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胎動(2)

 巫女イトゥラルが神殿を抜け出したその日、同刻。

 矢杜衆医療院。

 病室は朝の回診時間で賑わっていた。



「順調ですよ、渡会さん。順調すぎるくらいです」



 この道数十年の貫禄ある女性の癒し手が、一颯の大腿部に包帯を巻き直しながら、傷の治り具合を説明する。年は四十くらい。商店街でよく行く八百屋のおかみさんにちょっと似ている。健康そうな小太りで、年齢に似合わず肌はピンク色でツヤツヤだ。



「折れた骨はほぼくっついてますし、裂傷も背中の一番大きな傷とこの大腿部の傷以外は抜糸が終わりました。もうかさぶた程度ですよ」



 普通は抜糸まで二週間くらいかかるんですけどね、特別な術でも使いましたか? と問うてくる。



「癒し手の術は使えませんが、昔から傷の治りは早い方でした」



 一颯は幼い頃を思い出す。

 物心ついたときにはすでに家族はなく、神殿に付属する孤児たちを集めた院で幼少期を過ごした。

 誰とも口を利かずにいたら石を投げられた。先生の目を盗んで行われる虐めによって、小さな打撲や裂傷が絶えなかったが、軽い怪我なら一晩もすると綺麗に消えてしまった。

 それに気づいたいじめっ子たちは、気味が悪いと近寄らなくなった。

 だから院ではずっと独りだった。

 あまり思い出したくない過去まで辿ってしまい、一颯は小さく苦笑する。



「昔から? もしかして、あなた、巫女の家系?」

「巫女の?」



 一颯は顔をあげて、癒し手の顔を見る。



「代々巫女は不思議な力をお持ちになってお生まれになりますが、巫女の直系の子孫には、そういう力を受け継いだ方が時々いるみたいなんですよ。巫女がご結婚されることは希ですけどね。でも今もその家系の方はいらっしゃいますよ。この医療院の院長もそのお一人です」



 長いことこういう仕事をしていると、そういう不思議な力を持った方に出会うこともあるのだと、おばさん癒し手は言う。



「僕は小さい頃に家族を亡くして孤児になったんで、家系はよくわかりません。でもそんなすごい家系じゃないと思いますよ。育ててくれた師匠からも、そんな話は聞いてませんしね」



 一颯は事実を淡々と述べたつもりだったが、癒し手は申し訳なさそうに眉根を寄せた。



「そうだったの。申し訳なかったわね。辛いことを思い出させちゃったみたいで」

「いいえ。大丈夫ですよ。今は大切な仲間も沢山いますから」

「そうね。犬神様のご加護もあるみたいだしね」



 癒し手がうふふと笑いながら窓を見やる。ツヤツヤの頬が興奮気味に膨らんでいる。



「アレですか……」



 一颯が苦笑する。

 入院してから毎日、窓の外からの視線を感じていた。

 この病室は二階にあり、外から中を覗くには医療院の周囲に植えられている並木の枝に上がらなければならない。わざわざ木の上に登ってまで覗いてくるのだから、気にならないわけはない。

 たいていその視線の主は、夜遅くか朝やってくる。

 窓の外にある枝を見ても誰もいない。

 けれど、そこに誰かがいることは矢杜衆として訓練された感覚でわかる。

 殺気ではないからとりたてて騒ぐこともないだろうと思っていたが、毎日続くので気になって、ある夜、視線が外された後にそっとベッドを抜けて窓の外を覗いてみた。

 闇の中に、蒼白い炎のようなものがぽかりと浮かんでいた。ぼんやりとしていたが犬の形のようにも見えた。その隣を、黒い矢杜衆の服に身を包んだ猫背の男が歩いていた。その長い頭髪は蒼白い光を受けて銀に輝いていた。



 彼らが何者なのかは、すぐに判明した。

 見舞いに来てくれた仲間が教えてくれたのだ。

 突然、犬神とともに現れた、異国の髪を持つ矢杜衆がいるという。

 男に付き従う犬を犬神様だという者もいれば、魔犬だという者もいた。魔犬と共に矢杜衆を乗っ取るのでは、という根も葉もない噂話がほとんどだが、今、矢杜衆たちの間では彼の話題でもちきりだ。

 それ以後も気になって、視線を感じるたびに窓の外を覗いてみた。犬を連れていることもあれば、彼一人だけのこともあった。

 なんでこの病室を覗くのだろう。

 用事があるなら、直接訪ねてくれればいいのに。

 周囲から聞こえてくる八束真鳥の評判は、あまりいいものではなかったけれど、一颯の目には噂通りの矢杜衆を乗っ取るような悪意ある人間には見えなかった。

 ただ、不思議な人だと思った。



「終わりましたよ」



 癒し手が着物の裾を直し、布団をかけ直してくれる。



「ありがとうございます」



 医療器具の入ったカートを押して病室を出て行こうとする癒し手を、一颯が呼び止めた。



「あの、そっちの人は……」



 一颯の病室は二人部屋で、窓際の一颯のベッドの他にドアに近い方にもう一つベッドがある

 昨夜、そのベッドに怪我人が運び込まれたのだ。

 真夜中だったのでカーテン越しに様子だけ窺っていた。



「昨夜の方ね。ひどい怪我でね、なんとか一命を取り留めたんですけど。今はまだ眠っているから、また後で様子を見に来ます。あ、もし目を覚ました気配があったら、知らせて貰えると助かるんだけど。もうすぐ痛み止めが切れるはずだから」



 一颯が快く了承すると、癒し手はカートを押して病室を後にした。引き戸がそっと閉じられる。



 一颯は上半身だけ起こした格好で、隣のベッドの様子を窺う。カーテンの向こうに静かな寝息を確かめると、ベッド脇に置いてあった読みかけの本を手に取る。

 窓の外から聞こえる鳥の囀りと、廊下を行き来する人のざわめきが心地よく一颯を取り巻く。

 ゆるりとした眠気が瞼を撫でた。

 昨夜は隣のベッドの患者の一件で医療院が騒がしく、あまり良く眠れなかった。

 欠伸を一つしてみるが、襲ってくる眠気には勝てない。枕に背を預け、瞼を閉じる。

 そういえば、昨夜も今朝も、あの人はまだ来ていないなと、視線の主のことを思い出した。

 次に来たら、声をかけてみようか。

 さざめきが遠のいていく。

 一颯は眠りの中に落ちていった。



 どれくらい時間が経っただろうか。

 眠っていたのは、ほんの数分という気もする。

 微かな気配が、一颯の眠りを妨げる。

 身体に染みこんだ習性に従って、眠っている間でも周囲の特異な状況はすぐに察知し目を覚ますことができる。

 病室の扉がわずかに開き、また閉じたようだ。

 可能な限り気配を殺した何者かが、この部屋に入り込んでいる。

 一颯のベッドからは仕切りカーテンに遮られて見えないが、癒し手ならばこれほど気配を消して出入りするはずはない。存在を知られて困る癒し手はいない。



 誰だ?



 わずかな気配がカーテンの向こう側で動く。

 空気の流れでわかる。隣のベッドの周辺で、何かをしようとしている。

 一颯は自身の気配を寝ているように見せかけながら、枕の下からクナイを手に取る。どんな場所にいても、たとえ自宅であっても、すぐに手に取れる位置に武器は用意してある。

 さすがにここは病室なので、愛用の長刀は部屋に備え付けの棚にしまってある。

 呼吸を抑え、気を張り巡らす。

 相手のどのような仕草さえも読み取り、動きがあった場合にはすぐに飛び出せるように身構える。

 相手の力量次第では、こちら側の警戒する気配を読まれることがあるが、それができるのは矢杜衆でもトップクラスの者だけだ。この侵入者は、一颯のそうしたそぶりに気づいた様子はない。



 男か。



 空気に混じる微かな匂いから判断する。

 男が一歩、足を踏み出す。

 動いた空気が一颯にそれを伝えてくれる。

 その刹那、病室内の空気がビリと軋んだ。



 殺気!?



 ベッドから飛び降り、隣との境にあるカーテンを跳ね除ける。

 癒し手の制服を身につけた男が、ベッドに寝ている男の喉元にクナイを突きつけていた。

 突然現れた一颯に驚き、クナイの先が薄い皮膚を切り裂く。

 じわりと出血する。

 一颯は、暗殺者に向かってクナイを放つ。

 男が手にしていたクナイは弾かれて、ベッドの下に落ちる。ガツンという重みある鉄の音が病室に響き床を滑って壁に当たる。

 男が別の武器を構え一颯に飛びかかろうとしたが、一瞬早く、一颯が男の利き腕を取り、後ろへと捻り上げていた。膝裏を押し床に膝をつかせる。



「何者だ。何故、この男を狙う?」



 男の顔は下半分が黒いマスクに隠れていて見えない。鋭く釣り上がった目が、肩越しに一颯を見上げている。

 獲物を狙う捕食者の目だ。草陰から躍り出るタイミングを見計らっている、冷静で冷たい暗殺者の目だった。



「……っうう」



 ベッドの上の男が苦しげな呻き声をあげる。



「!」



 ほんの一瞬、そちらに気を取られた隙に、着物の裾からはみ出していた包帯を巻かれたばかりの大腿部を狙って蹴られる。



「っつ!」



 傷痕に、熱が走る。

 激痛に目が眩み、一颯は膝をつく。

 一颯の束縛から逃げ出した男は、さらに一颯の腹を蹴り上げる。咄嗟にガードしたが、ここ一週間ほど病室で寝たきりだったため反応が遅れた。吐き気がこみ上げ床に倒れ込む。

 一颯の滲む視界に男の足が映る。男は壁際まで滑っていった自分のクナイを拾い上げる。

 痛みで動けず、床の上から睨み上げるだけの一颯を一瞥すると、一颯に止めを刺すこともなく、ベッドの男にも見向き一つせずに、悠々と扉を開け出て行く。



「うっ……ああっ! くっ」



 ベッドの男が苦しみ続けている。



 何か、変だ。

 もしや……



 一颯は痛みに悲鳴をあげる身体を起こす。ベッドに備え付けられた転倒防止用の柵に掴まり男の方へと身体を持ち上げる。塞がっていた傷口が開いたのだろう。生暖かい血液が足を伝う。

 男の顔を見るや、一颯は自分の失策に舌打ちをした。

 その顔は苦痛に歪み両手で首を掻きむしっている。クナイに傷付けられたところが紫色に変色し、その範囲をみるみるうちに広げていく。

 毒だ。

 あのクナイに毒が塗ってあったのだ。

 だから暗殺者の男は、ベッドの男に止めを刺さずに立ち去ったのだ。



 癒し手を呼び出すブザーを数回、押す。

 真っ赤な鮮血に濡れる左足と、痛み続ける腹を庇いながら、男の顔に片手をあて呼びかける。



「おい! しっかりしろ!」



 男は短い呼吸を繰り返しながら、うっすらと瞼を開く。その視線はすぐそばにいる一颯にさえ定まらない。

 もう視神経まで毒が回っているのか。

 一颯は男の手を取り、ぎゅっと握りしめる。



「すぐに癒し手が来る。大丈夫だ。助けるから」

「……くっ」



 男の唇が僅かに開き、何かを告げようとして激しく咽せる。口から血液の混じった白い泡を吐く。

 神経系を麻痺させる猛毒の症状だ。

 入り込んだ毒は、神経、呼吸器、心臓という順番に、人の肉体を冒していく。

 毒の種類がわかれば解毒も可能だが、調べている間にも男は絶命するだろう。

 男を助ける術はない。

 男の指が縋るように一颯の手を握ってくる。握り返すことしかできない歯がゆさに、唇を噛み締める。



「く……さ」



 男の唇から、掠れた声が零れた。



「何? もう一度、言って」



 男の口元に耳を寄せる。



「くさ……り」

「え?」



 一颯の目が、大きく見開かれる。

 男の指の爪が、一颯の手の甲にきつく食い込む。



「クサリに関わったのか? 教えてくれ! 何が起こっている!」



 しかし男の耳に一颯の声が届くことはなかった。

 激しい痙攣で身体を跳ね上げた後、すべての力を失ってぐったりと横たわる。緩く開いたままの唇から、涎と泡がだらだらと流れ出ていく。



「だから消されたのか……」



 男の指が一颯の手の中からするりと抜け落ちる。

 傷ついた大腿部が体重を支えきれなくなり、一颯がその場に崩れ落ちる時、扉が開いた。



「どうしまし……あっ! なんてこと!」



 入ってきたのは、先程、一颯の包帯を変えてくれた中年女性の癒し手だ。ベッドの上で明らかに息絶えている男と、血まみれの一颯を見て、声を上げた。



「誰か! 手を貸して! 警備の者を呼んで!」



 彼女は部屋の外に向けて助けを呼び、ベッドの脇にぺたりと座り込んでいる一颯の肩に手を触れる。



「何があったんですか」

「何者かが入り込んで、この男に毒を……助けられませんでした……すみません」



 一颯は俯いたまま、男の爪痕の残る右腕を左手できつく握り込む。



「すぐに手当を。傷が開いてしまってるわ。歩けますか」

「詰め所に連絡をしなければ……」



 一颯の指が式を作る印を組もうとするのを、癒し手の手が留める。



「こちらでやります」



 女性は、やってきた若い男二人に簡単に状況を説明し、一人に詰め所への式を飛ばさせる。



「あなたは院長を呼んできて。もう一人は、こっちに手を貸して」



 若い男の手を借りて、一颯はベッドに戻される。



「すみません……僕がいたのに」



 血に濡れた着物の裾を握りしめる指が白く震える。

 癒し手の手が、そっと一颯の指に触れる。



「まずは治療をさせてください」



 ゆっくりと指を解き、傷の治療を始めた。状況を知ってやってくる癒し手や見習いたちにてきぱきと指示を出していく。

 手当を受けている間、一颯の瞼は、ざわつく周囲を拒絶するかのように固く閉じられたままだった。

 今、一颯を襲っているのは、傷の痛みなどではなく激しい自責の念だった。



 気づいていたのに……

 侵入者に気づいていたのに、毒が塗ってある可能性を失念したせいで、男は死んだ。まさかこのような場所で暗殺などあり得ないと、状況を軽んじていた。



 その存在の一端をこの手に掴んだ瞬間だったのに。



 クサリ



 男の最後の言葉だ。

 それは、正体の分からぬ謎の組織の名だった。



 矢杜衆の中に、深く根付いているという。

 百年以上も前から、代が変わろうとも、それは存在し続ける。

 巫女に反する勢力。

 地下に潜り、決してその正体を現さないが、その存在は一部の者には知られている。

 矢杜衆が正式に関わっていない医薬品や貴重な医療技術の流出や様々な暗殺事件、隣国との大戦さえもクサリの動きによるものだと推測されている。

 一颯は、クサリを追っていた。

 それは、前矢杜衆長から課せられた、極秘任務だった。



「渡会」



 一颯を呼び戻す低い声が、空気を震わせる。

 ゆっくりと瞼をあげる。

 目の前に、矢杜衆長の右腕、加内永穂がいた。

 加内がいるということは、長が動いたということに等しい。



 今イカルには、ニリによる巫女誘拐という危機が迫っている。内通者もまだ確定できていない。そんな状況で起こった暗殺事件に長が動くということは、ニリの件に関係しているのだろうか。



 そうかもしれない。

 けれど、まだわからない。

 今、確かなことは一つだけだ。



「加内様」

「大丈夫か。顔が真っ青だ」



 一颯の顔を覗き込むように僅かに首を傾けると、きりっと結い上げた長髪の先が背中を滑り落ちる。



「クサリが、動いています」



 一颯は加内の目をしっかりと捉え、巫女と矢杜衆を巡る古い因縁が、表立って動き始めたことを伝えた。



 加内の眉間がぴくりと動く。

 雨粒が窓を叩く。

 いつの間にか、雨が降り出している。

 状況の深刻さを象徴するかのような強い雨に、一颯はさらなる重苦しい空気を感じていた。

渡会一颯は、序盤で真鳥を庇い大怪我を負い、真鳥が

『真鳥を誰1人として覚えて居ない孤独の世界に置き去りにされること』

と引き換えに犬神に救って貰ったバディ(相棒)です。

勿論、今は真鳥の事も忘れています。


今日もお読みいただきありがとうございました。

次の更新は明日(9/12、火曜)です。

よろしくお願いします。

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