたのは、もう十五年も前のこと。それから様々な国で傭兵をしていましたが、数年で追跡の手は完全に消えました。大きな戦いにも参加しましたし、もう死んだと思われているかもの知れません」
「臨也」
「はっ」
ラケルタの鋭い声に、臨也は頭を下げ畏まる。
「儂は、今が転機。やっと巡ってきた運を逃すわけにはゆかぬ。儂はこんな田舎で燻っているような人間ではないのじゃ。金を掴み、中央へ出る。そしてさらなる力を得る。そのためにお前のような者を雇っておる。相手が矢杜衆であろうがなんであろうが、邪魔をする者は排除せよ。お前も元・矢杜衆だ。相手にとって不足はなかろう?」
ラケルタの語尾には、明らかに低俗な好奇が含まれている。
それでも臨也は表情一つ変えることはない。
「御意」
頭を垂れた臨也を冷たい視線で見下ろすと、ラケルタはさっさと席を立ち、そろそろ食事だなと、呟きながら食堂の方へ歩いて行く。
主人が退室するまで伏したままの臨也を、マイカの艶やかな瞳が見つめていた。
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