薄くて分厚い雨の向こう2
そのお社は、夏でも涼しい御山の中にひっそりと佇んでいた。
伸び放題の雑草を見るに、長らく人の手が入っていないのは明白だったが、何故か朽ち果てる様子もなく静かな御山の中でもことさら涼やかに存在していた。
「来ったよー!狐さーん!こーんこんっ!」
がさごそと茂みをかき分けて、17,8歳程の少女がお社の前に顔を覗かせる。
楽しそうにこんこん、と扉を叩く音なのか狐の鳴き声の真似なのか分かりかねる声をあげて。
するとどこからか一陣風が吹く。
顔を撫でる風の感触に少女がその瞼を下ろす、と。
「来たね」
低く、滑らかに、楽しそうな響きが存分に含まれた男の声が周囲に木霊する。
ぱちりと少女が瞼を開くと、目の前には確かに瞼を閉じる一瞬前までは居なかった筈のその存在が居た。
姿形は人間の青年のそれだが、大きく尖った耳に、たっぷりの艶々とした尾をしなやかに揺らすそれは恐らく、妖狐と人に呼ばれる化生の類。
「狐さんっ!こんにちわ!」
その姿を瞳に写すや、少女はぱああと頬を赤らめて妖狐の元へと駆け寄る。
その少女の姿に、妖狐はかつて少女が自身の足元をちょろちょろと動き回ろうとする小さな塊をだったのを思い出し微笑む。
妖狐はするりと少女の手を取り繋ぐとゆっくりとお社へ向けて歩き出す。
かつてゆらゆらと怪しく揺れる妖狐の尾を楽しげに目で追っていた少女は、きらきらと輝く星を閉じ込めた瞳で妖狐の吊り気味な鋭い瞳を見つめる。
「さぁて、今日はお前さんの母さんは夜遅くまで帰らないのだっけ」
いつの間にか開いていたお社の戸をするりとくぐる。
「うん、今日もお母さん夜勤で明け方まで帰ってこないの」
緑色の美しい畳の上に妖狐は腰を下ろす。今度は妖狐が怪しく光る瞳で隣り合って腰を下ろした少女の瞳を見つめる。
それを真っ正面から受け止めて、尚嬉しそうに笑う少女に、妖狐は満足そうにその切長の美しい双眸を細める。
「じゃあ今日はずっと長く一緒に居られるね」
「ほんと!?嬉しい!」
少女は妖狐の腕に自身の腕を巻き付けて喜びを全身で表現する。
そんな少女を笑って受け入れていた妖狐がふと、ぐっと少女に顔を近づけて囁くように言葉を紡ぐ。
「なぁ、お前さん、覚えているかい?」
「え?」
するすると、音もなく戸がひとりでに閉じる。
するといつの間に用意されたのか、もしくは始めからあったのか、それは上等な白無垢が妖狐の背後の#衣桁__いこう__#にふわりと風もなくその衣を揺らして佇んでいる。
「…え?それ…」
「約束しただろう?お前の輿入れの時には、うんと上等な着物を用意しようって。淡雪より白く、天女の羽衣より薄く、赤子の肌より滑らかな、お前だけの為に拵えた白無垢だよ」
妖狐は少女を衣桁の前まで促し、それを軽く羽織らせてやる。
大きな姿見が、白無垢を肩に羽織った少女と満足そうな妖狐の二人を写す。
「ああ、思った通り、お前さんになんと似合う…。どうだい?気に入ったかい?」
「……凄い、綺麗…。うわぁ…。き、狐さん!本当にこれ私が着ていいの!?」
「何を言う。狐はそれは情が深い生き物なんだよ。お前さんの為だけに作らせた着物を、他の誰かになんて羽織らせるものか」
「えへへ…ずぅっと狐さんと一緒に居られるのね。嬉しい」
「着物に似合う紅も探さないとね。ご馳走も用意して、嫁入りの準備をすぐにでも整えよう」
一人と一匹の楽しげな話し声が聞こえてくるお社の周囲には、青白い炎がゆらゆらと揺らめいては消え、揺らめいては消え。
薄くて分厚い戸の外側、こちら側は珍しくぱらぱらと天気雨が降り続いていた。