インスピレーションVS本能
1
変化のない毎日は退屈だ。いつもそう思っていた。
しかし、その変化のない毎日が、どれだけ幸せだったか、いま痛感せざるを得ない。
出来るなら、あの頃に戻りたい。
後悔などしようがない。
なぜならば、何故このような状況に陥ったか、私自身、何も分かっていないのだから。ただ私は、漠然と日常を過ごしていただけなのだ。
あの日、玄関のチャイムが鳴ったのは、朝の八時前だったと思う。
前の日の就寝が遅かったので、まだとても眠かった。来客の予定もなかったはずだから、大した用事ではないだろうと、まどろんだ意識の中で、居留守を使うことに決めた。
しかし、しつこかった。五、六回のチャイムを聞いても、鳴り止む気配がない。何か重要な用事かも知れないと思い直し、玄関のドアを開けた。
二人組のスーツ姿の男性の一方が、警察手帳を見せて来たとき、戸惑いも感じたが、非日常への期待感も感じたのは間違いない。いま思えばそれは完全に誤りだった。本気で怖れるべきだったのだ。そのとき以降、この住み慣れたアパートに帰って来ることは、二度と出来なかったのだから。
近所の目があり、外で立ち話をするのは、良くないだろうと言われて、男たちを部屋に入れることになった。冷蔵庫に常備していた来客用のペットボトルに入ったお茶を取り、賞味期限を確認してから、座卓の上に置いた。
刑事たちは立ったまま、部屋の中を無遠慮に舐めるように見ていた。何か面白いことが起きるかも知れないという期待感から、やや歓迎の意を持っていたのだが、その気持ちは少し削がれた。「お座りください」と言ってみたが、「お構い無く」と言われてしまった。二人ともニコリともしなかった。それから始まる会話において、出来るだけ有利に進めたかったのだが、つけ入る隙がないほど、完全に心がガードされていると感じた。
立ったまま、一人が尋ねてきた。
「池ノ端へ行かれたことはありますか?」
会話が始まった。
質問の意図が読めなかったが、嘘をつく理由もなかったので、まずは正直に答えた。
「はい、一昨日の夜に行きました。高梨山の登山口近くにある池の辺りのことですよね?」
「はい、そうですね。この辺で池ノ端と言えば、そこしかない。一昨日の夜に行ったのですね。何のために?」
「昔、柔道をしていた仲間たちと、久しぶりに会おうよという話があって、そこが待ち合わせ場所だったのです」
「ほう、それでは他の仲間たちも一緒にいたのですか?」
「いえ、どうやら僕だけ日付を勘違いしていたみたいで。約束の十九時になっても、誰も来なかったので、幹事の奴に携帯電話で聞いてみたら、待ち合わせは一昨日ではなく、一週間後の八月十七日と言われました」
「なるほど、じゃあ一人だったのですね? 池ノ端で、何か特に変わったことはありませんでしたか? 珍しいものを見たとか」
「いや……、特になかったと思いますよ。ところでなぜ、そんなことを僕に聞くのですか?」
年配のほうの刑事が、若いほうの刑事を見て、二人で目を合わせ、了解の合図をとってから言った。
「実は昨日、池ノ端で何者かによって殺害されたと思われる遺体が見つかりましてね。一昨日あなたが、その方面から自転車に乗って来るのを見たという人がいるのですよ。とても思い詰めたような表情をしていたと、その目撃者は話しています」
「遺体……。僕は何も知らないですよ。思い詰めた表情って……、そんな馬鹿な。待ち合わせの日は、確かにその当日だと言っていた記憶があったから、一週間後と言われても、しっくり来ないという気持ちはあったかも知れませんが……」
「なるほど。そして、被害者の名前はですね、平埜候一さん。あなたと同級生だと思いますが、聞き覚えありますか?」
「えっ、平埜が? あいつが……、死んだ? どうして?」
「それは、こっちが聞きたいですね。あなたと柔道の仲間だったそうですね。死亡推定時刻は、一昨日の夜。あなたはその時現場にいた。しかも、背中から胸を一突きされているから、油断して背中を見せるほどの顔見知りの犯行と思われる。そうなると、あなた以外に犯人らしき人はいないのですよね」
「そんな……、僕は殺していません」
「ほとんどの人が、最初はそう言いますね。続きの話は、署のほうに来て頂いて、聞かせてもらっても良いですか?」
完全に犯人扱いされているので、危ない気がした。そこで、悪い流れを絶ちきりたくて、聞いてみた。
「断ったらどうなりますか?」
「正式に逮捕状を持って、同行いただくことになりますね。サイレン鳴らしてパトカーは来るし、マスコミも来るだろうから、テレビのニュースで名前が出ることにもなるでしょうね」
横暴な脅しだと思ったが、本当にそうなったら困るので、仕方なく、とりあえずは、刑事たちに付いて行くことにした。
2
高梨警察署の刑事課のデスクは四階にある。飴田羊子は、正面入口を駆け抜けて、一直線にエレベータの方に向かった。署内は走らないという暗黙のルールがあるから、周りの視線が痛い。でも、気にしていられない。八時半の朝礼に間に合わないと、先輩刑事の河東から、今日もしつこく嫌味を言われてしまう。パワハラだとかセクハラだとか、そんなものに該当しそうな言葉が、確実に浴びせられるが、遅刻した手前、黙って聞いているしかない。そんな苦痛の時間はもう嫌だ。そんなに嫌なら、早く家を出て出勤すればよいと思うかも知れないが、そうも行かない。私は朝に弱いからだ。
なんとか間に合った朝礼が終わり、とりあえず席に座って、一息つこうとすると、河東のいつもの荒っぽい声が横から聞こえてきた。
「おい、いつもギリギリじゃないか。もっと早く来れないのか?」
ああ、間に合っても結果は同じだったか……と思って振り向くと、河東の横に寺田さんもいた。
「池ノ端の事件な、今朝、寺田と容疑者の自宅に行ってな。連れてきた。第二取調室だ。お前が担当して尋問してみろ。詳しいことは寺田から聞け。じゃあな」
寺田さんから聞いた話によると、容疑者の名前は榛名孝、二十四才。被害者の平埜候一とは、小中学校で、同じ柔道クラブに通っており、相当仲がよかったらしい。殺害は否認しており、詳しい動機などは不明。取り調べして、容疑者の榛名に犯行を自供させることができれば、私の仕事は終了らしい。
二十四才と言えば、私の二つ下で、歳は近い。しかも、柔道をやっていたという共通点もある。普通のOLになりたいと、ぼんやりと思ってはいたが、柔道が強かったから、警察官にスカウトされて、そのまま交番勤務になってしまった。それから、一年ちょっとで、どういう訳か、刑事課へ異動。私はこれからどうなっていくのか、想像もつかない。取り調べの尋問も初めてだ。やってみるしかない。
第二取調室へ行くと、容疑者の榛名がいた。あくまで容疑者で、犯人と確定している訳ではないので、礼儀正しく接することにした。
「こんにちは、私は刑事課の飴田といいます」
「榛名です……」
「一昨日、池ノ端へ行かれたそうですね。一通りの話は聞きました。被害者の平埜さんと最後に会ったのは、いつですか?」
「高校のときだから、今から五、六年前だと思います」
「そうですか。一昨日は、会ってないですね?」
「はい。もちろんです。僕のこと、疑っているんですか? やってないのに…」
「私は今日会ったばかりだからまだ……。いや、警察としては疑っていますね。私の先輩があなたを疑わしいと連れてきたから、それなりの理由があるはず。もし、仮に榛名さんが犯人の場合、隠してあとでバレるよりも、早めに本当のことを話しておいた方が、罪が軽くなりますよ」
「やっていないものは、やってないんです」
「なるほど。ちなみに、今回会うことになっていた、あなたの柔道の仲間は何人ですか?」
「四人です。僕と平埜と、キャプテンをやっていた足田と、山内という奴です」
羊子は、一旦部屋から出て、このやり取りを監視できる別室へ赴き、そこにいた河東に話しかけた。
「河東さん、私はあの人が犯人だと確信できません。嘘を言っている気がしないのです。他に犯人がいる可能性はないでしょうか?」
「バカなこと言ってんじゃないよ。まだほとんど話していないじゃないか。しかも、聞き込みやって、出てきた怪しい奴はあいつだけだぞ。他に誰がいるって言うんだ。十中八九、あいつが犯人だ。自分からやったと簡単に言う犯人なんて、そう多くはいないぞ? お前が騙されてどうする」
「でも、万一あの人が犯人でなかったら、冤罪になってしまいます」
「そうは言うが、あいつが犯人で、このまま逃してしまった場合、殺人犯を裁けないことになるぞ」
「確かにそうですね……。今のところ、あの榛名がやったという物的証拠はないわけだし、もう少し、怪しい人がいないか、私が一人で聞き込み続けてもよいでしょうか?」
「担当のお前がそう言うなら仕方ないが……。無駄だと思うぞ」
羊子は、取り調べを中断して、まず榛名が話していた柔道仲間に会いに行くことにした。
まずは、キャプテンをやっていた足田洋平に連絡を取った。身分を名乗って会いたいと伝えると、仕事があるから、週末の土曜日にしてくれと言われた。今日は月曜日だから、そんなに待てるはずがない。すぐにでも会いたいので、会社に伺うと言うと、駅の裏手にある喫茶店を指定された。喫茶店には、十一時二十分に着いた。ひと昔前の趣のある小さな店で、お昼前だからか、ガラガラで、奥の方にスーツ姿の客が一人、アイスコーヒーを飲んでいるだけだった。羊子もアイスコーヒーを頼んで、真ん中辺りのテーブルに座った。約束の十一時半になっても、足田は来なかったので、携帯で電話してみると、奥にいたスーツ男の辺りで着信音が鳴り出した。ああ、既に来ていたのかと思った。男は急いで近寄ってきた。
「すみません、気付きませんで。足田と言います」
「高梨署の飴田です」
「お一人ですか」
「はい、一人です。いけませんか?」
足田は、少しほっとしたように見えた。何故だろうかと、少し違和感を覚える。きっと女一人だから、軽く見て安心したのだろうと推測した。あまり、良い気持ちはしない。しかし、この男は、よく見ると顔が整っており、イケメンだ。スーツ越しでも分かるくらい、筋肉もしっかり付いている。違う形で出会いたかったような気もする。
「私は、平埜候一さんが殺害された事件で、榛名孝さんの取り調べを担当しているのですが、お二人ともご存知ですよね?」
「ちょっと待って下さい。平埜が殺された? そして犯人は榛名? 本当ですか?」
足田は、努めて驚きと悲しみを表現しているように見えた。ひょっとして、あまり仲良くなかったのだろうか。だから、悲しくないのだろうか。
「ああ、まだご存知なかったのですね。榛名さんの話だと、柔道の同窓会のために、四人で池ノ端に集まる予定だったと聞いているのですが、間違いないですか?」
「はい、間違いないです。私が幹事として、四人を誘いました。ただ、一昨日……かな。榛名から妙な電話がありました。約束の十九時になったけど、誰も来ないじゃないかと。約束していたのは、八月十七日としっかり伝えていたはずなんですけどね」
「なるほど。その一昨日の午後七時頃、あなたはどこで何をされていましたか?」
「友達と映画を観ていました。アリバイですよね?」
あとは、事務的な内容を適当にヒアリングして、足田とは別れた。
のちに、一緒に映画を観ていたという友達に電話をして、確認したところ、確かに足田と映画を観ていたらしい。映画館も足田とその女友達のことを覚えていた。二人の記念写真を頼まれたそうだ。やはり、あの男はモテるのだ。
榛名のほかに犯人候補がいないか探すのが、当初の目的だったが、足田はアリバイがあるので、除外するしかなさそうだ。
次に、山内に会いに行った。柔道仲間の四人は、死亡した平埜、容疑者の榛名、先ほど会った足田、そしてこの山内と聞いている。山内の家は、商店街で八百屋をしており、お昼どきを過ぎた十四時頃に着くと、暇そうに店番をしている若い男がいた。その男が山内だろうと思ったら、ビンゴだった。事情を説明すると、山内も驚いた。そして平埜が帰らぬ人になったことを嘆いていた。本当に驚いて、嘆いているように見えた。私は気になっていたことを聞いてみた。
「四人の仲はよかったのですか?」
「そりゃもう、よかったですよ。もう一人、井藤という女の子がいて、小学生のとき、五人で団体戦に出ていたのですが、その五人は幼なじみみたいな感じで、気心知れていました。井藤……宥子は、中学のとき、何故か自殺してしまったんですけどね。それから、残り四人で話すことは少なくなりました」
「……色々あったんですね」
その自殺以降に、メンバー間で話すことが少なくなったということは、自殺の原因に、残りの四人が何かしら関係していたのだろうか。いや、でもその女の子がメンバー間の橋渡しのような役割を担っていたとすれば、その子がいなくなったことで、メンバー間のコミュニケーションが少なくなったとしても不自然ではない。ただ、ここは今回の事件ではないから、深入りしないでおこう。
「殺された平埜さんは、どんな人でしたか?」
「私が知っている範囲だと、お調子者というか、裏表のない性格だったかなと思います。正直にものを言うので、時には腹立たしく思ったけれど、信頼はできた。良い奴でしたね」
「容疑者になっている榛名さんはどうですか?」
「あいつは、頭がとてもよかった。だから、嘘をついて都合のよいように話すことが多かったかな。本心がどこにあるのか、少し掴みにくいところはありましたね。何年も話していないから、今はどうか知りませんがね」
榛名の評判は、あまり良くないか……。
「あと、足田さんはどうでしたか?」
「あの人は、優等生で、クラス委員や生徒会長もやりました。人気があって、いつもリーダー的な立場にいましたね。非の打ち所のないように見えましたが、女性には弱くて……。モテるから、よくデートはしていたけれど、長くは続かず、何か欠点があって、よく振られていたようです」
なるほど、あのイケメンは、女から見て何か欠点があるのか。男からの評判はよさそうだ。まあでも、山内からしか話を聞いていないので、三人の評判は、まだ参考程度と認識せねばなるまいが。
夕方、高梨署に戻ると、上司の河東が、副署長とエレベータホールで話していた。
「どうして飴田を刑事課に配属したんですか! ほぼ犯人に間違いない容疑者を置いて、外に聞き込みに行きましたよ。殺人事件だから、早くホシを挙げないと、マスコミにまた警察が叩かれるから、署長からも今週中には解決するように言われているのに……」
ああ、やはり河東は私を応援してくれる訳ではなく、煙たがっているのか。気持ちが落ちて、自信もさらになくなった。
「あいつはな、なぜか非常に勘だけは良いんだ。刑事の勘という言葉があるように、刑事には、勘の良さが必要だろ? そして気が強い。お前らのような集団でやっていくには、強くないといけないからな」
そう言って、背を向けて食堂の方に歩いていく副署長を、河東は「待ってください! 気の強いのは分かりますが、勘が良いってどういうことですか?」と言って、追いかけて行った。私の勘が良い? 全くそう思われた根拠が思い浮かばない。きっと、副署長は、河東を適当にあしらっただけだろうと思い、その出来事はそのまま忘れてしまった。
翌日の午後、羊子はこの事件の担当から外された。聞き込みで外出している間に、河東が取り調べを行い、榛名の自白にこぎ着けたらしい。最初、乱暴な取り調べをしたのかも知れないと疑ったが、最近は、取り調べの様子を他の警察官が監視も出来るし、念のため録画もされていたようだから、それほど無理なことも出来なかっただろうと思った。やはり、榛名が犯人だったのだ。担当は河東になり、手柄も河東のものだ。
それから、二か月か三か月経った頃、事件で知り合った足田洋平から電話があった。こないだの喫茶店に一人で来てほしいと言う。どんな用件かも言わない。会ってから話すと言う。こないだの事件について、言い残したことがあるのかも知れない。しかし、あの客の入りが悪い店に一人は危ない。同僚の寺田さんに事情を話して、喫茶店の外に待機してもらいながら、足田と会って話を聞いてみることにした。
店に入ると、前回と同じように足田は奥のほうに座っていた。前と違うのは、スーツ姿ではなく、羊子を認めると、すぐに近づいて来たことだった。
「用件は何ですか?」
警戒しながら言った。足田はなかなか言葉を発しない。話すのに勇気がいる内容のようだ。羊子が根気強く待っていたら、突然大声を出されて驚いた。
「僕とデートしてくれませんか? 警察の人だから忘れようとしたのですが、あれからあなたが気になって……。付き合っている方はいるんですか?」
「いや、それはいませんが……」
反射的に答えたが、予想外過ぎて、倒れそうになった。深呼吸して落ち着いて、刑事が容疑者と個人的に会うのはNGだと言って断ろうとしたが、あの事件はもう解決していて、足田はすでに容疑者ではない。女性として話しかけられたのは、長らくなかったから、正直に言って戸惑った。すぐに返事できないから、また連絡することにして、喫茶店を出た。
無線で内容を聞いていた寺田さんには、笑われた。
その日は、やり残した仕事は翌日に回し、早めに家に帰って考えた。
あの人は、今日はどう見てもシャイで、男らしくなかった。イケメンで、筋肉質で、外見は体育会系に見えるから、見かけによらない。でも、悪い人ではなさそうだ。アリバイの時に、映画館に一緒に行った女性がいたことが気になるが、どうせ振られたのだろう。あの人のことをよく知らないが、私もいつか男性と付き合って結婚しないといけないし、私を必要としてくれるなら、デートくらいはしてみても良いか。
そんなことを思って、羊子は足田に電話をかけて、前向きな返事をした。
それから、何度かデートを重ねるうち、足田のことがわかってきた。話はそれほど上手くはなく、大事なときに逃げようとする傾向がある。しかし、悪い人ではない。だから、プロポーズを受けたとき、承諾した。結婚してみると、意外とよかった。収入は程々にあるし、浮気をしている様子もなく、休日はよく家にいる。やがて、子供ができた。三人で散歩したり、食事をしたり、将来のことを話したりしているうちに、羊子はもう、足田とこの子無しでは、生きていけないと感じていた。それほど、充実した日々だった。
産休明けに署に行くと、サイバー犯罪課というところに異動になっていた。とりあえず、もう少しだけ働いてみようと思っていたが、ここは働きやすかった。どんなに忙しくても、他の人がフォローしてくれて、早めに帰宅できる。子供の世話があるから、これはとても助かった。
サイバー犯罪課の業務には、アクセス動向調査というものがあった。毎月、犯罪に関係しそうなワードでWEB検索している人を抽出して、一定以上の数値が出た人を犯罪予備軍として、マークしておくことが目的だ。羊子はその担当になった。担当になって半年くらい経った頃、抽出されたリストを見て、羊子は自分の目を疑った。
そこに、足田洋平の名前があったのだ。
MACアドレスを控えて自宅に帰り、居間のパソコンを確認すると、異なるアドレスだったから、夫の部屋のパソコンからのアクセスらしいと思った。検索ワードは「池ノ端」「殺人」「時効」「榛名孝」「裁判」「死亡推定時刻」「凶器」などの頻度が高い。
夫を信じていれば、家に帰って事情を問うてみることもできそうだが、羊子は夫が、何らかの形で、深くあの事件に関わっていたことを直感した。強いインスピレーションで疑いようもなかった。このまま、上司に報告すると、足田は逮捕され、羊子は子供と二人で残されることになるだろう。それを想像すると、羊子の精神が張り裂けそうになった。羊子は自身の大部分が、家族と既に融合していた。彼ら無しでは生きられない。羊子は本能的に、抽出リストから、足田洋平のデータを削除した。その夜、自分のしている業務を夫に話し、パソコンからの検索を中止するように、牽制した。
3
足田洋平は、自分のことを運が良いと思っていた。
小学生のころ、母が大事にしていたイヤリングを失くして落ち込んでいるのを見て、喜ばせたい一心で「学校からの帰りに、クリーニング屋の前にイヤリングが落ちているのを見た」と嘘をついた。神様に祈りながら、母と現場に行ってみると、本当に母のイヤリングが落ちていた。
中学生のころ、同級生の井藤宥子と好奇心から深い関係になった。妊娠したのかもしれないと、宥子から告げられたとき、双方の親たちに殺されると思った。どうしようか考えているうちに、宥子は自殺した。また、普通に生活できるようになった。
大人になって、懐かしさのあまり、一緒に柔道をしていた四人で会うことにした。榛名の了解をとったあと、平埜の都合が悪く、日程を八月十七日に変更した。榛名はおそらく暇だから、後から変更を連絡すればよいと思っていたが、そのまま忘れていた。
八月九日に、偶々都合が合ったので、平埜と二人で、池ノ端で会った。池ノ端は、柔道で朝練をしていた思い出の場所だった。そこで、平埜が昔、俺と宥子が仲良くしていたのを、宥子から聞いていたことを初めて知った。
「お前、あのときの真相を何か知らないのか?」と聞かれた。知らないと答えると「今度、榛名と山内にも聞いてみるか」と言った。そんなことをされては困る。あの時のことは闇に葬りたいのだ。気が付くと、護身用で持っていたナイフを平埜の背中の胸の辺りに刺し、その勢いで、池の中に突き落とした。
急いで、逃げ帰った。平埜がまだ生きていて、俺を犯人と言うかもしれない。帰るところを誰かに見られていて、すぐに警察が来るかも知れない。ビクビクしていると、大学時代の友人から電話があった。そいつは警察で鑑識をしていた。
「少し愚痴りたくてさ」
そんな気分じゃなかったが、話を聞いた。
「まだ内緒なんだが、池ノ端で死体が上がってな。死亡推定時刻がはっきりとしないんだ。必要な条件が足りていないんだ。それなのに、刑事の連中は、それを理解せず、すぐに正確な時刻を出せと言ってくる。出来ないとお前の評価は下げるように言っておくと言うんだ。どうしようもないだろ?」
「そうか、本当はダメだと思うが、一番確率の高い時間帯を伝えとけば、一番丸く収まるんじゃないのか? お前が悩むこともなくなるし、評価を下げられることもない」
その言葉が効いたのか分からないが、死亡推定時刻は、実際の殺害時より、一日後に設定されたようだ。翌日のデートでは、念のため、記念撮影を依頼して、映画館にいたことを印象付けていたため、アリバイができた。
警察から電話があったときは、覚悟した。しかし、来たのは若い女性刑事が一人で、どうも自分が疑われている雰囲気ではなかった。あの刑事は、気が強かった。何とか自分のものにしたいと妄想したが、警察を相手にするのは危ないから、気持ちを抑えるように努力した。しかし、二、三か月経っても、あの飴田という刑事の女が気になって仕方がなかった。
勇気を持って、電話して、結婚までこぎ着けた。
本当に、自分はツイていて、運が良いと思った。
榛名には悪いが、自分はそういう星に生まれついているのだから、仕方ないだろうと思った。
4
小窓から差し込む微かな明るさを便りに、飴田羊子は新聞を読む。
この拘置所の小部屋には、殺風景な色合いのベッドとトイレ以外に何もない。
リストから、夫の名前のデータを消した翌日、その行いはすぐに発覚した。
羊子の上司のダブルチェックで、不審な形跡に気付かれたのだ。
夫の足田洋平は殺人容疑で、羊子は犯人隠避罪で逮捕された。
犯人隠避罪は、通常家族をかくまうのは罪に問われないことも多いが、今回は、警察官という職業にあり社会の信頼を失墜させたこと、ならびに、無実の可能性がある榛名孝がすでに殺人の刑に服していることを承知していたことを考慮され、実刑を受けることになった。
子供は実家の父母が預かってくれた。
新聞によると、榛名孝は、誤審により、国から数千万円の補償金を受け取ることになったらしい。
私はどうしたらよかっただろう?
じっくり考えよう。出所まで、まだ長過ぎる時間がある。
(了)