イカル
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かつてこの地に神魂下る
白い犬の形をした神なり
我ら彼の御印を戴き
この地を護り戦う者なり
風を継ぐ者よ
その躯に託された
道の志を聞け
我らが魂
イカルの樹に辿り着かん
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イカルの地はその三方を高い山に囲まれている。
東から北を回って西までを囲う連山を国境とし、山が途切れる南側には、常に濃い霧が漂いどこまでも白くぼんやりとした風景が広がっている。
その霧の先には巨大な亀裂が東西を貫いており、底知れぬ深い崖の向こう側は未だかつて誰も足を踏み入れたことのない未開の地だ。
人々はそれを、神の地と呼ぶ。
山と断崖絶壁という自然の砦に護られたイカル。
それは、神に選ばれし者、巫女イトゥラルが統治する森林と清流の国である。
イカルを囲む三つの隣国よりも、その歴史は長い。
数百年以上の昔、この地に永住先を求め彷徨う旅人の一行が辿り着いた。
巨大な地の裂け目の脅威に立ち竦む彼らの前に、白い霧の向こうから蒼白い光が一つ、現れたという。
その光は人々に畏怖の念を抱かせるに十分な偉容さを放っており、ゆっくりと呼吸するように明滅を繰り返しながら、少しずつその形を為していった。
『あれは……なんだ』
『犬かしら』
『神の地から現れた神だ』
『犬神様だ』
『我らの願いを聞いてくださるかもしれぬ』
旅人達は口々に犬神様と呟きながら、膝を折り両手を合わせ頭を垂れた。
皆が平身低頭する中、一人の少女だけが立っていた。
黒く豊かな髪を三つ編みにした幼い少女はふらりと歩き出した。犬神の方へとゆっくり近づいていく。
周囲の大人達が少女に気づき、止めようとした。
『どこの娘だ』
『娘を止めろ』
『いや、待て。あれは占者の孫娘だ。犬神様に呼ばれたのかもしれぬ。見よ、あの放心したような表情を』
『まるで見えない力に引き寄せられているようじゃ』
彼らの言葉通り、少女は犬神以外何も見えていないといった様子でまっすぐに歩いた。
人々は固唾を呑んで少女の動向を見守った。
少女は犬神の前で歩みを止めた。
深い森の色を湛えた犬神の瞳が、少女の心の内を探るかのようにひたと見つめた。少女もまた大きな黒い瞳で一心に犬神を見返した。その心すべてを犬神に委ねているかのように、少女は無表情のまま犬神と視線を交えたままぴくりとも動かなかった。
どのくらいの時が流れただろうか。
断崖を吹き抜ける強い風がふいに止み、恐ろしいほどの静けさに包まれた。旅人たちは怯えた表情で辺りを見回し、何が起こるのだろうかと身を寄せ合った。
微動だにしなかった少女が、その薄桃色の唇を薄く開いた。
しかし可愛らしいその唇から零れたその響きを解する者は誰もいなかった。
『もしや……神の言葉か』
少女の祖母であり、旅人達を導いてきた占者の婆でさえ初めて聴く言葉だった。
犬神の口がわずかに開いた。旅人たちが慄き逃げるように身を引く中、少女だけは身じろぎ一つしなかった。
少女の言葉と同じ音色が、犬神の口から発せられた。
短い言葉の応酬が続いた後、犬神は満足したかのようにゆるりと長い尾を揺るがした。
少女の身体が力を失って傾いだ。
その刹那、犬神の身体から蒼白い光が溢れ出し少女を包んだ。疲れ果て崩れ落ちた少女の身体を優しく抱き留めた光は、さらにそこにいる者すべてを同じように包み込んだ。
光の中で、人々は神の声を聞いた。
『この地に住まうことを許す。地を耕し、道を拓き、家を守り、子を育むがよい。これよりこの地は我らと人を繋ぐ橋、イカルとなる』
旅人たちの頭の中に直接響く言葉だった。
長い旅の終わりにたどり着いた地の果てで、ついに永住の地を手にいれた彼らは歓喜に涙を流した。
幾人かの大人たちが犬神の前に進み出て、気を失ったままの少女を犬神から受け取った。
『その者、我の声を聴く者なり。イトゥラルの名を授ける。額の印がその名を受け継ぐ者の証である』
少女の額の中央には、先程まではなかった紅い痣のようなものが浮き出ていた。小さな花が咲いたような印だった。
その日からイカルは、神と人の世界を結ぶ橋となった。
犬神に選ばれた少女は巫女となった。
巫女は神殿に住まい、犬神の神託を受け、それを人々に伝えた。
旅人達は神託に従い、地を耕し種を蒔き、道を拓き家を建て、子供を産み育てた。
犬神は、神の力の一片をも巫女に与えた。巫女はその力を惜しみなく民のための使い、拓く土地を見極め、日照りのときには雨を降らし、国を豊かにした。
巫女は人々を導く存在となった。
国の支柱とも言うべき巫女を護る者として、腕に覚えのある者たちが自然と集い、やがてそれは一つの組織を為した。
これが矢杜衆の始まりである。
彼らもまた、犬神の恩恵を受けた者達だった。
犬神より与えられし素養を元に、幼いうちから厳しい修行を積み上げ、地・水・火・風の力を借りて呪術を操り、人の能力を超えた体術を極める。
強力な武器、多数の兵士を持たない代わりに、体術や呪術に秀でた彼らが国を護った。
彼らは何時しか医学も熟するようになった。
様々な薬種を育て、幾つもの疫病や万病に効く薬を作り出し、外科的手術にも通じるようになった。人を癒す者たちを、矢杜衆の中でも特に癒し手と呼んだ。
他国はイカルに、薬や癒し手、その知識を求めるようになった。またその身体能力を評価され要人警護の任に当たることもあった。
イカルの民しか持たないその特別な力を、イカルは惜しみなく他国へと提供した。
現在でも人口十数万のイカルが、小さいながらも安定しているのは、矢杜衆の存在が大きい。
しかしその特殊さ故に、イカルの技術を狙う国や組織も多く存在する。
隣接国の諜報機関は秘密裏にイカルに人を送り込み矢杜衆の知識を漁ろうとし、盗賊達は貴重な薬品の輸送ルートを襲い奪ったものを他国にて高値で売り捌くようになった。そのような状況を未然に防いだり、医薬品や特殊技能を持つ者を護るのもまた矢杜衆の重要な任務となっていた。
「申し上げます! ニリに潜入中の者からの緊急連絡です!」
イカルの首都ルーの商業地区に立つ矢杜衆の本拠地に、緊張が走る。
かねてより緊張関係にある西の大国ニリが、イカル国宗主である巫女イトゥラルを狙った誘拐を企てているとの情報が入る。
イカルの野を豊かな雪解けの清水が走り、様々な草木が花を盛りと綻ばせる、春の朝だった。




