第5章22話
真鳥と祈織が、窮地を脱したのと同時刻。
矢杜衆詰め所一階のラウンジに、一人の男が足を踏み入れる。
「雷吾さん! お久しぶりです!」
ラウンジで数人の仲間としゃべっていた若い男が席を立ち、雷吾の方へ走って来る。
「おう! 久しぶりだな。どうだ、調子は?」
「はい! 元気にやってます。今日はどうしたんですか?」
「別の任務があってな。そっちは今日はもうあがりなのか?」
「はい。報告書を出してきたところです」
「もう任務には慣れたか?」
「はい! 今度、矢影七位の試験を受けることになりました。雷吾さんのご指導のおかげです! ほんとに尊敬してます!」
「俺じゃない。お前が頑張ったからだ」
「違います! 同期で俺が一番に七位の試験受けられるんです。他のやつらとの違いは、矢杜衆になって最初に雷吾さんに指導してもらったことです。貴方からたくさんのことを学びました。護るために戦うこと、生きて還ること、仲間を大切にすること。俺がここまで生きてこられたのは雷吾さんがいたからです!」
まだ幼さを残す青年が、興奮で顔を赤く染めながら、雷吾に詰め寄る。
雷吾の右手を、青年がぎゅっと掴む。
雷吾が目を見張って固まっていると、青年と共にいた仲間たちがやって来る。
「こいつ、雷吾さんの指導受けてからものすごく伸びたんですよ。誰よりも真剣に頑張ってました。褒めてやってくださいよ」
「いっつも雷吾さんのおかげだって言ってますよ。うざいくらい」
「俺も雷吾さんの指導、受けたいです!」
「あっ、こいつ抜け駆けだぞ!」
「そうだそうだ! 俺も受けたい!」
青年の背や頭をバシバシ叩きながら雷吾に訴える。雷吾の周りに人が集まり、一気に賑やかになる。
雷吾の手はまだ青年に握りしめられたままだ。彼の温度が、想いと一緒になって雷吾に伝わってくる。
なぜ俺なのか。
守土のことしか頭になく、守土のために生きて死ぬと決めている。
気持ちは嬉しい。
でも彼らにそこまで慕われる理由が、雷吾にはわからなかった。
「お前たち、俺たちなんかでいいのか? もっとすごいやつは山ほどいるぞ。ほら、犬神様と一緒にいる八束とか。長の信頼も厚いと聞いている」
「雷吾さんがいいんです!」
「俺も!」
「俺も!」
口々に雷吾がいいと、彼らは言う。
いつのまに自分はこんなにも慕われていたのだろうか。
雷吾が小さく首を捻る。
目の前の青年は、雷吾の手をさらに強く握る。
「雷吾さんは、俺がどこで躓いているか、技術や鍛錬だけでなく、心の中のことまで面倒みてくださいました。俺がしくじって怪我した時、もう矢杜衆やめたいって思いました。でもあの時、雷吾さんがそばにいてくれたから、俺、踏ん張れました。踏ん張ってよかったです。あんな風に自分のことを見てくれる先輩は他にいませんでした」
この青年の指導役を引き受けたのは、もう五年以上も前だ。
雷吾自身が杜仙になったばかりの頃だった。杜仙一年目に、若手の指導に就くのは矢杜衆の慣わしみたいなものだ。守土の護衛をしつつ、一年間、指導した。
頭の回転が早く、機転が効くこの青年を、雷吾はすぐに気に入った。
自分がこれまで身につけたすべての技術や考えを彼に教えこんだ。それこそ惜しみなく。自分が、守土に大切にされたように、雷吾はこの青年を大切に育てた。守土から得たものを、この者に返していこうと思った。
一年後、彼は雷吾の期待以上に成長した。彼との最後の任務で、彼の姿を誇らしく思った。
それ以降は、守土専属となったため、一緒の任務に就くことはなかったが、たまに詰め所などで顔を合わすと、いつでも嬉しそうに雷吾の方に飛んでくるのだった。
そして彼だけでなく、彼の仲間もこんな自分を慕ってくれる。
雷吾の中に、静かな感慨が湧き上がる。
いつのまにか、自分は守土だけの矢杜衆ではなく、矢杜衆の一員になっていたのだ、と思えた。
今日でなければ、どれほどよかっただろうか。
いや、今日という日だからこそ、彼の言葉を聞けてよかったと言えるのかもしれない。
「本当にありがとうございます! このご恩、一生かけて貴方に返します!」
青年の言葉に、雷吾は静かに首を振る。
「それは俺じゃなく、お前の後輩に返すといい」
「雷吾さん?」
青年が首を傾げて、長身の雷吾を見上げる。
「俺を育ててくれた人が言っていた。受けた恩は後輩に返せと。俺はそうした。そしてお前は期待以上に成長した。誇らしいよ。満足だ。何も思い残すことはない。お前にその時が来たら、めいいっぱい後輩に恩返ししてくれ。必ずだぞ。いいな?」
雷吾の真剣な眼差しに、青年が不安をあらわにする。
「雷吾さん、それってなんだかもう会えないみたいな言い方に聞こえますよ。任務でどこか遠くにでも行くんですか?」
雷吾は彼の不安を払うように、彼の頭をくしゃりと撫でながら笑う。
「心配するな。ちょっと長期の任務でな」
「そうですか。ちょっとひっくりしましたよ」
「すまんすまん」
いつもの雷吾の姿に、青年も安堵したのか笑顔を見せる。
「約束します。後輩に返します。でも、雷吾さんにはもっともっと教えてもらいたいことあるんです。また特訓、お願いします!」
「わかったよ。あ〜メシでも誘ってやりたいところだが、そろそろ行かなくちゃならないんだ。悪いな」
「そんな、いいですよ! 任務から戻られたらぜひ!」
「約束だ。それじゃあな」
「はい、お疲れ様です」
後輩に見送られて雷吾はラウンジを通り抜ける。
自らが鍛えた後輩との会話で、雷吾の中にあった緊張が解けたように感じられる。彼の笑顔と成長ぶりが、雷吾の背中を押してくれる。守土への恩はちゃんと返せた。
「満足だ」
小さな呟きは、ラウンジの喧騒にかき消される。
雷吾は、ゆっくりとした動作で、ラウンジを出て回廊を歩く。
向かうのは、詰め所地下にある監房だ。矢杜衆の取り調べを受けている間、被疑者が留め置かれる場所である。
雷吾は、気軽な様子で、監房の入り口を守る男に声をかける。
「おい、交代の時間だ」
「あれ? 私の次は丸屋のはずですが」
「そいつに急な任務が入ったとかで、こっちに回ってきたんだ。ほら、任務書」
雷吾が差し出した任務書にさっと目を通す。どこにも間違いはないようだ。
「ほんとだ。あ、申し訳ありません! 杜仙の方に失礼を」
「いや、気にするな。何か引き継ぐことはあるか?」
「現在は三号室のみ被疑者がいます。他は空です。その三号室ですが、何かに怯えているみたいで、時々騒ぐんで注意が必要です」
「了解した。後は任せてくれ」
「はい。では失礼いたします」
雷吾は、男の足音が階段を登りきるのを確認した後、執務机の上にあった灰皿の上で偽の任務書を燃やす。
そして、ポケットから一通の書簡を取り出す。
宛先はない。
しばらくの間、その白い封筒を見つめる。
初めて、守土に出会った日は真っ白な雪が降っていた。
春だというのに、冬が舞い戻ってきたような寒さだった。道端で膝を抱えたまま座っていると、大きな雪片がどんどん自分を隠していった。
このまま死ねば、もう食べ物を探して歩き回らなくていい。
瞼を閉じたら、頬に触れた雪が急に温かく感じた。
それは守土の手のひらだった。
あの日から、雷吾のすべては始まった。
「これで、終わりにする」
監房の鍵を手に、雷吾はゆっくりと歩き出す。
その夜、矢杜衆詰め所地下の監房で、二つの死体が発見された。
一つは一颯が倉庫街で捕らえた男で、議長襲撃の被疑者だった。
もう一方は、芳司守土の専任護衛を務める梶間雷吾だった。
議長襲撃については自分の一存であるという手記が、そこに遺されていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
2024/6/3
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