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再開(2)

 市街地を雨が叩く。

 屋根の上を跳躍する真鳥にも、同じように雨が打ち付けていた。



 彩葉の家族に起こった事件への不信感をどうしても拭い去ることができず、雨の中、真鳥を神殿へと向かわせている。彩葉自身に接触する、その時期が来ている気がしたのだ。

 雨避けのフードを被ってはいたが、跳躍するために裾が翻り、すでに服はじっとりと濡れている。

 本来なら、夜中のシフトまで身体を休めなければならない時間だが、真鳥の中にひっかかる何かが仕事明けの身体を急かしている。

 途中、医療院に掲げられている青地に白の翼が描かれた旗が視界に入る。



 一颯が入院してからほぼ毎日、木の上から病室を覗うというストーカーまがいの一方的な逢瀬を重ねてきたが、いつしかその僅かな時間が真鳥の中でなくてはならないものとなっていた。

 米粒一つ残さずに綺麗に病院食を平らげる一颯の姿を見れば、栄養剤ばかり飲んでいて怒られたことを思い出す。



『ちゃんとメシを食べるのも矢杜衆の務めですよ、先輩』



 続く任務に家の中が大変な状況になっているのを見つけられたときは、



『朝起きたら布団は畳んでください』

『洗濯物は溜めないのがコツなんです』

『先輩、いつ掃除機かけたんですか?』



 小言をたくさん言われた。

 そっと影から姿を見ているだけで、一颯と過ごした日々の中のそんな些細なことを思い出し、叱られたことさえ、真鳥を温かく満たしてくれる。



 以前の関係を失っても、自分の中の記憶があればいい。

 一颯と出会う前のどこか荒涼とした自分に戻ってしまうことはない。一颯と過ごした年月が変えてくれた自分でいられる。

 そう信じることができた。

 だから求めてしまうのだ。

 ほんの少しでいい。

 一颯に逢いたいと……



 真鳥は医療院へと足を向けていた。

 いつものように少しだけ覗いていくつもりだった。

 院を囲む並木が見えてくる。

 芽吹いたばかりの柔らかそうな若葉が、ぽろぽろと雨を弾いている。

 正面の出入口から一人の矢杜衆が駆け出していく。入れ替わりに、二人組が医療院に駆け込む。

 いつもと違う慌ただしい様子に、真鳥は手前の建物の上で足を止め、様子を覗うように首を傾げる。束ねた髪の先から滴が散る。

 この医療院は矢杜衆だけのものではない。一般市民も利用する。昼間は老人や子供が多く、いつもはもっとのんびりとした雰囲気が漂っている。今、出入りしているのは現役矢杜衆だ。彼らは怪我をしている風でもなく、病気というわけでもない。健康そのものといった感じで、矢杜衆支給のフードを翻し雨の中を駆けていく。



「なんかあったのかね〜」



 真鳥は建物の屋根から地面へ、音もなく飛び降りると、一颯の病室のある方へと近づいて射いく。すでに気配は消してある。

 見上げた窓は閉まっていた。

 気配を殺したまま、いつもの枝に飛び乗る。



「あれ?」


 

 窓際にある一颯のベッドは空だった。

 ちょっと抜け出たという風ではなく、掛け布団や寝間着代わりに一颯が来ていた浴衣が綺麗に折りたたまれている。



「退院した……とか? いくらなんでも早すぎるよね」



 病室内をくまなくチェックしていた真鳥の目が、シーツに付いた赤いシミを捉える。よく見れば、床の上にも点々と散っている。



「なに、あれ」



 とくんと心臓が音をたてる。

 怪我はもうだいぶ良くなっていたはずだった。縫ったところもほとんどくっついていると、癒し手が話しているのを盗み聞きして知っている。



 なんで、血が……



 紅い染みがあの日を呼び起こす。

 真鳥を庇って負った深傷から流れ出た紅い血。止まることなく、真鳥の手を濡らした感触。

 真鳥を包む気がざわっと乱れ、梢を揺らす。

 頭の中がかっと発熱する。


 

 気がつけば、真鳥は病室の窓を力業でこじ開け室内に侵入し、病室の外に突っ立っていた矢杜衆を捕まえて問い詰めていた。



「ちょっと! 一颯はどこっ!」

「は、え? ええっ!? どこから!?」



 誰もいないはずの病室内から現れた真鳥に、矢杜衆の青年が狼狽える。が、すぐに自分の首を絞めんばかりに詰め寄っているのが噂の八束真鳥だと認識し、その顔に恐怖の色を浮かべた。



「あ、あのっ、あのっ」

「この部屋に入院してたでしょ。どこにいるの。言って!」

「あの、渡会さんなら……さ、さっき……し、下にっ!」



 掴んでいた服から手を放すと同時に床にぺたりと座り込んでしまった男に、真鳥は「ありがと」と律儀に礼の言葉を残し、一瞬のうちに廊下を駆け抜け、階下へと降りる。

 一階は見舞いや治療に来た者たちが利用できる待合所と喫茶室が用意されている。待合所には一般の利用者しかいない。

 隣の喫茶室に向かう。

 矢杜衆詰め所と同じように、簡単な軽食が取れるようになっている。二十くらいの丸いテーブルが、互いに邪魔しない適度な間隔で置かれており、窓際の机の一つに、四人の矢杜衆が集まっているのが見えた。



 四人全員が上級矢杜衆である杜仙という顔ぶれで、真鳥も以前からよく知る者たちだ。矢杜衆長の最も信頼の厚いメンバーである。

 この四人が同時に顔を合わせているということは異常事態に違いないが、今、真鳥の脳は明らかに冷静な判断力を失っていた。一颯が病室にいないことが真鳥にとって最大の異常事態であり、彼の姿を探すことが真鳥の優先事項のすべてだった。



 待合所や喫茶室を見回すが、一颯の姿はない。

 冷静さを欠いた真鳥の思考は、悪循環の典型に陥り悪い方へと流れていく。

 緊急治療室に戻ったのではないだろうか。

 それほどまでに傷が悪化したのではないか。

 もし真鳥がいつも通りに思考し行動できていたとしたら、そのような心配は杞憂であり、さらには病院入り口からやってくる彼の気配に気づいていただろう。



 真鳥の左側の廊下から、長身の男がラウンジへと向かっている。

 黒いズボンに黒い靴。武術で鍛えたであろう実用的な筋肉のついた身体を包む黒く長い上着は、少し早足で歩く彼の動きに合わせてその裾が颯爽と翻る。

 短く刈り込まれた髪はイカルの民のほとんどがそうであるように漆黒であり、健康的に灼けた肌をしている。

 しかし額や頬にいくつかガーゼが当てられている。光の加減で琥珀色にも見える瞳は、厳しい色を湛えてラウンジの奥に集う四人の杜仙たちへとまっすぐに注がれており、その目は階段付近の廊下に佇む真鳥の姿は見えていなかった。



 真鳥の視界を、その黒づくめの男が過ぎる。



「あ……」



 想像していなかった彼の姿に、一瞬、見間違いかと真鳥は目を見張る。

 一颯は入院着ではなく、いつも彼が身につける黒い戦闘服に身を包んでいる。その背には、彼の愛刀が装備され、手には書類の束。杜仙四人のテーブルへ向かって歩いて行く。顔は見えなかったが、その姿形を見間違うはずはない。

 真鳥は咄嗟に一颯を追いかけ、その肘を掴んでいた。



「ちょっと! 待ちなさいよ!」

「はい?」



 振り向いた一颯の顔のあちこちには、ガーゼがあてがわれ、他にも小さな傷がいくつも朱い痕を残している。

 驚きに満ちた目で真鳥を見つめているが、そこに漂う違和感に真鳥はまだ気づいていない。



「仕事してるの? 完治してないのに? まだ治ってないでしょ。寝てなきゃダメじゃない」

「あ……はい。でもだいぶ良くなったので……」



 一颯の腕を強く掴んだまま説教を始める真鳥の前で、一颯は困ったように真鳥を見つめながらも律儀に答える。



「何? なんか急な任務なの?」



 さらに真鳥がそう問うたとき。



「八束も来ていたのか。どうした?」



 低いがよく通る声がラウンジに響く。

 真鳥のすぐ後ろの廊下から現れたのは、加内永穂だった。

 その瞬間、真鳥の顔色が変わる。

 血の気が引くとは、まさにこのことだった。

 頬から赤味が消えあっという間に白くなったと思ったら、目を見開いたまま一颯の顔を凝視する。まるで幽霊でも見てしまったかのように、驚愕の表情を顔一杯に張り付けている。



 忘れていたのだ。

 これが渡会一颯にとって、真鳥との初対面であることを。



 一颯が声を発しようとするその瞬間、一陣の風が吹き抜ける。

 真鳥の姿は消えていた。

 残像として、僅かに残った銀箭の軌跡を追う。

 窓の外の並木道を駆けていく銀の髪が見える。



「すごい……もうあんなところまで」



 あれも体術の一つだろうか。

 一颯がその素早さに見惚れていると、加内がその肩を叩く。



「八束と顔見知りだったのか」

「いえ……今日が初めてです」



 まさか毎日、窓から覗き見されていましたとは言えない。



「加内様は八束さんのことをご存じなのですか?」



 歯切れの悪い返事をすると、加内からも歯切れの悪い返事が返ってくる。



「知っていた、が正しいかもしれないが」

「過去形ですか?」



 加内の返答に首を傾げる。



「記録によれば、あいつは俺の教え子だった。だが覚えていないんだ。指導したことはおろか名前さえもな」

「覚えていない?」



 加内は長い腕を組んで、真鳥の消えた窓の方を見つめる。



「忘れてしまったんだ。世界中が八束真鳥という一人の人間のことをな」



 加内の言葉が、一颯の中で重く響く。

 頭を強く打つなどで記憶を無くすことはある。けれど、本人以外の全員が忘れてしまうということなど、普通ではあり得ない。そんな術が使える矢杜衆はいないし、医療や技術だってない。矢杜衆とは違う特別な力を持つ巫女でも無理ではないだろうか。

 それはもはや、神の領域だ。



「犬神様ですか……」



 真鳥と共に立ち去る犬神の姿を思い出す。魔犬と呼ぶ者もいるが、あれは間違いなくイカルの神、犬神クロウなのだろう。



「恐らく犬神様によって我々の記憶が消されたんだ。理由はわからないがな。犬神様に会った長から聞いた話だから、本当なのだろう」



 誰も真鳥を知らない。

 それは、どんな世界なのだろうか。



 誰も自分を覚えておらず、親しかった者からさえ奇異な目で見られるそんな世界。

 幼い頃に家族を亡くした一颯にさえ、その孤独は想像もできない。



 神殿の孤児院に連れられていったとき、家族を失ったショックですべての感情を忘れ、食べること、眠ることもろくにできなかった。一颯の中は空っぽだった。けれど大人たちは優しく手を差し伸べてくれた。自分と同じ孤児たちがそばにいてくれた。そのおかげで、今こうして矢杜衆としてイカルのために生きている。



 彼に手を差し伸べる者はいるのだろうか。



「……あの人は、覚えているんでしょうか」

「覚えているようだ。先日のニリとの攻防戦、重傷のおまえを国境からここまで運んできたのも八束だ。内通者がいたことも八束から報告を受けて判明した」



 それから、と加内が加える



「あいつはお前のバディだ」

「あの人が……」



 驚くよりも先に、合点がいく。

 あの戦場を忘れはしない。

 光、爆発、炎、煙、そして匂い。

 すべてを生々しく覚えている。

 作戦のすべてが後手に回った酷い戦いだった。戦いともいえないだろう。ただ逃げるしかなかった。そんな状況下で傷ついた自分を放置せず、ここまで連れ帰ってくれた。

 病室を訪れても、自分を覚えていないから、あの人は外から見ることしかできなかったのだろう。

 毎日、毎日、木の上から……。



 先刻、真鳥に掴まれた腕にまだ彼の指の感触が残っている。一颯はそっと自分の手を重ねてみる。少し湿っている。彼は全身、ずぶ濡れだった。



『まだ治ってないでしょ。寝てなきゃダメじゃない』



 自分が病室にいなかったから心配して探しに来たのだろう。

 あのときの彼の顔が一颯の脳裏から離れない。



 あの人は、僕を知っている。

 単なる任務の仲間ではなく、もっと近い場所にいた。

 バディでなければ、あんな顔をして怒ったりしない。あんなに不安そうな、泣きそうな顔を向けはしないだろう。



 一颯は、ぎゅっと瞼を閉じる。

 濡れた銀の髪から落ちる雫が瞼の裏でキラリと光る。



「手拭いくらい、渡してあげればよかった……今度、会えたら、お礼を言います」



 礼を言って、それからあの人の話を聞こう。

 自分と八束真鳥が以前、どんな関係だったかをあの人の口から語って貰おう。

 一颯は街路樹の向こうへ消えてしまった彼の後ろ姿に、小さな約束をする。



「さて、始めるか。殺された矢影のデータ、揃ったんだろう?」



 加内は一颯の肩をぽんと叩く。

 一颯の意識が現実へと引き戻される。



 以前より密かに調べていたクサリの存在を、偶然とはいえ掴んだというのに、逃げられてしまったばかりか、その存在を知る仲間を殺されて黙っているわけにはいかなかった。

 目の前で人が襲われたというのに、何もできなかった自分が情けない。

 お前のせいではないと加内は言ったが、その言葉を一颯は受け入れることができない。

 縫った傷口が開いたためベッドに押し込まれたが、あの現場を繰り返し頭の中で再現してはその度に助けられなかった結果に苛まれ、大人しく寝てはいられなかった。

 幸い、傷はそれほどひどくはなかった。

 加内に願い出て、無理矢理、自ら任務に就いた。

 殺された彼のために、できることをしたかった。



 今、一颯の手には男の情報がある。矢杜衆詰め所で集めたものだ。

 クサリに繋がる小さな欠片でもいい。

 必ず見つけ出す。

 加内が窓際のテーブルで待っている四人の元へと歩き出す。

 一颯もまた、その後を追った。

読んでくださりありがとうございました。

次の更新は明日(9/13)です。

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