気ままに易教
易経とは、中国古典、四書五経のうちの一書。
人によっては、上記の中で「最重要の書物」とも言う。
(筆者はまったく知らなかったが)唐の太宗の名臣、虞世南曰く「易を読まざるものは宰相と為すべからず」とあり、「易を学ぶものに大過なし」「善く易を修める者は占わず(占いの必要がなくなる)」とまで語られる書物である。
八卦六十四卦("当たるも八卦、当たらぬも八卦”と言われるあれである)をもって、天地間無限の事物の根本(陰陽)を解き明かす。
太陽は東に出て西に没し、昼は明るく夜は暗く、春に花が咲いて冬に雪が降る。親は子を愛し、子は親を慕う。
陰陽ともに例外(逆転の相)を含むが、根本においてこれほど簡易なことを現在の世相において反映、繁栄できない人間がいるのは、複雑なものに価値を見い出しすぎ、歴史の先人が血を流して勝ち取ってくれた己の充分な足場を理解せず、ただ目の前の情報から肥大した欲に踊らされているからである。
……偉そうなことを書いてしまったが、これは「たとえ自分が正しくとも、半ばで争いをやめれば吉、最後まで争い抜けば凶」という、通信販売の「聞いて学ぶ易経」の文句に心を惹かれ、それを買う生活的余裕がなかったために、相当解説が難しい(おそらく、中国古典における事前知識がないと全ての理解は不可能であろう)岩波文庫「易経」(高田真治·後藤基巳訳)を読まざるを得なかった筆者の、引用解釈集である。
もちろん、上記が優れた書物であることは間違いなく、始めは自分のためにメモをとる程度であったが、「占いの一節にしては、あまりに世界の人類文化の普遍的事態と、その解決を著してないか!?」と驚いたために、これを未来の社会的重責を担う立場に立つ、若者に贈りたい。
そして、今現在そのような立場に立っている方に対しても、多大なる恩恵がある、将来犯すことになるかもしれない失態を防いでくれる内容であることは、冒頭の虞世南が保証してくれている。
惜しむらくは、これを簡易にまとめ上げた筆者が未熟であり、その解釈が他の「易経」関連の書物とは、少なくない部分で一線を画する内容であることである。
しかし、兵庫県赤穂郡、上郡町町民図書館(以前は「図書室」であったが、どうやら出世したようである。設備は進歩したが、部屋は変わっていない)の司書の方々が、読むのがあまりに遅い筆者の、半年を超えたと思われる「延長」申請に辛抱強く、いつも笑顔で応えてくださった賜物であるので、読んで下されば幸いである。
ーー易経ーー
人の生は、天命を知って、これに安んじ、楽しむにあるーー
ほとんど悟りに近い言葉。
他者と己を比べることに始終することもある人間だが、持って生まれた役割は、人それぞれにあまりに違う。
上には上にしか分からないストレスとプレッシャーがあり、己の度量を超えたり、道を踏み外してしまった人間には、たびたび自殺も生まれている。
下(人間的に下なのでなく、役割便宜上の下)には、それを確かに成し遂げる者には感動を与え、感動を得る生活がある。
自身の目の前にある物事、そして人に誠実に相対する者には、それぞれに応じた、終生の幸福がきちんと約束されている。
潜竜用いるなかれーー
どんなに高い能力を持っていようと、自然にではなく、無理にその人間を引き上げようとしてはならない。
たとえ陽剛の徳があっても、最下の地位にいる理由があるのだから。
亢竜悔いありーー
亢竜とは、天を昇つめて降りることを忘れた竜。勢位を極めておごり亢ぶれば、かえって悔いを残すことになる。どのような人間も、その引き際を見誤れば、末期は憐れなものである。
霜を履みて堅氷至るーー
陰気の始めて生ずる時、その勢いはなお微弱であるが、放置すればやがて強盛になるため、早くにこれを警戒すべきである。
雲、天にのぼり、雨降らんとする時を待つーー
君子はいたずらに焦る人生を送ることはなく、飲食宴楽して時節の到来を待つべきである。
勿論、普段から無理のない範囲での努力癖が染み付いていない人間には、恐ろしい勘違いを生む助言である。
時には王命を奉じて事に従う場合にも、あえてその成功に居ることを成さず、終わりを全うすることに心がけるべきであるーー
ほぼ全記そうだが、これも占いの結果の一つ。引き際を知らない、老害たる政治家、大企業人などに学んでほしい言葉である。
たとえ自分が正しくとも、それなりの結果で矛を収めれば吉。最後まで争い抜けば凶ーー
訴訟に関しての言及。しかし、人間関係全般においての普遍の考えだと思われる。相手も、相手なりの理由の流れで生きているのであり、その流れを完全に遮断しようとすれば、こちらの人生も同様の状態になってしまう。
論功行賞においてーー
上位者は、それぞれにふさわしい褒賞を与えるべきであるが、たとえ功績があっても、小人(普段の心がけがなっていない者)を上位任用してはならない。後に、必ず組織を乱すようなことをしでかすからである。
互いに親しみ合い、助け合う人間は、よくよく吟味しなくてはならない。大いに永く貞正(節操が固く、心の正しい)なる者を選び得てこそ、咎のない人生を歩める。
このようにすれば、不安を抱いて近づいてくることのなかった者もやがて慕い寄り、周囲がそうなってもぐずぐずして後れを取るような人間は、凶であるーー
簡単なようで、実行するのはなかなか難しい友選び。本文は、国治めのための助言だが、自身に崇高なーー自分だけのためではなく、他者のためにも意味のあるーー目標があってこそ、可能な友選びなのかもしれない。
女性は、安易に男に貞生を乱さず、あくまで本来の夫たるべき相手に対して貞操を守っていれば、やがて10年の後にはふさわしい夫たるべき人から求婚を得て、幸福に恵まれるだろうーー
おかしな男や、倫理に反する男と関係を持ってしまえば、未来の、自分にとって本来ふさわしいはずだった相手との縁が切れる(こともある)、ということである。相手が既婚者であることを隠していたような場合は、女性に咎はない。だが、早々にそういった男と縁を切らねば、将来婚姻を経て家庭を得た自分に、同じ事態が降りかかるかもしれない。
自ら道を外れ、人心を傷つけた男性には、それなりの報いが約束されている。
どのような平穏な社会の中で暮らしていても、物事の道理として、平らかなものはやがて傾き、往くものはやがて復らずにはいられない。
いたずらに安逸をむさぼらず、おのれの誠信が通ぜぬことを憂えず、ただただその誠信に徹すれば、永く食禄を享けて幸福であり得ようーー
時流によって態度、真っ当な生き方をみだりに変えないことを説いていると思われる。
誠実な人間は時として愚直、馬鹿にされるが、長く、末の幸福を願うなら、間違っていない生き方だと思われる。(近づいてくる悪を判断する学びは、終生必要だが。さらに、時流によっては「君子がいかに貞正を守っても、よろしい所がない」そういった時期は、身を慎み潜めるべきである、という文言も、別の占いで何度か登場している)
柔順利貞は、君子の行うところなり。先んずれば迷いて道を失い、後るれば順いて常を得ーー
人の先に立って行こうとすれば、かえって迷い道を失うが、人の後に従うように心がければ、順当で常道にかなう。
…すべてのケースに当てはまるわけでもないが、優秀な人間は、過信して人の意見を聞かない場合がある。組織の一員としてなら特異な力を発揮することもあるが、首長となると話は違う。
そのような限られた者の一見辣腕な独自の判断より、自然と生きることが道を切り開く歩みにつながる者に先をゆずり、新たな道を後に続く多くの者に対して整備し、益とすること、または後方集団、組織の全意見をまとめて出した地味で穏当な決断の方が、永く良い結果をもたらすこともある。
ごく一時期の大きな好機の波が見えたとしても、短期的な高利益は目先の短慮な消費に繋がり、その消費の勢いはしばらく治まらなくなることもあるので、大流に対しては流れるにまかせ、さほど固執しない方がいい。
同条の中に、牝馬の従順さは、地に類するが、同時に地上をどこまでも走り抜ける脚力のすこやかさを備えている、とある。
空を見上げる馬は、竜を羨むかもしれないが、『亢竜』の言葉にあるように、人並みはずれて優れた者も、いつかは地上に降りなければならない。自分の能力を侮らず、できることを継続する馬ならば、竜よりも遠方へ駆けることもあるのではないか。
善行を積み重ねた家では、その福慶の余沢が必ず子孫に及ぶし、不善を積み重ねた家では、その災禍がひいて必ず子孫に及ぶ。
臣下の身でその君主を弑したり、子たる者の身でその父を弑したりするような大それた行いも、決して一朝一夕におこるべき事態ではなく、その由来するところが漸次に積もり積もってそうなったのであり、早いうちにしっかりその事態を見定めて適当な処置をとらなかった結果である。
前記に「霜を履んで堅氷至る」とあるのも、物事は積もり積もって大きくなるということを言ったものであるーー
ほぼ参考文献通りで、解釈を挟む余地のない文だと思われる。もちろん、どのような場合においても、常に例外のケースは存在すると思われるが。
天地が感応せず、閉じ隔てられれば、上下の意志も流通しないから、このような時期に際すれば、賢人たる者も隠遁のほかはないーー
(賢人が)身を謹むべき時節を述べた言葉。陰(古来あった、女性の陰と呼ばれたような存在形式ではなく、闇を含めた、世間に広く通暁のない、自己都合でものを述べる人間や、私欲のままに立場や権力を使用する人間)の勢いが盛んになって、陽とまぎらわしくなれば、必然的に陰と陽は争うことになる。
本来、己を含めた世間の成り立ちの基盤であるような存在の陽に、自己都合(矛盾を受け入れなければ前に進めない部分がある、その時点での社会を理解せず、正しさだけを振りかざす感情)で動いているような陰が争いをしかければ、世間は荒れる。そのような場合には、真の賢人の理屈など、まず理解されない。休養、そして己をさらに磨くべき時間だと割り切って、能力を発揮する時期を待つだけである。戦える余地があるなら、社会の荒れた混迷に苦しむ多くの人を救う意味でも、戦う価値はあるが。
人と和同するには、広野においてするごとく、公明正大であるべきである。そうであれば亨るし、大河を渡るような大事を決行してもよろしいーー
人との関係の上に、大事を成すべきことがあるのなら、コソコソと行うことは後の破綻につながる。逆に言えば、堂々と胸を張り、共通の志を持つ仲間と、往来で笑顔で夢を語らえるなら、それはどんなに時間がかかっても成し遂げられることかもしれない。万一かなわなくとも、その意志を継ぐものが現れる。
嘘をつく必要のない友人は、本当に得難いものである。
天の道は、満ちたものを欠いて謙(足らざるもの)を益し、地の道は、満ちたものを変じて謙に敷きおよぼし、鬼神は、満ちたものを害して謙に福を与え、人の道は、満ちることを憎んで謙を好む。なればこそ謙遜の徳ある人は、高い位についてますますその徳の光を増し、低い位にあっても、その徳のゆえにこれを侮り越えられることはないーー
君子にして、終わりを全うする所以である。強く言えば、謙遜の徳なくして、終わりを全うすることはできないということだろう。別項に、「大いに所有すること自体はもとより結構ではあるが、結果とかく驕慢におちいりがちであるから、常に内省して慎めば咎なきを得る」とある。人は、傲慢の果てに災禍を得るより、己が謙虚でいられる分量のみを持つのが、幸福の基本かもしれない。
どのような高尚な志も、極まれば驕慢になりて凶ーー
たとえ道半ばといえど、その万民を思う心と行動に、人の応を得て気が驕り、逸楽し懈怠して、心中のよろこびが声貌にまで現れるに至る。凶である。
志が成って、目も当てられない傲慢な人間が生まれることもあるが、こちらはその道程にすら危険が潜む模様を差す。ほとんど原文、引用文の形を逸脱しているが、筆者にはそのように感じられた。
年少の若者に溺れれば、りっぱな夫を失うことになるーー再び女性に対する一占。「胡楊に華を生じたとて、どうして長く咲き続けることができよう。老婦に士夫というのは、やはりよろしいことではない」とも。
女性には、その歳それぞれの落ち着きによる美しさがある。時代が変わっても自身への変わらぬ称賛を求め続け、年齢相応ではない、周囲が眉をひそめるような男女関係を持つのなら、それは男性であっても女性であっても、当然の報いの帰結に陥る。
ちなみに、男性にももちろん、「性の枯れるような老人が、脳欲のままに年若い女性を得るのはよろしくない」というような教えもある。周囲が驚くような関係なら、まだ幸福の芽はあるだろうが、いぶかしがられるような関係は、その時は燃え上がっても、結果ろくなことにはならない。恋は身体からくる情動と繋がっており、人が人として築いてきた文化の生活を逸脱し、自分の人生を貶めることにつながることもある。一個の人間として、相応の幸福につながる相手を得たいなら、その関係が自分以外の者に対して胸をはれるかというのは、大切なことかもしれない。
地が堅固ならば山もまた安泰である道理にかんがみて、君主は民に厚く恵みを施し、自分の居る地位をも安泰にすることを心がけるーー
己の富を(豊かさを、贅沢することだと勘違いして)追求して止まない、愚かな経営者、政治家、企業役員等、人の上に立つ人間に知っておいてほしい教訓。厚い恵みを施せば増長するような小人も世の中にはいるが、そういう小者は放っておけば、やがて自滅するものである。
天が引き留められて、山の中に在るのが大畜である。この卦象にのっとって、君子は過去の聖賢の言行を多く認識し、その徳を畜養することにつとめるーー
時に洗われてもなお、現在に教訓として残されている言葉は、個々それぞれの偉人の言ではあるが、歴史の経験知によって生まれた結晶と言っていい。それを学び、理解でき、実践に応用できる者は、多くの未来の危険を回避し、また、他者が惑う中、光明を見定めた道を歩めるのではないか。
本来ならば徳あってその正を養うべきであるにも関わらず、神明の霊亀にも比すべきおのれの明徳を放棄し、対応する我を観て養われんことを求め、頤をたれて物欲しげにふるまう。凶であるーー
本来自分がすべきことを放棄し、周囲よりも自分の安楽、欲を優先させる人間の末路。凶の一言であるらしい。人は、身近な他者にどう思われようと、人のために動いている、仕事をしている限りは、社会に尊重される存在である。
自己を優先させて、他者を見下して安心する。
そんな生き方に、周囲は幸福をもたらす笑顔を投げかけてはこない。
人が背負える荷物には、万種大小の差があるが、「自分としてやらなければいけないこと」は、生き続けていれば己の直感と経験、周りからの声で理解できる。
その上で、今やらなければいけない゛目の前のこと゛をないがしろにしないこと。
いつも目の前にいる人は、あなたの未来の幸福に、思いもよらぬ形で繋がっている。
大過は、大なる者(陽)が過ぎるということであるーー
沢(水)が木を滅するように、陰(大地)を、陽(太陽)が滅する現象とも言える。
古来よりの考えでは、男女間においての、男性の行き過ぎという面もある。
本来は草木を養育すべき゛陽゛、水沢がそれらの命を減滅するのは、大いに過ぎた状態であるから、人を治める立場にある人間は、これにのっとって、過ぎたる行為(傲慢、そして謙虚過ぎる付与)を念頭に、荒れた世相においても、俗世を超越して対処せねばならない。
…難しいことであるが、「四書五経」の一書にも加えられている゛中庸゛(バランス感覚)の大事さである。
多くの人の上に立つのなら、基本として備わっていなければならない能力であり、なお、四書「中庸」には、それ以上に゛誠゛の重要さが説かれている。
人の心ーー時の流れによる人心の歴史は、時に現世のバランス感覚を超える重さ、そして未来にまで因果を及ぼす業があるのかもしれない。
履むこと錯然たり。これを敬すれば咎なしーー
行動を起こす始めの時にあたって、錯然(敬い慎むさま)として正道を履むようにする。
どのような分野、例えごく小規模な場所への新たな進出といえども、物事の端緒に行動を慎むことを心がければ、咎はなく、大いに吉である。しかし、己の別分野での過去の社会的貢献にあぐらをかき、新たに進出する場所の先人をないがしろにする行為は、道を狭め、己の立場を苦しいものにする。
自分に応じて助けてくれる者もなく、上下の立場の陽(的存在)に配慮して、いつもはらはらと涙を流し、吐息まじりに憂え悲しまねばならぬ者もあるが、陰柔謙譲の徳を以て慎んでいれば、位を保ち得て吉であるーー
多少強引でも何かを成そうとする人間ではなく、謙虚な生道をのみ歩もうとする者は、ごくわずかしかその悲しみを理解してくれる人間はいないかもしれないが、慎み深く日々を過ごしていれば、社会的立場と平穏な生活、自己にとっての充分な豊かさは、守られる。
象伝(付記のようなもの)に、「こういった者が吉なのは、陰柔を持って君位について、他者を立てることに配慮し、公(陽)を用いるため」とある。
国家を正すため、王者たる者が剛毅聡明の徳をもって悪の征伐を行なうのであれば、首魁を誅殺し、良き手柄を立てることもできよう。しかも残虐な行いを避け、敵のおもだった者だけをとらえ、醜類すなわち雑兵付従の輩にまで処置を及ぼさぬだけの寛大さがあれば咎はないーー
現代ではこのような状況はそれほどないが、組織の上に立つ人間の責任の重さに通じていると思われる。
民衆は時に愚かであり、その上の人間の質によって、征伐する側にも、される側にも変わる。責任ある立場の者は、自分の能力を過信して人の話に耳を傾けることをやめず、人の心を学び続け、素晴らしい仕事を重ねていってほしいものである。
国家の基は家族にあり、家族の基は夫婦にある。「家人は、女の貞しきに利ろし。女、位を内に正し、男、位を外に正す。男女正しきは、天地の大義なり。
家人に厳君ありとは、父母の謂いなり。父は父たり、婦は婦たり、子は子たり、兄姉は兄姉たり、弟妹は弟妹たり、而して家道正し。家を正しくして天下定まるーー
これは、単なる男尊女卑を説くものではない。夫婦男女、おのおのがその特質を発揮し、互いに尊敬、尊重し、その本領を全うせしめ、社会の幸福に寄与し、それを各家が得ることを言うのである。
易は、ひとり家長の暴濫を認めるものではない。そして、ときおり見る中高年の女性の、家外での専横のような態度を望むものでもなく、いま叫ばれている、ことさらな「男女平等」を行くものでもない。性の心、その指向性、心身の能力、価値の違いは、それぞれを尊敬するべきものである。
それを忘れた時、忘れた者に、咎は降りかかる。
日傾くの離なり。缶を鼓ちて歌わざれば、大耋の嘆きあらん。凶なりーー
その個人の輝きがまさに尽きんとする時は、陽がすでに西に傾いた残りの明るさ、人生に即していえば衰余の老年である。
しかし、生者必滅の道理を悟れば、缶(酒を入れる器)を叩いて歌いつつ、残りの寿命を楽しむのが良い。それができなければ、やがてはいたずらに大耋(80歳の老人)の終わりを嘆くことになって凶である。
陽が傾いた残りの明るさは、どうして久しく保たれよう。上下の年代にそれぞれの配慮を巡らし、あとは己を受け入れられれば、世界は楽園に変わる。
ーー読了感謝!
持論を展開しすぎたため、後に削除になるかもしれない部分も多く、加筆しなければならない条文もあるかもしれないが、とりあえずこれが、今の筆者の全力である。
下巻に続くが(また半年以上かかりそう)、読み進めるにつれて抜粋箇所が減っていった気がするため、あまり実のない内容になるかもしれない。
それでも、またこちらでお会いできれば幸いである。
※本文の責は、勿論であるがすべて筆者に帰属する。
以下の参考文献(たった一冊!)に、気ままに付記を述べさせていただいた、久賀広一の勝手さの表れである。
(編集)引用、参考文献【岩波文庫「易経」(高田真治·後藤基巳訳)】
多くの学びになった。本当に感謝。