裏切りの交差(1)
***
閉じた瞼の向こう側が明るい。
皮膚の表面がじわりと温かくなる。光と影が交互に揺れている。
鳥のさえずりが聞こえる。
女は大きく一つ深呼吸した。吸い込んだ空気は軽くよく乾いており、何か植物の香りを含んでいる。
薬草だろうか。
まるで木漏れ日が降りそそぐ林の中で、ゆったりと目を閉じているかのようだ。
イカルの深い杜に抱かれているような、懐かしさが身体を包む。
このままずっとそうしていたいという願いをどうにか押しやって、女はゆっくりと瞼を押し上げる。
白いレースのカーテンがどこからか流れてくる風に揺れている。その向こうから陽光が柔らかく入りこみ女を包み込んでいる。
朝?
声を出そうとして喉の渇きに気づく。それ以外は頭がぼんやりしている程度で、どこにも身体の異常は感じられない。
ゆっくりと身体を起こす。
女は、白いシーツの上に横たえられていた。柔らかな軽い掛け布団が身体を覆っている。白いレースが天蓋付きのベッドに施されており、女はそのレースに四方を守られながら眠っていたようだ。
ベッドのすぐ脇の窓は天井から床まである大きなもので、風と陽光はそこから入り込んでいた。窓の外は整えられた青い芝と、その周囲には若葉に萌える木々が溢れている。
ベッド脇のテーブルに置かれた陶器から香がゆるりと立ち上る。
「ここは……どこ?」
女は足をそろりとベッドから床に降ろす。素足に触れたのは冷たい大理石の床だ。
白い寝着が身体を滑り、花びらが散るような優雅な動きで足もとで揺れる。指先でそっと摘んでみる。
「絹?」
滑らかな手触り。明らかに自分の持ち物ではない高価そうな衣服にどきんと心臓が跳ねる。
何が起こったのだろうか。
軽く頭を振ってみるが、薄いもやがかかっているようではっきりしない。ちゃんと意識はあるのに、すべてがぼやけていて正常に思考できない。まるで脳の働きが一部、制限されているかのような感覚だ。
きらきらとした木漏れ日が、女を誘うように窓から入り込む。
女は開いた窓辺へと一歩足を踏みだす。
「冷たい」
床に触れた足裏があまりにも冷たくて、ぞくりと身体を震わせる。細い指先で、自分の身体を抱きしめる。
ふいに、女の身体がくらりと傾く。
思わず手をついたテーブルから香炉が落ちる。陶器製のそれは呆気な割れる。薬草のような匂いが、風に散る。
「あ……」
女は身体を固くした。
とても寒い場所に居たという感覚が蘇る。記憶は曖昧だが身体が覚えていた。寒くて暗い部屋にたった独り。身体を円くして蹲っていた。
あれはどこだったのだろう。
まるで、地下牢のような場所だった。
「牢……?」
深い闇に包まれていた女の視界に、赤く揺れる炎と影がちらつく。小さな影が汚れた石の床の上で揺さぶられ、力のない瞳が自分を見ていた。うつろな目が自分を責めるように真っ赤に充血している。
『あなたのせいよ』
頭の中で親友の声が響く。
「あ……ああっ!」
女は次々と蘇る記憶に耐えきれず悲鳴を上げた。長い髪をかきむしり冷たい床の上に倒れ込む。
「どうなさいました?」
バタンと扉が開いて誰かが入ってくる。グレーのワンピースに白いエプロンのお仕着せに身を包んだ、中年の女が駆け寄る。その手が女の肩に触れると、女は思いきりその手を振り払う。
「イヤっ!」
「どこか具合がお悪いのですか?」
恐る恐る使用人が問いかけると女は尻餅をついたまま、じりじりと壁際に逃げていく。
「……様?」
メイドが女の名を呼んだようだったが、女には届いていないようだ。
「イヤっ、来ないでっ!」
錯乱する女の前で使用人が途方に暮れていると、その背後で靴の鳴る音がした。
「どうした?」
「キリア様」
白い軍服に身を包んだ女が颯爽と歩いて来る。
年は三十前後だろうか。高いところに結い上げた金色の髪の柔らかそうな毛先が背中で揺れる。ぴたりとした軍服は膨よかな胸と細い腰、長い手足を強調する。規則正しく響く靴音が軍人であることを示している。
キリアは壁に縋るように身体を縮め込む女の前に無駄のない所作で片膝をついた。
あちらこちらを警戒しながらおどおどと動き回る女の瞳に自分の淡いブルーの目をひたと合わせると、美しく微笑んだ。
「大丈夫」
柔らかな声が、震える女を包む。
「もう大丈夫だから、怖がらないで。何も心配しなくていいから」
優しい声が女を撫でる。
キリアがそっと手を伸ばし、女の髪に触れる。薄茶色の細い髪が一房、するりとキリアの長い指から零れ落ちる。
繰り返し女の髪を梳く。
ゆっくりと絡ませ、するっと解く。
女はキリアの美しく整えられた細い指先に引き寄せられるように視線を這わせる。キリアの指が髪を離れ女の頬を滑る。女が顔をあげると、キリアは優しい笑みを与えた。
その笑みが姉のようにずっと側にいてくれたあの人を思い出させる。
あの人は、もういない。
女はすべてを思い出した。
自分の愚かさが招いた結果に、呆然としていた。
両の目から涙が流れる。
「よ……ぎ」
女は擦れた声で姉代わりだった人の名を呼ぶ。
冷たい指が涙を拭う。
拭っても拭っても、涙は零れる。
キリアは身体を前に傾けると女の頬に唇をあてた。まなじりを優しく吸い上げ女の顔に口づけを落とす。頬に、額に、鼻梁に、そして唇に。
まるで、愛おしい恋人への愛撫のような口づけだった。
繰り返されるうちに、女の身体から力が抜けていく。
キリアの指が頬を滑り、首筋を撫で、鎖骨をなぞる。耳朶を軽く咬まれると、女は小さく喘ぐ。
「可愛い人」
キリアの息が耳の奥を震わせる。女の僅かに開いた唇に、キリアの舌が入り込んでくる。
甘いと思った。
頭の芯がじわりと痺れていく。
冷たい床も、赤い炎も、三日三晩、男に組み敷かれて死んだあの人のことも、霧の向こう側へ隠れていく。
楽になりたかった。
何もかも忘れてしまいたかった。
あの地獄を忘れさせてくれるのなら、どんなものにも縋りたい。
女は、温かく甘美なその舌に必死に自分の舌を絡めた。深い口づけの合間に、何か小さなものが女の口腔に押し入れられた。
女がぴくりと反応する。
「お薬よ。辛いことが忘れられるの。大丈夫。さあ、もう眠って」
女はこくんと喉を鳴らして、口移しで与えられた薬を飲み込む。
キリアが女の身体を抱きしめる。頬を埋めたキリアの胸の辺りから甘い香りが漂う。
「いい子ね。いい子。貴女は何も心配しなくていいの。私の言うことを聞いていれば、何も怖いことはないのよ。もう大丈夫だから。貴女のすべてを私に預けてちょうだい」
キリアの指が女の髪を梳く。
女はその心地よい温度の中で、ゆっくりと意識を手放していく。
キリアの笑みがその質と温度を変えたことを女は知る由もなく、幸せな空白に身を委ねていった。
***
矢杜衆長の部屋のドアは、ここ数日、珍しく閉じられたままだ。
いつもは開きっぱなしで、書類の散らばった長のデスクが丸見えなのだが、今はぴたりと閉ざされ外部からの侵入を固く拒んでいる。
ニリの不穏な動きについては一部にしか伝えられていなかったが、何か重大な問題が起きていることは、長の部屋や強化された詰め所や神殿の警護などで察している矢杜衆も多い。詰め所の待合所では、あちらこちらに小さな輪ができ、様々な噂話が声を潜めて交わされている。
八束真鳥の名もその噂話の中の一つだった。
突然現れた若い矢杜衆は杜仙二位という高官で、伐や加内ともよく言葉を交わす。長とその直属の部下だけが入ることを許された矢杜衆長執務室にも頻繁に出入りしている。
そんな真鳥へ、嫉妬や懐疑的な眼差しが送られているのだ。
ニリの重要な情報を掴んでいるのだとか、実はニリの手先なのだとか、これまで以上に噂はエスカレートしている。
「おい、ヤツのお出ましだ」
今日も真鳥が矢杜衆詰め所に入ってくるなり、待合所全体がざわりと揺れる。
「え? どれ?」
「ほら、今、入ってきたヤツだよ」
「あれが八束真鳥か。俺、初めて見たよ。ずいぶん綺麗な顔してんだな」
「だろ? 顔で上に取り入ったって話も聞いたぜ。あの若さで二位なんて、なんか裏があるに決まってるさ。んで、今は、巫女のお気に入りなんだと」
「巫女にまで取り入ってんのか? 顔がいいと得だな〜。癒し手に頼んで顔変えて貰おうかな。あの人のそっくりさんに」
「ははっ! そりゃいいや! お前も出世できるぜ!」
笑い声の横をすり抜けて、真鳥はざわめく待合所を抜ける。
ニリから帰還したあの日から、自分に対する風評が強まっていることは知っていた。
伐は気にするなと言った。
もちろん自分は、そんなものを気にする性格ではない。任務に影響がないならば何を言われてもいい。
しかし、同じ警備の任務についている部下の師村がかなり噂を気にしているようで、任務開始から一週間が過ぎても、未だに目を合わせてくれない。会話をしていても、おどおどと視線を逸らせる。以前から知る師村はあれほど神経質ではなかったが、噂一つで人は変わる。そういう生き物なのだと思い知らされる。
一方、もう一人の部下である最賀は、あまり前と変わっていない。
真鳥のこともちゃんと見るし、以前の陽気な性質をそのままさらけ出している。多少、興味本位な好奇心が言葉の端々に含まれていることは否めないが、師村をフォローしてくれるので助かっている。
人間というのは面白い生き物だと真鳥は思った。
以前の自分なら気づきもしなかっただろうが、周囲の自分に対する接し方が変わるだけで今まで見えなかったものが見えてくる。
犬神が人前に姿を現してまで自分を観察しているのも、そういう人間の本質がちらちら見えるのが面白いからかもしれないと、妙に納得してしまう。
真鳥の背後ではまだ噂話に花が咲いているようだが、回廊に出るとその喧噪も途絶えた。
執務室のドアをノックすると、誰何の声があがる。名を名乗ると入れとの返答があった。
「八束、入ります」
「……お〜」
部屋の内部は、思わず入るのを躊躇うものだった。
部屋の惨状は、昨日訪れたときよりもひどく、床の上には部下三人が書類に埋もれるように転がっている。すでに意識は飛んでいるようだ。気持ち良さげな寝息をたてている。気を失うまでこき使われていたのだろう。
長はといえば、いつもは座らない執務机の前に座り、上半身をぐったりと書類の溜まった机の上に預けている。片手だけがゆらりと伸びて、ひらひらと真鳥を招くように動く。
「お疲れのようですね」
「だってあいつ、一昨日から寝かせてくれねぇんだよ」
「なるほど……」
伐があいつと呼ぶのは、副官・加内永穂のことだ。
真鳥の指導教官であり、仕事に厳しいことで有名である。たとえ相手が長であっても遠慮はない。ただ加内は長に対してのみ、通常の百倍くらい厳しいという噂もある。
「それで当の加内様はどこですか? 今日ここに来るよう式を送ってこられたのは加内様だったんですが」
「部下数名引きつれて急ぎの調査に出てったところだ。あいつももう、一週間くらい家に帰ってないんだけど元気なんだよな〜。今朝、奥方が着替えを届けに来てたよ。いいねぇ、妻帯者っていうのも」
若い頃は独身の方がいいと思ったんだけどねぇと呟きながら、伐は身体を起こし怠そうに椅子に背を預ける。
「状況は芳しくないようですね」
真鳥が表情を固くする。
「あいつから書類を預かってる」
机の向こうから数枚の書類の束を真鳥に手渡す。
受け取った書面には人名が並んでいた。その右側には数字が打ち込まれ、さらにいくつかの名には黒い印がついている。
「過去、ニリへの任務に行ったことがある者のリストだ」
「数字は回数ですか?」
「そうだ」
ニリとは昔からいざこざが絶えないため、内偵調査の任務に就く者の数は多い。諜報活動の上で重要な言語や風習などをマスターしている者は、繰り返し派遣される。真鳥も一颯と共に幾度かニリへの任務についたことがあるのでリストに名がある。
真鳥は数ページに渡るリストに目を通し、最後のページで手を止める。
黒い印が二つ並んでいる。
そしてそこに記された名前は、真鳥にとって、現在、最も身近ともいえる名前だった。
「この二人、こんなにニリに行っていたんですね」
「ニリの言葉に精通してるんでな。特に男の方は地方の方言に詳しい。そんな二人が、巫女の警護に就いている」
「この二人が選ばれたのは偶然ですか?」
真鳥の声が緊張を増した。
「過去に神殿警備についた経験のある者から選んだ。リストアップしたのは事務方だが、最終的には俺と加内が許可を出した。最初に人選した事務の者については、その素性等について、現在、調査中だ」
「故意に選ばれたとなれば、内通者あるいは内通者の協力者かもしれないですね。ただ二人とも任務では優秀ですから選ばれたとしてもおかしくはないかと思われます。二人重なっているのは気になりますが」
「今の段階では、まだ統計的な見地からだけだが、もしやってこともある。警戒してくれ。印が付いている者のニリでの任務内容については、別途、洗わせている。分かり次第、連絡する」
「了解しました」
一礼し部屋を辞する真鳥の脳裏に、最賀の影からおどおどと自分を窺い見る若い矢影・師村と、養成所時代からの知り合いである彩葉の顔が浮かんでいる。
彩葉がニリの任務に就いていたと聞いた事があったが、師村がニリの地方言語に秀でているとは知らなかった。
あの朝、神殿の庭で感じた僅かな殺気は、この二人のどちらかが放ったものだったのか。
現時点の情報だけで判断するのは難しい。本人たちを注意して観察するとともに、裏からの調査が必要だ。
時間がかかりすぎるな……
過去の任務内容の裏を取るのなど、途方もない作業だ。あげく、何も出なかった、という結果もあり得る。かといって証拠もなしに尋問することはできない。矢杜衆も護られるべき人権がある。
真鳥は回廊の途中で足を止め、中庭を美しく彩る花を眺めながら、きゅっと眉根を寄せた。
何かに背後から追いかけられているかのように、落ち着かない。
ニリの攻防から、すでに一週間が過ぎている。
伐も加内も彼らの部下たちも、寝ずの調査を進めている。しかしまだ内通者の特定ができない。巫女誘拐への動きも掴めない。
調査に時間がかかっている間に行動を起こされでもしたら防ぎきれない。
全てが後手に回っているのだ。
「ただ状況を見守るしかないのか……」
真鳥は溜息と共に空を仰ぐ。
真四角に切り取られた空は青く、いくつもの真綿のような白い雲を浮かべている。
真鳥は騒々しい待合所を避け、中庭から二階の内回廊の手すりへ、さらに三階の屋根へ飛び上がり、矢杜衆詰め所を後にした。
これから任務に出る若い矢杜衆たちが詰め所から元気よく飛び出していく様を視線の端に捉え、真鳥は自分の家のある北を目指す。
太陽はだいぶ高くなっている。
早く家に帰って身体を休めなければならないのに、彩葉と師村のことが頭を離れない。
いつ、動く?
彼らが内通者である場合、オレはどうする?
しばし街の様子を眺めていた真鳥は、詰め所の屋上を蹴り、跳躍する。
初夏を思わせる陽気の中を、重い気持ちのまま、家を目指した。
加内永穂は、矢杜衆長・伐に次ぐNo.2で彼の副官です。
長不在の時は、伐より矢杜衆を束ねて命令を下す全権を預かることもあります。
しかし、伐と加内はバディ(相棒)ではありません。
今日もお読み頂きありがとうございます。
次の更新は、明日(9/9)です。
よろしくお願いいたします。