距離(2)
梟が鳴く。
強い羽ばたき音が、真鳥の頭上の空気を真っ直ぐに切り裂く。その行き先で、小さな鼠が最期の鳴き声をあげる。
そして森は、再び静寂を取り戻す。
黄色い目をした梟は、今頃どこかの枝の上で、晩飯に有り付いているだろう。
真鳥が小さく笑う。
『どうしてこんな簡単なことができないんですか……あとは僕がやりますから、先輩は火を起こしてください』
半ば呆れたように一颯がそう言って、真鳥の手から携帯食を奪ったのは、つい数時間前のことだ。
真鳥たちは、東の国アカギへ、難病に倒れた大臣のためにイカルでしか製造ができない秘薬を届けるという任務に就いている。
任務中の夜営とはいえ、食事というのは人を和ませるものだ。
その雰囲気が、真鳥を過去へと誘う。
一颯はよく真鳥の家で食事を作ってくれた。自前のエプロンを着けキッチンに立ち包丁を使う姿は、食堂の料理人のようで中々様になっていた。
ちらりと顔を覗かせた過去の幻影に揺るがされて、ほんの少し甘えてみたくなったのかもしれない。
『温かいスープが飲みたい』
そんなわがままを言い出した自分のために、一颯は文句を言いながらも、食事の準備をしてくれたのだった。
焚き火に煮えるスープは、一日中走り続けた身体を癒してくれた。
そんな料理人は今、寝袋に潜り込んで眠っている。
困った顔、してたよね、一颯のやつ。
『あの、先輩』
一颯がそう言ったとき、とくんと胸が鳴った。
覚えているはずないのに。
オマエはまた、それを選ぶのか。
胸が熱くなった。
こんな些細な事が、こんなにも、嬉しいなんて……。
焦ったり、怒ったり、嬉しくなったり、寂しくなったりと、一颯と再会してから、感情のコントロールができなくなっている。
まるで自分を覚えているかのような一颯の言葉に勝手に感情が高まり、けれど、やはり覚えているはずがないのだと気づき、嬉しい気持ちはすぐに萎んでいく。
それでも溢れてくる想いで、喉の奥がきゅっと痛くなり、そんな自分を見られたくなくて、一颯に背を向けてしまった。
「ごめ〜んね」
そっと呟いてみる。
寝袋から出ている一颯の右腕と顔を、月光が照らす。
月が作り出す光も影も、少し青みを帯びている。
顔も衣服も生活も、すべてがキリッと整った一颯にぴったりの色だ。
風が唸り声を立てながら森を抜けていく。雲が動き、月を隠す。
一颯の姿が濃い闇に塗りつぶされていく。
真鳥の背に、ゾクリと寒気が走る。
全身をただ一つの感情が埋め尽くす。
大切なものを失う恐怖。
ニリの敵に追われ、二人一緒に崖から落ちたあの時のことが蘇る。
大切な者を失うあの瞬間が、真鳥の中で鮮明に再生されていく。
一颯は真鳥の身体を庇うように落ち、ひどい傷を負った。
流れ続ける血の朱。
冷えていく身体。
あの温度、あの血の匂い。
腕の中でどんどん冷たくなっていく一颯の身体をどうすることも出来ず、ただ叫んでいた。
誰か、助けてくれと。
真鳥は震える両手を握りしめ、瞬間的にパニックに陥った自分を落ち着かせようと試みる。できるだけゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
感情のコントロールは修業で身につけているはずなのに、なによ、このざまは。
一颯を失うかもしれなかったあの日が、自分の中で癒えない傷になっていることに気づく。
これまで幾つもの戦場で、仲間を失ってきた。
まだ息のあった仲間を、状況が許さずこの手に掛けた事もあった。
それでも矢杜衆として自分の心は強く保ち続けてきたはずだった。
だが、一颯だけは違った。
彼の存在の重さは、他の誰とも違う。
一颯はたとえどんな状況でも、真鳥を見捨てはしない。そして真鳥もまた、一颯を見捨てない。生きて必ず二人でイカルへ帰る。
一颯と任務を共に過ごした年月が、自分をそんな風に変えた。
一颯が変えてくれた。
たとえ世界中の人間すべてが自分の存在を忘れてしまったとしても、一颯が生きているなら、その孤独の中で生きようと思った。
だから、目の前に現れた犬神クロウの求めるまま、代価として差し出したのだ。
一颯は生きた。
そして、代わりに、一颯は真鳥との年月を失った。
今、一颯は眠っている。
眠っているだけなのに、確かめずにはいられない。
焚き火跡を挟んで向かいに眠る一颯に触れて、生きている証しが欲しい。
ほんの少し腰を上げ手を伸ばせば、触れられる距離だ。その手に触れてその温もりを確かめたい。
伸ばしそうになる腕を押し留めて、息を詰める。
触れる理由を、なにも覚えていない一颯に説明できるはずもなかった。
一颯を助けるために、自分に関する記憶を代価にした。
それは、一颯が知る必要のない事だ。
その事実を知れば、一颯はきっと彼自身を苛む。
失った記憶に苦しみ続ける。
一颯はそういう男だ。
真鳥は伸ばしかけた指を再び握り込む。
ただ触れて、確かめたいだけなのに、今はそんなことすら許されない。
今、真鳥と一颯の間には、たった数日分の記憶しかないのだ。
二人の間の距離を、この森の闇が見せつける。
近くて、遠い。
夜がまるで永遠に続くかのように、真鳥には感じられる。
深い静寂の中、また梟が鳴いた。
§
灯りを極端に抑えた薄暗い部屋で、白い漆喰の壁に映し出された二つの影が、一つにもつれる。
衣擦れの音に、荒い息づかいが重なり、部屋の温度が上がっていく。
ゆらりと澱んだ空気が揺れる。
扉が開き、小柄な男が主の部屋に足を踏み入れる。
「御前、臨也が戻りました」
男は、そこで行われている行為になんら怯むことなく、事務的な声で告げる。
「あやつが戻ったか!」
衣擦れの音を大きくたてながら、巨体が立ち上がる。
「きゃっ」
そのあまりの勢いに、絹の海の中を流された若い女が短い叫び声を上げる。白く細い足首がついと空を泳ぐ。
「臨也をここへ! マイカ、灯りを点けよ」
「はい、主様」
カチリというスイッチの音と同時に、部屋の中が明らかになる。
部屋自体は、白い壁と太く丈夫な柱に守られた質素な作りだ。しかし部屋の中央に置かれた天蓋付きのベッドには貝殻や真珠が施され、一目で高価だとわかる。棚や壁を飾る装飾品や調度品も光を弾いている。
一介の地方を治める全権使が簡単に手に入れられるものではないと一目で分かる品々で、その部屋は埋め尽くされている。
このアカギ国の首都に建つ宮殿には、有名な回廊がある。入り口から謁見の間までのその回廊は、古今東西、様々な絵画、彫刻、宝飾品で埋め尽くされている。豪華絢爛さは諸外国の間でも有名な話だ。訪れる者は等しくそこで感嘆の声を上げるという。
きっとこの部屋のようなのだろう。
小柄な男に案内され、主の寝室へ入ってきた男はそう思った。
男が身に纏う黒づくめの装束は、埃と汗に汚れていた。とうてい、この部屋に似つかわしい格好ではない。
「失礼します」
主の前に跪き、頭を垂れる。
「臨也。持ってきたのだろうな」
「これにございます」
臨也と呼ばれた男は、懐から古びた一冊の本を取り出し、頭を上げぬまま主に向けて差し出す。
その動作の中でほんの一瞬、全権使のすぐ後ろに控える女の姿を捉える。
金を織り込んだ薄い白絹の単衣を身体に巻き付けただけの姿は、持って生まれた身体のラインを強調する。アカギでは珍しい金色の巻き毛がふわりと揺れる。
この部屋に相応しいのは、この女だけだろうと、男は思う。
臨也の視線に気づいた女は、臨也に薄く微笑みかけると、静かに続き部屋へと下がっていく。
女が纏っていた荷葉の香が薄く匂い立つ。
しかし全権使は、女が部屋を去ったのにも気づかぬほど、手の中の古文書に見入っていた。
地図とおぼしき絵に、厚ぼったい瞼から覗く小さな目を血走らせる。
「これが……」
その手も声も、細かく震えている。
「はい。古くから言い伝えられている金鉱の在処にございます」
「ようやく、ようやく見つけたか……」
全権使は震える指先で、ざらつく古紙の表面を撫で回す。
お伽噺にも等しい情報を元にずっと探し求めていたものが、この手にある。その事実に、全権使は昂ぶりを抑えきれず、声にならない声で呻いた。
「臨也よ……」
赤地に金の刺繍を施したガウンを身につけたこの館の主は、女の身体をまさぐっていた先刻よりもさらに荒い息を吐き出しながら、床に膝をつき畏まったままの男に問いかける。
「これは確かに、儂の領地内なのじゃな」
「はい。南のウェルテクスという村です。ただ、その場所は村の神を祀る禁足地となっております。アカギの土地神信仰が強いのは、御前もよくご存じのはず。簡単に明け渡すとは思えません」
「村の神? そんなもの、村ごと焼き払えばいいだろう」
禍々しい全権使の低い声は、部屋の四隅に巣くう闇を振るわせる。その瞳は飢えた獣のように生々しい光を放っている。
「理由など、伝染病が発生したとでもしておけばいい。中央への報告はどうせ儂の仕事じゃ。小さな村一つで、長年の儂の努力が報われる。安いものじゃ」
我欲を露わにした全権使は、ちらりと黒装束の男を見下ろした。
「人を殺めることなど簡単であろう? 元・矢杜衆のお前ならば」
荷葉の香に僅かに包み込まれた絢爛な部屋に、全権使の碑た笑い声が響く。
「……諾」
臨也は深く頭を垂れた後、入ってきたときと同じように音も無くその場を辞する。
隣室では、二人のやり取りを余さず聞いていた女が、長い金髪の巻き毛を梳りながら、美しく整った唇の端をあげ、満足げな笑みを洩らしていた。
まだまだ真鳥と一颯の旅(新しい人生のね)は、始まったばかりです。
そして、第二章もこれから大きく動き出しますので、宜しければ続きを楽しみに待って頂けると嬉しいです。
明日も更新いたします。
読んで頂ければ幸いです!




